アニメ『どろろ』(→公式サイト)。今日3月4日(月)22:00より、TOKYO MXほかで、第九話「無残帳の巻」が放映される。

Amazon Prime Videoで毎話24:00頃から配信予定。
「どろろ」遂に名前を呼んだ百鬼丸「いい匂い」と「いやな臭い」を獲得して8話
EDテーマ「さよならごっこ」amazarashiジャケット

エコーロケーション


七話に続いて完全オリジナル。戦闘シーンかなり多め。長い敵を腹の中から切り裂くのは、少年漫画的で爽快。「うしおととら」や「ゲゲゲの鬼太郎」のよう。
抜刀も、岩に挟んで腕を抜くという、新しいバリエーションでかっこいい。
身体の欠損を、アクションと物語にどう生かすか、かなり練られているのが「どろろ」らしさ。


「残され雲」と呼ばれる鬼神。身体から雲が出続けて、回復し続けるという厄介な相手。
最初の邂逅では、この雲が周りを覆ってきたせいで、百鬼丸は初めて「何も見えない」という状態に陥る。
(普段は生きている物と、悪意を持っているものが、オーラ的に感知できている)

このへんが原作の、超人的センスで何もかも補えているのと、全く違う部分。
アニメの百鬼丸は、感覚は鋭いけれども、見えないものは見えない。ちょっとしたことで何もできなくなってしまう。


1人で延々と石を投げ続ける百鬼丸の描写の、ミスリードの誘い方が面白い。
「一旦負けた」という流れのため、ネットの視聴者の反応は「いじけている・ふてくされている百鬼丸」という感想が多かった。あるいは「投げる技術の練習」説など。

後の戦闘中のナレーションで、音の跳ね返りで距離を測る練習をしていたことが明かされる。
そもそも考えてみれば、百鬼丸はまだ怒りと、ちょっとした笑い以外、感情が芽生えていない。負けたから悔しいとかは、今まで考えたこともない。

気持ちがモヤモヤしていじけるという感情は、少なくともまだ感じていないはずだ。

イルカやクジラやコウモリが行う、反響で物体を測るエコーロケーション。
目が見えない人の中にも、舌打ち音で物の位置を測ることのできる人は実際にいる。
百鬼丸が本能的にそれを学習し、戦いで使用して勝った。
人間は、身体的困難を克服する術を探すことができる、という描写だ。
反響を知るため石を延々と投げ続けている、すぐに習得できない、というのは描く側のちょっとしたこだわりだろう。


名前の価値


百鬼丸に声が戻ってからも、なかなかしゃべれないままなのは、描写に丁寧さを感じる。
そもそも耳が聞こず目も見えなかったから、言葉をちゃんとは理解できていない。
生まれてから話したことがそもそもないから、発声の感覚がつかめていない。痛みに対しての叫びもうまくできていない。
段階を踏んで慣れていく様子を、ちゃんと表現する覚悟のようだ。

百足に生贄にされた村の女性と、彼女が優しくしていた山に1人で住む少年「さる」。
「そうだ、名前! 新しく考えないと」
「さるでいいよ」
「だめ! 名前は大事なんだから」
妖怪退治をしたことで幸せになれた二人のやりとり。

これを聞いていた百鬼丸が、今までぼんやりとしか発していなかった言葉を頑張ってまとめ、「どろろ」と名前を呼ぶ。
百鬼丸が意識して口にした、初めての言葉だ。

百鬼丸が名前を呼べたのは、「大事」という、自分の中の価値を知ることができたからだ。
今まで百鬼丸が、何らかの価値を感じていた物・相手はほとんど描かれこなかった。
自分の身体のパーツですら、神経が戻って痛みを感じてなお、扱いは雑。
五・六話で、歌ってくれたミオに対して生まれた感情が、おそらくはじめてだろう。


「大事なもの」には、「大事な名前」がある。
学習をした百鬼丸が、どろろの名前を呼んだ。
回を重ねる度、百鬼丸に少しずつ、「大事なもの」が生まれている。

いい匂い、いやな臭い


温泉が舞台だったことが、嗅覚の描写に一役買っている。
嗅覚が戻った百鬼丸。硫黄の立ち込める臭いで、咄嗟に顔を覆う。

聴覚が戻ったばかりの時、情報量が多すぎてパニックになったことがあった。
その点、温泉の硫黄の臭いは刺激が強くシンプルだ。身体的にもいいものではない。

その後、彼はもらった花の匂いをかいでいる。
嗅覚が戻ってびっくりしたのではない。
「いい匂い」と「いやな臭い」という好みが、彼の中に生まれている。

聴覚復活時にミオの歌声を好み、聞いて安らいでいたように、「好き」「嫌い」という感覚は感情をを育てる。
聴覚の時は、初めて聞いたのが、自分が殺した親族の悲しみの泣き声。初めて出た声は、脚を食いちぎられた時の痛みの悲鳴。
それに比べれば、初めてかいだ臭いが硫黄だったのは、不幸中の幸い。

次の九話「無残帳の巻」は、原作にもあるどろろの過去を描いた、無残な物語だ。
人間の生き方は、ハッピーエンドかバッドエンドかの二択ではない。
誰かが悲しい目にあった回も、誰かが幸せになった回も、どちらも同じくらい百鬼丸は新しいことを学び、成長している。
残虐趣味を見せるアニメではない。だからこそ、人情と信念が強いどろろの両親の話に期待。
問題は、どこまで原作の表現がOKなのか。
えげつないパートも、生命を描くのに重要な部分なので、完全に拾いきってほしいけれども。

(たまごまご)