かつて、日本には三日夜餅(みかよのもちい)という儀式が存在していました。平安時代の貴族社会で行われた、いわゆる「婿とり婚」の作法の一種です。
当時の結婚は、男性が女性のもとへ通う妻問婚という通い婚の形式でした。
婚姻が成立するまでは、女性は人目を避けるのがたしなみで、同世代の男性が適齢期の女性と直接知り合うのは稀だったようです。
そのため、貴族の子弟は意中の女性を見つけようと必死で、美しい女性がいるらしいという噂を耳にすると覗き見(垣間見)をしたりしていました。
『源氏物語画帖』より若紫、尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏(Wikipediaより)
こうした噂の出所は、女性の周囲からそれとなく、あるいは意識的に流されることが多かったようです。
こうして好みの女性を見つけた男性は、その女性に懸想文(けそうぶみ)といわれる恋文を贈ります。この手紙は、本人の手に渡る前に乳母や女房たちによって「審査」されました。
審査の対象となるのは、文章や和歌が巧みか、字は上手いか、身分や女性関係はどうか、出世の見込みはあるか、どんな性格か、などです。これらをクリアして初めて、手紙は女性へ渡されます。
また女性の方は、最初は女房が代筆した返事を送り、その後自筆の手紙を送ります。そして親の同意が得られたら女房が手引きをして、吉日の夜に男性が女性の部屋へ赴くことになります。
■「三日夜餅の儀」
で、一夜を共にした後に後朝の歌(きぬぎぬのうた)を贈り、さらに3日間続けて女性のところに通います。3日通うと「これからはあなたを棄てません」という誓いとなります。
自由恋愛が当たり前の現代から見ると、とてもやってられないですね。
そして、正式に婚姻が成立するのが、3日目に行われる露顕の儀と三日夜餅の儀が済んでからです。ここでやっと「三日夜餅」が登場します。
三日夜の餅の儀は、3日目の朝に三日夜餅という祝餅でもって催される祝宴のことです。この宴は現代のように両家そろうわけではなく、花嫁の両親と一族にお披露目するというものでした。
この時、三日夜餅を花婿と花嫁が食べると婚姻成立です。お餅は初めは白一色でしたが、次第に紅白のお餅が使われるようになりました。
婚姻で餅を食べていた理由は、もともと餅には神聖な霊力があると信じられていたからです。餅は、正月などのハレの日にも欠かせない縁起物でした。
よって、餅を食べることで男女の心身の一部が交換されて混ざり合い、子孫繁栄につながると考えられていたのでしょう。
ちなみに三日夜餅は、食いちぎらずに3つ食べるのが作法でした。
■現代も続く伝統
3つ食べるのが作法だったと書きましたが、3という数字は、男性が女性のもとに通った3日間を意味します。食いちぎらないのは「離婚をしないように」というおまじないでしょう。
いずれにしても、3日目にお餅を食べる事は当時の人々にとっては重大な意味を持っていました。『源氏物語』の主人公・光源氏と紫の上が結婚した際も三日夜餅が出てきます。
三三九度
平安時代こうした習わしは、鎌倉時代に三三九度の盃(さかずき)に姿を変えますが、現代でも一般の結婚式で行われています。
皇室行事でもこの伝統は残っており、昭和34年4月10日の上皇・上皇后両陛下のご婚礼の際も三日夜餅の儀が執り行われました。
参考資料
- 大塚ひかり「訳せない、訳したくない古典のことば」
- 和婚の演出~三日夜餅(みかよのもち) – 結婚式演出 – 専門家プロファイル
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan