朝倉かすみ『平場の月』(光文社)
大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』(文藝春秋)
窪美澄『トリニティ』(新潮社)
澤田瞳子『落花』(中央公論新社)
原田マハ『美しき愚か者のタブロー』(文藝春秋)
柚木麻子『マジカルグランマ』(朝日新聞出版)
作者が全員女性だったことで話題になったが、後に記すとおり過去に何度も名の挙がった人たちばかりである。朝倉かすみは今回が初だが、これまで候補にならなかったことがおかしいと思う。女性だから選ばれた、というわけではもちろんなく妥当な結果だろう。この件について別の場所で取材を受けたが「では、男性ばかりが候補になったときも同じことを聞くのですか」と問い返したら、苦笑いをされた。そういうことだ。
今回の候補作でおもしろいのは、作品を並べていくと緩やかな共通項のようなものがいくつか見出せることである。今を見据えて小説を書こうとするときに必ず浮上してくるであろう物事が、図らずして複数の作品の中に顔を出したというべきか。
以下、簡単なレビューと私なりの予想を書く。
芥川賞予想はこちら
朝倉かすみ『平場の月』(光文社)
中学時代の3年間同級生だった須藤葉子と偶然再会した青砥健将は、彼女と共に人生の新章を歩こうとする。もう五十路に入る二人だから、お互いにさまざまな経験をしてきている。恋愛だからといって単純にはしゃぐような年齢ではないのだ。青砥も須藤も共にパートナーとの別れを経験している。そもそも青砥は須藤に「いまだれとも」付き合う気はないと中学時代に交際を断られたのだが、今になって気の措けない話し相手として「もってこいだ」と近づくことを許された。
人生の後半戦に入った二人を描いた小説だから、当然前方には死というものも見えている。青砥は胃の内視鏡検査で引っ掛かって再検査のために訪れた病院で、売店で働く須藤と出会ったのだった。誰もがのうのうと生きていられるわけではなく、老後というものに真剣な思いを馳せなければならない、住みにくい現代の日本ならではの物語である。
私が個人的に嬉しかったのは落語「幾代餅」がモチーフとして使われていることで、後半に仕掛けられたツイストの中であの噺が重要な意味を持つのだ。男はいつも女の気持ちがわからない朴念仁、と呟きたくなるなんとも絶妙な落ちであった。
大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』(文藝春秋)
近松といえば門左衛門が有名だが浄瑠璃作者としてはもう一人重要な人物がいる。「妹背山婦女庭訓」を書いた近松半二だ。本作は彼の生涯を描くもので、ここのところ作例の多い芸術家を主人公にした時代小説の一作といえる。半二の代表作は題名にもある「妹背山婦女庭訓」であり、同作の成立が物語の大きな山場になっている。当時の人形浄瑠璃は歌舞伎に押されて興行の主役からゆるやかに滑り落ちつつあった。その中で半二は落日を食いとめんとして奮闘する。
本作の連載で「オール讀物」で始まったとき、大島真寿美が時代小説を、と意外に感じた。それまでの作品との連続性がなかったからだ。だが通読して納得した。これは文化的遺伝子、ミームの物語なのだ。商家に生まれた半二は、まったくの部外者だったのに浄瑠璃に憧れてその周辺をうろつき、とうとう本職になってしまう。彼の願いは浄瑠璃を再び盛んにすることだが、そのために必要なのは先人が作り上げたものを受け継ぎ、そこに自分なりの新たな息吹を加えることなのである。そのための試行錯誤が「妹背山婦女庭訓」として結実したのだと私は読んだ。半二が主人公ではあるが、その背後には浄瑠璃に携わった人々の影があるのだ。大島が前回直木賞候補になった際の作品、『あなたの本当の人生は』は作家の内奥から小説が湧き上がってくる瞬間を描いたものだった。創作という点で本編はそれとつながっているように思う。書くことについての小説なのだ。
窪美澄『トリニティ』(新潮社)
これもまた表現することについての小説である。かつて出版社に短期間だが働いていたことのあった木下鈴子は、孫の奈帆を自分が働いていた潮汐出版の花形ライターであった佐竹登紀子と引き合わせる。ブラック企業の出版社を鬱病のために休職した奈帆は、先人である登紀子がどのような人生を歩んできたかを知りたがったのだ。すでに隠棲した身である登紀子だったが、若者のために語り始める。登場人物は自分と、藤田妙子こと雑誌「潮汐ライズ」の表紙画を一手に引き受けて名を馳せた早川朔、そして鈴子である。登紀子による長い回想が本作の中核となる。
「潮汐ライズ」のモデルは1964年に創刊された「平凡パンチ」のはずだ。巻末の参考文献一覧を見れば早川朔が大橋歩、佐竹登紀子が三宅菊子であろうと想像ができる。男性が雑誌を作ることが当たり前だった時代に女性が主体として関わることは難しかった。その扉を開くことに貢献した人々をモデルとした女性小説である。「かわいい」ことに縁のない男性編集者に登紀子がその概念を教えるくだりを読めば、彼女たちの闘いはまだ終わっていないことがわかる。描かれている時代は過去だが、登場人物たちには現代の女性の生きづらさが重ねられている。本書の美点は、三人の主人公たちを単純に連帯させず、それぞれの別の方向を向いて生きさせたことだと思う。
澤田瞳子『落花』(中央公論新社)
芸術を愛する人物を主役に据えた歴史小説だ。その点では澤田が最初に候補になったときの作品『若冲』とも共通項を持つ。時代設定は平安期の天慶年間、この時期最大の事件であった坂東における平将門の乱を描く物語である。将門本人を中心に据えず、都からやってきた寛朝という僧侶を視点人物にした点に本作の特徴がある。
寛朝は皇統に連なる人物だったが、父親に冷遇されて仁和寺にて出家した。父・敦実親王は貴人の嗜みの一つであった音楽に精通した人物である。寛朝が高貴な身分の出でありながら辺境の常陸国までやって来たのは、この地にいるはずの楽人・豊原是緒から「至誠の声」の教えを受けるためだ。しかし到着早々、寛朝は国衙が野盗の襲撃を受ける場面に出くわす。都人である彼にはわからない、鄙ゆえの論理が坂東の地には存在するのである。そのときに出会った平将門の豪放磊落な振る舞いの中に「至誠の声」につながるものがあるのではないかと感じ、寛朝は彼に惹かれるようになっていく。
本書の美点は凄惨な現実をも描いている点で、平将門軍による暴虐は戦争というものの理不尽さ、残酷さを見事に表現している。戦が尊い理念の上で行われるのではなく、もっとくだらない、人間の愚かさゆえの代物であることを無惨な描写によって作者は示した。
原田マハ『美しき愚か者のタブロー』(文藝春秋)
戦争の時代を描いた作品、もう一つ。現代美術を愛し、美術館運営の仕事に就いたことがある作者は、これまでにも『楽園のカンヴァス』『ジヴェルニーの食卓』などの美術小説によって直木賞候補に挙げられてきた。今回題材に選んだのは松方コレクションである。
川崎造船所社長の松方幸次郎は戦前に渡仏し、モネやゴッホなど最先端の美術品を大量に買い求めた。それは自身の欲望から発した行動ではなく、私財を投げうって日本に本格的な西洋美術館を建設する夢を松方は抱いていたのだ。しかし戦争によってその事業は中断を余儀なくされた。戦後、松方は没落してこの世を去る。そして敗戦国となった日本の資産として松方コレクションはフランス政府に没収されてしまったのである。本作主人公の一人である美術研究家の田代雄一は、故人の夢を完成させるために松方コレクションを日本に取り戻そうとする。
本作は歴史ミステリーではないが、物語の中に虚構を織り交ぜ、歴史の裏でこのようなことが行われていたのではないか、という関心で読者を惹きつける。しかし主眼となっているのはタブロー(絵画)を中心とする美術品に魅了され、そのために人生を捧げようとする愚か者たちの純粋な情熱だ。その熱さが読者の胸を打つのである。
柚木麻子『マジカルグランマ』(朝日新聞出版)
現代の生きづらさを描いた作品であり、男性優位社会の中で期待される役割を当てがわれる女性たちの抵抗が主題の一つになっている。『トリニティ』と呼応するものがあり、作者自身の過去作『ナイルバーチの女子会』では女子間の見えない闘争として描かれていたものが、今度は外、つまり男性社会への抗議という形で表れたと見ることもできる。
主人公の浜田正子はあまり知名度のない俳優だった女性だ。夫は映画監督だが、今は家庭内別居の状態にある。その浜田壮太郎が自宅で急死したことから話が動く。正子は芸名を柏葉正子に改めて得たCMの仕事で「かわいいおばあちゃん」を演じ、人気を得ていた。しかし壮太郎の葬式である失敗をしたことから炎上騒ぎが起きる。かわいいおばあちゃんとして振る舞っていたのは嘘だったのか、と叩かれるようになってしまうのである。人気の絶頂から地に堕ちた正子が、しぶとく生きようとする姿が描かれていく。
本作の中核にあるものは寛容さを書いた現代の世情だ。役割期待を裏切る者、マナーからはみ出した者は極悪人のように叩かれる。しかしその役割とは一体何なのか。正子は決して共感しやすい人物ではなく、自己中心的な性格である。だがそんな彼女が自分を主張しようとするからこそ、見えない束縛の存在が見えてくるのである。軽快な抵抗小説だが、『本屋さんのダイアナ』のような過去の名作への言及もあるのが柚木らしい本作の美点だ。
栄冠を手にするのは誰か
レビューに書いたとおり、どの作品にも現代の重要な主題が切り取られており、読まれるべき小説だと感じた。時代小説にも現代が反映されている。この中で抜き出る存在を選ぶのは難しいが、固有の文体を持っているという点で『平場の月』を評価すべきではないかと思う。間違いなくこれは朝倉かすみにしか書けない文章なのだ。よって本命は『平場の月』としたい。対抗は女性の生きづらさを立体的に浮かび上がらせる物語構造の『トリニティ』である。歴史もの二作では、過去作の弱点を克服し、物語のダイナミズムと登場人物の内面描写を両立させることに成功した『落花』が優位ではないか。これが穴である。
(杉江松恋)