アントワープ行きの途中でバレた四三の結婚
発端は、旅の途中、四三がことあるごとに旅券に挟んだ一枚の写真を眺めていたのを、彼と同じくマラソンに出場する茂木善作(久保勝史)が目撃したことだった。噂はやがて選手団全体に伝わる。写真にはどうやら女が写っているらしいが、はたしてその正体は……。「マラソンバカの心を射ぬいたおなごとは?」茂木から訊かれて(しかしみんな四三のことを「マラソンバカ」と言い過ぎだ!)、野口は、四三の下宿にやって来て彼に冷水をぶっかけた女(もちろんスヤ[綾瀬はるか]のこと)、ミルクホールの女(四三の向かいの家に下宿するシマ[杉咲花])、さらに女高師のじゃじゃ馬(二階堂トクヨ[寺島しのぶ])の3人のうちいずれかだろうと推理する。そこまではよかったが、「正解は二階堂トクヨだ!」と断じてしまう。まさか当の二階堂は野口に惚れており、見合いを断っていたとはつゆ知らず……。
だが、四三の妻子の存在は、イギリス入国のため船員に預けた旅券の返却時にあっさりバレる。船員から名前を呼ばれたときに、彼の本姓が「池部」だとわかってしまったのだ。嘉納から追及されて四三は、7年前に結婚して池部家に婿養子に入り、昨年には息子も生まれていたこと、そして妻のことは、オリンピックで金メダルを獲ったらみんなに紹介するつもりでいたことをようやく打ち明けたのだった。
ちなみに四三の伝記『走れ二十五万キロ』(長谷川孝道著、熊本日日新聞社)によれば、船中で四三がスヤの写真を見ていたことから噂になったのはドラマで描かれたとおりだが、史実では、ほかの選手たちに問い詰められて告白したらしい。『いだてん』ではこれまでに、四三が「かなぐり」と呼ばれるたびに「かなくり」と訂正したり(第20話でも東京高師の永井道明と再度そういう場面があった)、結婚したばかりのスヤのことを呼び捨てするか、さん付けするかで揺れ動いたりと、呼び方の違いで登場人物のアイデンティティや周囲の人との関係性が示唆されてきた。それだけに、四三が結婚して婿養子になっていたことが、旅券に記載された名前で発覚するというのは、『いだてん』ならではの改変といえる。
前回日本が参加したストックホルムオリンピックでは、四三たちは西回り、シベリア鉄道経由で向かったのに対し、アントワープ行きは東回り、太平洋から北アメリカを横断して大西洋を渡り、ロンドン経由でヨーロッパに入った。これは、アメリカの在留邦人から寄付を募るという目的と、若い選手たちにスポーツ大国と呼ばれるアメリカの現状を見学させたいとの嘉納治五郎の主張があったとされる。ちなみに三島弥彦がこのとき四三と再会したのは史実どおりながら、その場所はアントワープではなく、横浜正金銀行に勤める彼の赴任先のロンドンだった。
ところで、アントワープオリンピックに出発にあたり、壮行式の場面が出てきたが、これは一体どこだったのだろうか。ストックホルムの壮行式は新橋駅で行なわれたのに対し、このときにはすでに東京駅が開業していたが、どうも背景の建物が違った。なお、アントワープオリンピックの監督となった、東京帝国大学陸上部出身の弁護士・辰野保(安楽将士)は、東京駅丸の内駅舎を設計した建築家・辰野金吾の長男である。
大荒れの報告会をスヤが一喝
日本選手団は1920年8月3日にアントワープに到着、同月14日に開会式が行われた。ドラマでは、白いブレザーを着た四三たちがスタジアムへとのぞむところで、一気に3ヵ月飛び、帰国した選手たちによるオリンピック報告会の場面へと移る。報告会にはスヤと兄の実次(中村獅童)も聴きに来ていた。だが、肝心の四三も、選手団長の嘉納治五郎もまだ帰国しておらず、欠席だった。
アントワープで日本選手が戦う姿は、先に帰国した野口らの報告という形で、回想シーンを交えながら描かれた。テニスで熊谷一弥(くまがいいちや)がシングルスで、また柏尾誠一郎(かしおせいいちろう)とともにダブルスで銀メダルを獲得し、日本勢初のメダルをもたらしたとはいえ、ほかの競技は惨敗だった。野口は自ら望んで十種競技に挑んだものの、総合得点は総合得点3669点で最下位に終わる。
競泳では、100メートル自由形に出場した内田正練(葵揚)と斎藤兼吉(菅原健)ともに予選敗退だった。すでに世界の競泳界はクロール一色で、静かに体力を消耗せずに泳ぐことを第一とする日本泳法では太刀打ちできなかった。ちなみにクロールは、ストックホルムオリンピックの100メートル競泳でハワイ出身のカハナモクという選手がこの泳法で優勝したのが始まりとされる。アントワープでは、じつは斎藤も外国選手に刺激されてクロールで泳いだといわれるが、内田はドラマで描かれたとおり片抜き手で泳いだ(『人間 田畑政治』ベースボール・マガジン社編・発行)。内田は浜名湾出身で、『いだてん』のもう一人の主人公・まーちゃんこと田畑政治の先輩である。第20回で田畑は東京帝大に入学し、演じる俳優も原勇弥に変わったが、壮年期を演じる阿部サダヲと原があまりにそっくりなのには驚いた。
さて、四三の出場したマラソンは、一時はオリンピック種目から外されながらも、日本のメダルが期待されたこともあり、嘉納がIOC会長のクーベルタンへ直々に懇願の手紙を送って復活した。しかし、それにもかかわらず、日本勢は四三は完走こそしたものの16位に終わり、ほかの選手も東京高師の茂木善作が20位、小樽中学の八島健三(國友久志)が21位、早大の三浦弥平(福山康平)が24位と惨敗だった。
アントワープオリンピックのマラソンは、これまで『いだてん』に出てきたレースがロケ映像をメインに描かれていたのとは違い、すべてスタジオ撮影だった。第一次世界大戦により荒廃した市街地を、セットとプロジェクションマッピングで再現しながら、そのなかを選手たちが走っていく。先に帰国した後輩たちは報告会で、四三がレース初盤、自分たちに「よかペースばい。
雨のなか、疲労困憊しながらゴールする四三の姿がモノクロで描かれる。ゴールでは嘉納が待っていて、彼を抱きかかえる。記録は2時間48分45秒。報告会で後輩たちは、口々に「金栗さんを責めないでください」「金栗さんのおかげで完走できました」と涙ながらに訴えるが、聴衆の非難はますます激しくなり、ついには「この非国民が!」という野次まで飛んだ。
そこへ二階堂トクヨが現れると、四三が無様に負け、国際社会に赤っ恥をかいたこの責任を誰がとるのかと訴える。8年前、ストックホルムオリンピックの報告会で見られたのと同じ光景だ。会場に罵声が飛び交い、すっかり混乱するなか、「せからしか!」と一喝したのがスヤだった。
第1世代の引退と時代の変化
第20話では、日本の体育・スポーツ界の第1世代ともいうべき人々があいついで一線を退いた。永井道明(杉本哲太)は、オリンピック監督を自ら辞退し、もう肋木やスウェーデン体操の時代ではないと、次代の体育教育を弟子の二階堂トクヨに託す。そして嘉納治五郎もまた、アントワープオリンピックを終えて、永井に大日本体育協会の会長を辞する意向を伝えていた。永井と二人きりで肋木にぶら下がりながら、嘉納は「日本が世界と肩を並べるのに50年はかかると君は言ったね。うん……たしかにそうかもしれん。金栗さえ歯が立たんとは。重要なのは、その50年後、100年後……」「50年後、100年後の選手たちが運動やスポーツを楽しんでいたら、我々としてはうれしいよねえ」としみじみと語った。
ドラマでは描かれなかったが、このとき、天狗倶楽部のリーダーだった押川春浪はすでにこの世になく(1914年没)、かつて羽田運動場の建設に奔走した中沢臨川も、アントワープオリンピックの開会式の直前、1920年8月9日に亡くなっていた。報告会での「この非国民!」という野次に表れていたように、それまで一部の人々の楽しみであった競技スポーツが国家の威信と結びつき始めたのが、日本が第一次大戦で勝利した直後のちょうどこのころなのだろう。永井や嘉納の引退は、そうした時代の変化を象徴しているともいえる。
そのころ、四三はヨーロッパを傷心のままさまよううち、因縁の地・ベルリンにたどり着く(史実では一緒に五輪に出場した三浦弥平と蓮見三郎も同行したが、ドラマでは一人旅として描かれている)。半ば投げやりになっていた彼の前に、どこからか槍が飛んでくる。あたりを見渡せば、何と、若い女性が投げたものらしい。はたしてそこから四三は何を感じ、日本に戻って何を始めるのか。女性のスポーツへの参加という、もう一つの時代の変化が描かれようとしている……。
それにしても、四三の旧友・美川(勝地涼)は相変わらずのちゃらんぽらんぶりを発揮している。スヤから四三宛ての手紙(アントワープではなく東京の下宿に送られていた)を盗み読んだかと思えば、報告会ではスヤに「誰ですか?」と知らない人扱いされる始末。ひょっとして、このまま忘れられてしまうのか? とも一瞬思ったが、美川のことだから、きっとこのあともしぶとく登場するのではなかろうか。
(近藤正高)
※「いだてん」第20回「恋の片道切符」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:大根仁
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。