
◆私鉄が旅客を運ぶのは山手線までだった
東京の私鉄にとって山手線は「万里の長城」に例えられることがある。路線図を見れば分かるように、私鉄の路線のほとんどは、山手線の駅にターミナルを置いており、山手線の内側深くまで線路を延ばしている路線は存在しない。
私鉄各路線のターミナル駅である池袋、新宿、渋谷は、今でこそ副都心として存在感を示しているが、戦後長らく東京の中心地「都心」は、東京駅の周辺、丸の内、有楽町、日本橋、銀座などにあった。そのため私鉄は郊外から山手線まで旅客を運び、山手線が都心まで送り届けるという分担がなされていた。
今は山手線の内側には地下鉄ネットワークが建設され、私鉄各社は地下鉄と相互直通運転を行う形で都心乗り入れを実現している。しかし、この体制が成立するまでは、私鉄各社は独自に地下鉄を建設することで都心乗り入れを果たそうと考えていた。
◆私鉄各社の都心延伸計画
こうした構想は戦後、1940年代後半から1950年代にかけて一気に表面化した。東京の復興が進むにつれて、市街地が郊外に広がっていき、私鉄の輸送人員は急激に増加。これらの受け皿となる山手線や路面電車は超満員で、乗換駅では殺人的な混雑が発生していたため、私鉄各社は都心乗り入れが急務であるとして、独自の都心延伸を実現しようと動き出したからだ。