パク・チソン 写真提供: Gettyimages

サッカー界で成功する選手のタイプが二つあるとしよう。一つは幼少期からの溢れる才能によって成功するタイプ。

もう一つは惜しまない努力によってトップまで駆け上るタイプ。

かつて日本や欧州でも活躍した韓国代表MFパク・チソン(2014年に現役引退)は、間違いなく二つ目の努力タイプと言える。技術の面ではそこまで目立った印象がなくとも、彼は“ガッツ”で最も有名なアジアのサッカーレジェンドとなった。

今回は、そんな韓国の英雄パク・チソンのサッカー選手としての特徴や、イングランド最強チームと呼ばれていたマンチェスター・ユナイテッドでの活躍までの経緯を振り返る。 

パク・チソンの特徴「酸素タンク」

泥臭くも勝つ男。パク・チソンを表すフレーズとしては、これ以上ぴったりの言葉はないだろう。もちろん中盤でもサイドでもプレーできるフレキシブルな選手で、ドリブルやヘディング技術も悪くなかったが、彼を世界のトップ選手にしたのは外でもなく“誰にも負けない精神力とスタミナ”だ。

パクは全ての試合において、前半の開始時であろうと、後半の終了間際であろうと、疲れを見せることなくパフォーマンスをキープできていた。そのため「Oxygen Tank(酸素タンク)」という愛称で呼ばれるまでになった。

その特徴を一番高く評価していたのは、1986年から27年間もの間ユナイテッドを率いていたアレックス・ファーガソン監督だ。そして、パクの活躍を見たサポーターも全員彼に恋をしていたことだろう。

「酸素タンク」と呼ばれた男、パク・チソン。世界トップに到達したアジア人レジェンド
パク・チソンとアレックス・ファーガソン 写真提供: Gettyimages

サッカー選手としてのスタート

パク・チソンは、子供の時からサッカーが大好きでプロ選手を目指していた。

ただ、パス力やドリブルは他の同じ歳の子供たちより格上だったが、体の小ささが理由となりKリーグのスカウトには注目されなかった。当時パクのポテンシャルを信じていた父は、彼に栄養たっぷりの食事を与えるために精肉販売の仕事に就いていたという。

しかし、フィジカルの強さを持たずとも、パク・チソンは所属する高校(水原工業高校)のサッカーチームをリードし、1998年に全国大会優勝までに導いた。

大学(明知大学校)に入学した時には部員が多かったため最初からサッカーチームに入ることはできなかったが、当時の明知大監督(金煕泰)に見初められ、入部予定者ながら特別にトレーニングに参加し始めている。

日本でのプロデビュー

そしてパクがプロになったのは韓国ではなかった。2000年に京都パープルサンガへの加入が実現し、日本でデビューしている。京都での1シーズン目は控えメンバーとして使われるも、J2に降格した2シーズン目からスタメンとして実力を見せ始めた。

最初はボランチというポジションだったが、ウイングとして活躍する場面もたくさんあった。京都ではトータルで76試合に出場し11得点を挙げた。

そして、その活躍から韓国代表にも選抜されるようになっている。

また、京都に在籍中は大阪経済法科大学にも通い、日本語を流暢に話せるようになったという。

「酸素タンク」と呼ばれた男、パク・チソン。世界トップに到達したアジア人レジェンド
パク・チソン 写真提供: Gettyimages

PSVへの移籍

2002年、当時韓国代表監督であったフース・ヒディンクがオランダのPSVアイントホーフェンの監督となり、彼に認められたパクも一緒にヨーロッパに渡ることとなった。

PSV移籍当初、中盤のポジションでプレーしていたパクはあまり活躍ができず、韓国または日本に戻るという選択を迫られるまでに追い詰められたという。しかし、ヒディンク監督が彼のポジションを中盤からウイングに変えた途端、全く別人のような活躍を見せ始めた。パクはサイドで少しの疲れも見せずにハイスピードで走り続け、どんな相手も困らせた。

そして、2004/2005チャンピオンズリーグ(CL)ミラン対PSVの準決勝試合に出場し、パクは世界のトップクラブの注目を浴びるようになった。

決勝に勝ち進んだのはミランだったが、観戦者やクラブ関係者はきっとこう思ったのだ。「サイドで走るあの化け物は誰だ」と…。CLが終わってからパクは、UEFAのベスト11にも選ばれるようになった。

マンチェスター・ユナイテッド時代

PSVでのCLベスト4入りの後、2005年の夏にはパクを獲得したいクラブが山ほど現れていた。そして彼が選んだのがユナイテッドであった。

しかし、パクにとってそれは非常に危険な選択だったと思われる。当時のユナイテッドには国際的なスターが揃っており、プレーできない可能性の方が高かったのだから。

さらに、プレミアリーグで成功を収めたアジア人選手がまだなく、メディアの論調も厳しかった。

しかし、パクはすぐにファーガソン監督にとっての欠かせない選手となった。ユナイテッドのレジェンド指揮官であるファーガソンは彼について「どんなポジションでもいいから、プレーすべきだ」と言った。その言葉通りパクは、ディフェンシブミッドフィルダー、左ウイング、右ウイング、ボランチなど複数の場所で使われ、不思議なことにどのポジションにもフィットしていった。

そうして2012年まで7シーズン、パクはユナイテッドでの目覚ましい活躍を続け、プレミアリーグでは4回優勝し、アジア人選手として初となるCLタイトルも手に入れた。

全ての試合にて限界を超えた姿を見せてきたパクは、30代に入ってから膝の怪我で苦しみ始めた。

「酸素タンク」と呼ばれた男、パク・チソン。世界トップに到達したアジア人レジェンド
パク・チソン 写真提供: Gettyimages

パクの強いメンタルに学ぶ

2014年に終わったパクの現役キャリアは、プロになりたい子供たちに夢を与えている。才能は関係ない。努力とガッツがあれば夢を叶えることができるのだ。彼がやっていたことは「止まらずに走り続ける」というシンプルなことだけだったが、それは誰にでもできることではない。

そんな戦い方をするためには、強いメンタルを持つことが大事だと彼自身が語っている。

「PSVにいた頃、誰もいないロッカールームで一人で頭を抱えて苦しんでいた。ある試合で左足を痛めて、しばらく自分のアピールはできない状況だったんだ。その時ヒディンク監督が僕の前に現れ、僕のメンタルを褒めてくれた。そして、そのメンタルによって僕は強くなると言ってくれた。それで自分を信じることがどんなに大事かを知って、自分のことがもっと好きになったよ。これから何があっても僕は諦めない」

これが疲れを感じない男、酸素タンクと呼ばれたパク・チソンだ。