【お笑い界 偉人・奇人・変人伝】#226
桂雀々
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「じゃくさん」「ぽんちゃん」と呼び合う仕事仲間で、テレビやラジオで15年ほどお世話になっていました。会うたびに「ゆっくり飯食いましょうな」「行きましょう行きましょう」と口約束をしたまま、昨年の11月に急逝した落語家の桂雀々さん。
初めて会った日、「漫才作家」と書かれた名刺を渡した時に「漫才書いてまんのん? すごいな! 僕も噺家やけど一番好きなんは(漫才の中田)ダイマル・ラケット先生ですねん。あの漫才だけは笑わせてもらいましたな」「僕も大好きです!」と話がはずみ、先輩の作家と3人で「ダイマル・ラケットを語る会」をやろうと決めたままになってしまいました。
「オカンは子どもの時に蒸発して、オトンはバクチで借金つくって、毎日取り立ての怖い兄ちゃんが来て、その間、見つからんように息を殺して、こたつの布団の中に隠れてたがな。ゴキブリと一緒ですわ! それが今はこうして(落語家として)ご飯食べさせてもうてる。ホンマにありがたいことですわ。人生何が起こるかわからへん。生きてなあきまへんな」と壮絶な子ども時代も笑い話に変えて、屈託のない笑顔で話していました。
昔話を聞いてダイマル・ラケット師匠を「あの漫才だけは笑わせてもらいました」という言葉の意味にも合点がいきます。私も17歳から23歳まで入院・療養を繰り返し、漫才を見聞きする時だけ笑っていた時があったので、自分と重なるところがありました。闘病時代の話をしている時、「ぽんちゃんも大変やってんな。やっぱり何があっても生きてんとあきまへんな」と、じっと目をそらすことなく、涙ぐみながら温かく包み込むように話を聞いてくれていた姿が忘れられません。
芸人さんとしての雀々さんはオイシイところをかっさらい「持ってるな~」と思うところがよくありました。
テレビの生放送で、風船にもぐさをつけ、誰のところで割れるか「もぐさ風船」ゲームをやりました。もぐさが燃え尽きて、いよいよ風船が割れる(!)という時、じゃくさんの番になり、風船を持った瞬間“バーン!”と割れると思ったら、穴が開いて“シュ~”とすぼんでいったのです。割れる恐怖に顔を背けていたのに、風船は気の抜けたオナラのように小さくなり……「こんなことあるー!?」と叫んだじゃくさんのアップでCMへ。「笑いの神様」に守られていたとしか言いようもない絶妙なタイミングのCM入り。スタジオでは出演者も観覧客も拍手喝采で大爆笑でした。共演者からは「おまえ持ってんな~! あんなことないぞ!」と一斉に声が上がりました。
芸人さんには自分ではどうすることもできないのに「持ってる人」がたくさんいます。土砂降りの雨でも西川きよしさんとラウンドの時だけウソのように青空が広がったとか、阪神・巨人さんがコンテストの予選でネタを忘れて次点になったけど、決勝進出コンビが解散して繰り上げ出場で優勝されたとか、そもそも芸人さんとして成功していること自体「持っている」のでしょう。持っていたはずのじゃくさん、早いこと天国行きすぎやで!
(本多正識/漫才作家)