天下人「豊臣秀吉」は跡取りに恵まれず、晩年に生まれた「豊臣秀頼」を溺愛したとされる。しかし、秀吉の実子に関しては様々な憶測や諸説が存在している。


今回は【前編】に続き、秀吉の実子にまつわる説を検証する。
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天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【前編】

■③豊臣鶴松(つるまつ)

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豊臣秀吉の次男とされる「豊臣鶴松」Wikipediaより

1589年、秀吉と側室「淀殿(よど)」の間に長男(秀吉の子としては次男)として誕生する。この時秀吉は53歳であり、石松丸が実子であると仮定した場合、15年前後の時を経て誕生した次男という事になる。

秀吉は鶴松を溺愛し後継者として期待したとされるが、鶴松は1591年頃から病に侵され同年のうちに死去。2歳という早世であった。

■④豊臣秀頼

天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【後編】


豊臣秀頼 Wikipedia

秀吉の実子とされる人物の中で、もっとも有名な存在が三男の「豊臣秀頼(ひでより)」だろう。
母親は鶴松と同じく側室の「淀殿」。1593年に大阪城で生まれた。秀吉57歳時の子供である。人生50年といわれたこの時代にあって、他に類をみない高齢での実子誕生であった。

秀吉の死後、跡取りとして豊臣政権を任されるが、関ヶ原の戦いを経て台頭した「徳川家康」の策略によって一大名に転落。徳川家との対立を深め、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。
秀頼自身も自害して果てた。享年23。

■悲実子説の存在

紹介してきた秀吉4人の実子達には、本当の子供ではない可能性が囁かれている。長浜城主時代の長男・石松丸に関しては、寺社に残る記録や建造物から存在は認められているが、実子と養子との間で専門家の意見は分かれている。

長女は、資料が現存していないため不明。2人の生母とされる人物も定まっていない。


鶴松と秀頼にも非実施説が存在する。2人の母親である淀殿(茶々)は、織田信長を裏切り自刃した浅井長政の娘であり、母親である「お市の方」の死因を作ったのは秀吉であった。秀吉と淀殿の間には因縁が存在したのである。

淀殿には豊臣家の家臣「大野治長(おおのはるなが)」との密通疑惑が存在し、江戸時代の資料には次男の秀頼を治長の子とする記述もある。秀頼が秀吉の実子でないとすると、母親を同じくする長男の鶴松の存在も疑わしくなってくる。

■真実は闇の中

秀吉の実子に関する研究は現在も続いており、実子の存在を支持する説と支持しない説が共存している。
日本史上稀代の天下人・豊臣秀吉の血脈が果たして受け継がれているのか。

未だに誰も知り得ない歴史の謎の一つだ。

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