前回に引き続き井伊直弼の超良い人説を解説します。
これまでの記事はこちら。
15年部屋にこもって自分を磨き続けた!幕末の大老・井伊直弼は本当は超良い人説【1】
毎日睡眠4時間!ステイホームで自分磨き?幕末の大老・井伊直弼は本当は超良い人説【2】
1人10万円どころじゃない!?なんと領民に15万両寄付!井伊直弼は本当は超良い人説【3】
■重罪は私一人で受ける!
井伊直弼 Wikipediaより
「天皇を無視してでも、日米修好通商条約を締結して開国する」。答えは一つしかないと分かっているのに、汚名を着るのを恐れて誰も決断を下そうとしない。
結局泥をかぶる決意をしたのは、大老井伊直弼ただひとりでした。
「重罪は甘んじて我等一人に受候決意(日米修好通商条約を締結するという重罪は、私一人が受けよう)。」
という直弼の言葉が残っています。直弼だってできるものなら本当は条約調印なんかしたくない。そんな中、責任を自分一人で負う強い覚悟で、日米修好通商条約を締結したのです。彼の迅速な決断によってひとまず日本は救われたと言っていいでしょう。
■天皇の秘密の手紙、戊午の密勅が発覚
案の定、孝明天皇は激怒。攘夷を唱えていた多くの日本人も井伊直弼に対して反感を持ちます。
本来ならば幕府にぶつけるべき意見を、幕府を無視して他藩に聞いたのです。このことは早々に幕府の知るところとなりますが、大老である直弼がこれを見逃せば、幕府のメンツは丸つぶれ。
天皇は、幕府よりも水戸や長州藩を信頼しているという事実を認める事になります。
■安政の大獄
そこで苦肉の策として井伊直弼が行ったのが、「安政の大獄」でした。天皇に近づく反乱分子を徹底的に処罰したのです。
謹慎から死刑まで、直弼は幕府を揺るがしうる者を徹底的に弾圧しました。これも、「一人で罪をかぶる」という覚悟。
処刑した人物の中には学識のある人物も多くいましたが、その人たちの意見を聞くことなく処罰した彼の行為は、「誰にも頼らない」という開き直りにも近いほどの覚悟の表れでした。
桜田門外の変 Wikipediaより
この事で多くの恨みを買い、自分が殺害される覚悟をした彼は、
「咲きかけし猛き心の一房は散りての後ぞ世に匂いける(咲きかけて散る私の本心は、死んだ後の世こそが理解してくれるだろう)」
という句を詠み、そしてその直後に有名な桜田門外の変で暗殺されたのでした。享年45歳。
戒名「宗観院柳暁覚翁」も、生前に死を覚悟していた彼自身が考えたものです。
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