
5月25日、鹿児島県市平之町にて、宝暦治水に携わった薩摩義士をたたえる慰霊祭が行なわれた。参列者は県内や岐阜県から集まった約600名。(参照:天皇陛下が皇居の水田で恒例の田植え)
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宝暦治水は、1754年~1755年に幕命により薩摩藩が行なった濃尾平野の治水対策のための工事のことである。濃尾平野には木曽川・長良川・揖斐川の三川が貫流しており、複雑に合流・分流を繰り返す地形であるために、洪水が多発していた。また、美濃では領主が分立しそれぞれの利害が対立し、治水対策が取りづらい状況であった。
その状況の中、幕府は薩摩藩に対し藩の財政を弱める目的で工事を命じた。薩摩藩は家老の平田靭負(ゆきえ)を総奉行として工事に着手し約1年半をかけて完成させたが、この間に多くの藩士が病死したり幕府の仕打ちに怒って切腹したりした。
慰霊祭では、県薩摩義士顕彰会の島津修久会長(島津家第32代当主)が靭負の銅像の前で、未曾有の難工事を成し遂げた義士たちの強い精神力と歴史を受け継ぐ意をしたためた祭文を奏上。参列者が玉串をささげた。