昨2024シーズン終了後に徳島ヴォルティスとの契約が満了した元日本代表FW柿谷曜一朗(35歳)が、1月18日、現役引退を発表した。

セレッソ大阪の下部組織(U-15、U-18)出身の柿谷は、U-18チーム在籍時の2006年、クラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結びJ1デビュー。
年代別日本代表にも選出され、2006年のAFC U-17アジア選手権では優勝に貢献し、MVPに選出された。韓国で開催された2007年のFIFA U-17ワールドカップでは、チームはグループリーグ敗退に終わったが、柿谷が第3戦のフランス代表戦(1-2)で見せたロングシュートは大会ベストゴールとの評価を受けた。

「ミスターセレッソ」こと森島寛晃氏(株式会社セレッソ大阪代表取締役社長、4月から代表取締役会長)が付けていたことから同チームのエースナンバーとされる背番号「8」を、2013年から身に着けた柿谷(7代目)。しかし、5代目のMF香川真司(35歳)、6代目のMF清武弘嗣(35歳、現大分トリニータ)、8代目のMF乾貴士(36歳、現清水エスパルス)よりも先にユニフォームを脱ぐ決断をした。

ここでは、柿谷のキャリアを振り返り、Jリーグ全体の流れについて考察する。

柿谷曜一朗の引退でJリーグが失ったものとは

C大阪デビュー時、素行不良もジーニアス

柿谷がプロデビューした2006シーズン、C大阪はJ1で17位に終わりJ2降格した。柿谷にとっては出場機会を増やすチャンスだったが、2007シーズンに就任したレヴィー・クルピ監督は香川を重用。一方の柿谷は徐々に素行不良や練習への遅刻を繰り返すようになり、追い出されるような形でJ2の徳島ヴォルティスに期限付き移籍(2009-2011)することになる。

しかし、柿谷にお灸を据えたクルピ元監督(2007-2013)も、その後を継いだセルジオ・ソアレス元監督(2012)も、その技術には舌を巻き「天才」と評した。ブラジル人指揮官らをも認めさせた柿谷は、加えてサポーターからも「ジーニアス」と呼ばれた。

望まない形でJ2でのプレーを余儀なくされた柿谷だったが、当時の徳島の美濃部直彦監督(2008-2011)や、主将だったMF倉貫一毅(2008-2011、2014年引退)からプロ意識を植え付けられた。C大阪の下部組織出身でチームメイトだったMF濱田武(2010-2017、2017年引退)が生活面でフォローし、柿谷のお寝坊癖などの素行を改善させた。

徳島は目標としていたJ1昇格はならなかったが、柿谷は当時を振り返って「選手として死にかけていた俺を救ってくれた」と感謝を口にしている。


柿谷曜一朗の引退でJリーグが失ったものとは

海外挑戦から引退まで

2012シーズン、C大阪に復帰した柿谷は、FWやトップ下としてレギュラーポジションを奪取。中心選手としての活躍ぶりを見せる。ブンデスリーガのニュルンベルクやボルシア・ドルトムント、バイエル・レバークーゼン、セリエAのフィオレンティーナなどからオファーを受けるが、「ゼロ円移籍」を嫌った柿谷はそのオファーを蹴り続けた。

海を渡ったのは2014年7月。柿谷は150万ユーロ(約1億8,000円)の移籍金をC大阪に残し、スイス・スーパーリーグの名門バーゼルに加入する。4年契約を結び、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)にも出場したが、2015/16シーズンに入ると負傷をきっかけに監督の構想外となり、C大阪に再び復帰(2016-2020)。J2を戦っていたチームのJ1昇格に大いに貢献した。

2021シーズン、度重なるオファーに応える形で名古屋グランパスに完全移籍(2021-2022)。中心選手として活躍するが、翌2022シーズンに入ると、左腓骨筋腱損傷などの負傷が相次ぎ、徐々に出場機会を減らしていく。

そこに救いの手を差し伸べたのは再び徳島だった。しかし、前回の移籍時(2009-2011)とは立ち位置は全く異なり、ベテランとして若手の見本となることはもちろん、スペイン人のベニャート・ラバイン監督が掲げるポゼッションを重視するサッカーを体現する存在だった。

しかし、ラバイン監督が1シーズンも持たずに解任されると、柿谷は徐々に序列を落とし昨2024シーズンは無得点に終わり、契約満了となる。2024年11月の契約満了リリース時は「ヴォルティスで体が動かなくなるまでサッカーがしたかったのですが叶いませんでした。
プロの世界なのでこの評価を真摯に受け止めて、この悔しさをバネに大きく飛躍できるように、これからも努力していきたいと思います」と現役続行の意欲を見せていたが、オファーが届くことはなく2025年1月、スパイクを脱いだ。

柿谷曜一朗の引退でJリーグが失ったものとは

Jリーグ全体にクラック不要の流れ

振り返れば、早熟であるが故キャリアの晩年は負傷との闘いだった柿谷だが、彼の引退はJリーグ全体におけるクラック(非常に優れた選手、名手)不要の流れの犠牲となってしまった感もある。カテゴリーを問わず現在のJリーグでは、テクニックで観客を沸かせる選手よりも、泥臭く走って守れる選手が重用される傾向にあることは抗いようのない事実だ。

昨2024シーズン、香川はC大阪でリーグ戦10試合出場にとどまった。清武はC大阪からサガン鳥栖への期限付き移籍を経て、2025シーズンはユース時代から所属した大分トリニータに16シーズンぶりに復帰した。トップ下として清水エスパルスのJ1優勝に貢献した乾でさえも、今シーズンの定位置が確約されていない微妙な立場だ。

カウンターとセットプレーばかりが重視されるJリーグにあって、魅せるプレーがどんどん排除され、柿谷のようなファンタジスタの活躍の場が減る一方であることは、長い目で見ればJリーグにとっての大きな損失だろう。

柿谷のセカンドキャリアはまだ明かされていないが、J1とJ2、海外移籍も経験した上、素行不良による移籍という辛苦も味わったことで、優等生だった元選手とは少し違ったタイプの指導者として開花する可能性があるのではないだろうか。

何せ、現役時代からプレーしながら「テレビゲームのように俯瞰して試合が見えていた」と豪語していたほどの天才肌だ。常人離れしたサッカーセンスは人に教えられるものではないが、本人のようなクラックを生かした攻撃サッカーを志向する指揮官になれるのではないかという期待感もある。
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