■島原の乱と暴君の末路

1637(寛永14)年に起きた「島原の乱」には、キリシタン、農民、浪人など老若男女3万人が参加しました。しかし12万を超える幕府軍によって鎮圧され、当時この地域を統治していた松倉勝家は、この大暴動の責任を取らされ領地は没収、家も改易となります。


さらにその後の調査で、常軌を逸した領民からの収奪、虐殺などの悪行が明らかになりました。その内容は、これでは暴動が起きるのも無理はないというほどの苛烈なものでした。

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島原の乱の「本渡の戦い」での両軍の戦死者をまとめて祀った殉教戦千人塚

もともと、松倉勝家の圧政は、父親の重政の後を継ぐ形で、親子二代に渡って行われたものでした。

父親の松倉重政は、関ヶ原の戦いで成果が認められたことから大和国二見1万石を与えられ、五條を商業都市として発展させた実績がありました。五條では、重政に感謝する祭りが開かれるほど慕われていたそうです。

ところが、大坂夏の陣でその武功が評価され、1616(翌元和2)年に肥前日野江4万3千石に加増移封されてから、彼は豹変。幕府に表高を「10万石」と虚偽申告したり、巨大で豪奢な新しい島原城を建造したりしたことから、藩は経済的に困窮していきます。

江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際


島原城

また、島原藩は領民の多くがキリシタンだったのですが、重政は幕府の意向に沿って過酷なキリシタン弾圧を実行します。

その後、彼は1630(寛永7)年に急死し、息子である松倉勝家が家督を継ぎました。彼は島原藩の財政健全化のため、領民に「九公一民(税金9割)」というありえない重税を課します。税金を払えなくなると家族を人質に取り、あげく拷問の果てに虐殺するなど悪行三昧を働きました。

もともと、松倉勝家は藩主としての資質を備えていなかったとも言われています。
熊本藩主・細川家に伝わる資料によると、当時多くの家臣が勝家の元を離れて島原から抜け出したとされています。

結局、勝家は島原の乱の後で領国経営失敗と反乱惹起のかどで、江戸に護送されて斬首刑となりました。江戸時代、罪人として斬首された大名というのは、後にも先にもこの松倉勝家のみです。

■封建制度は悪政もほったらかし!?

さて、ここでひとつ疑問が湧いてきます。松倉親子の悪行は、島原の乱という大事件に至るまで、なぜ幕府によってほったらかしにされていたのでしょうか。

最後にはその悪行が白日のもとにさらされ、大名の斬首にまで至っているほどですから、松倉親子がやっていたことは当時としても「バレたらやばい」レベルの所業だったように見えるのですが……。

その答えは、当時の幕藩体制そのものにありました。そもそも江戸時代は、藩の自治に対し、幕府は口を挟まないのが原則だったのです。それは「封建制度」という制度の基本でもあります。

封建制度は、主君が家臣に土地を与える仕組みです。その土地、すなわち領地を統治する権限は家臣の側にあり、その統治体制について主君は関与しません。

こうした仕組みは連邦制に例えられることがありますが、連邦制の場合は、各藩の税収が中央(この場合は幕府)に吸い上げられることになります。
しかし実際には、領地の税収はあくまでもそこの領主のもので、幕府ですらも税収は直轄領からしか得ていませんでした。

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旧江戸城大手門

このように、各藩はそれぞれが独立した国家のようなものでした。だから揉め事が藩内で治まっているうちは、領民にいかなる苛政が敷かれていても幕府は介入しないのです。

ただしこれも程度問題で、ひどい苛政が続けば領民も逃亡し、難民化する者が出たりします。こうなると近隣の藩に悪影響を及ぼすので、ここで幕府は初めて「藩政不行き届き」として介入するのです。

一例として、有名な「黒田騒動」があります。福岡藩の政治を改善させるため、藩主である黒田忠之について、栗山大膳は「謀反の企てあり」と訴え出ました。これは大膳にとっては命懸けの行動で、訴えは受け入れられたものの、彼は盛岡へと配流されています。

ここまでしないと、幕府は藩政に干渉しなかったのです。これを踏まえて島原藩について見てみると、松倉家による苛政は、藩士が幕府に直訴するようなものとは考えられていなかったと言えるでしょう。また、仮に農民が直訴したとしても、幕府がそれを取り上げることはまずなかったと思われます。

■制度確立への過渡期だった江戸前期

ではなぜ松倉勝家は斬首となったのかというと、これはあくまでも「統治の失敗」について責任を取らされたのであり、領民への圧政そのものが理由ではなかったのです。


似た事例として、真田信利の改易を巡る有名な騒動があります。これも領内に餓死者が出るほどの苛政が敷かれたにもかかわらず、それ自体で罪を問われたわけではありません。真田家の場合は、幕府から請け負った事業について、実際よりも過大な実高を算定したあげく失敗に終わったことが問題視されたのでした。

また、これもひどい話ですが、島原藩による税の過酷な取り立ては、江戸時代前期には決して珍しいものではありませんでした。

だからと言って許されていたのかというと、もちろんそんなことはありません。江戸中期以降になると「一揆」などによる農民からの異議申し立ての作法も確立されていくようになります。

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「一揆」というと、なんとなく農民が武装蜂起して打ちこわしや放火、殺人を行うようなイメージがあるかも知れません。しかしそういうケースはむしろ例外的で、非武装が主でした。

また藩サイドも、これに武装して応じることは稀でした。こうした一揆の発生が「統治の失敗」と見なされれば改易となる可能性もあるので(実際、郡上一揆のような改易例があります)、藩もできるだけ問題が起きないように領民の要求にどこかで折れるようになります。あんがい穏健だったのです。

このように見ていくと、江戸時代前期というのは、こうした穏健な制度が確立されていく過渡期にあったと言えるかも知れません。
島原の乱や松倉家に対する処分はひとつのきっかけであり、こうした混乱を経ながら江戸時代の「天下泰平の世」は作り上げられていったのでしょう。

参考資料
・ふるさと再発見「第2代島原城主 松倉勝家(1597―1638)-島原市
・HugKum(はぐくむ)
・ふるさと人物誌18 黒田52万石を救った「栗山大膳」-朝倉市

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