神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目されたものの、わずか28年の生涯を自刃という形で終えた「徳川忠長」。一流の血統の元に生まれながら、その人生は順風満帆とはいかなかったように見える。


今回は前回【その2】に続き「駿河大納言・徳川忠長」の生涯をご紹介する。

これまでの記事

「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その1】

「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その2】

■狂人と呼ばれる由縁

忠長の改易および自刃の原因には様々な説が唱えられているが、その中でも有名なものに忠長自身の人格に問題があったとする説がある。

「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」2...の画像はこちら >>


徳川忠長像(Wikipediaより)

「狂人」や「人格破綻者」などと表現される忠長には、それを彷彿とさせる逸話がいくつか残っている。

1631年、甲府への蟄居を命じられた年には、酒によって家臣の子や御伽の坊主(髪を剃り坊主姿の年配の女中)を殺害。
乱暴や狼藉も甚しかったという忠長の周りには側近は寄り付かなくなった。

当時江戸に詰めていた家老の伝聞や観察では、改易や自刃の原因は忠長本人の狂気による部分が大きいと考えられていたようだ。

■自刃の真相

忠長の処分についてははっきりとした真相がわかっているわけではない。

上述の通り、忠長自身の狂気が原因で自刃に追い込まれたという見解が定説となっているが、家光の陰謀説なるものも根強く残っている。

いずれにしても神君・家康公の孫であり、2代将軍秀忠を父に持つ自身の弟に自刃を言い渡す幕命を下した家光には、抜き差しならない理由があったことは容易に推察することができる。(自刃は忠長の独断だったとする説もあり)

「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その3】


大信寺の境内にある忠長の墓石(大信寺HPより)

■その後

自刃から43回忌にあたる1675年、最後の場となった願行山大信寺に墓が建立された。
大信寺には硯箱(すずりばこ)や水晶のつぼ、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが、姉の「千姫」によって寄進され位牌と共に保存されている。

正室である昌子は、忠長の自刃後に仏門に入り「北の丸殿」と称した。側室も数人いたとされるが実子の存在は確認されていない。

また、忠長の「菩提を弔って欲しい」との頼みに答え、忠長の死後、供養のために寺を建立した家臣の話も残っている。

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