明智光秀は本能寺の変の後に亡くなっていなかった説。天海になって生き延びたのは本当なのか?

そんな天海に弟子が尋ねたところ、「生まれも年齢も忘れてしまった」と語っているそうです。身近な人にさえ自分の出自を語ろうとしない天海の存在は、神秘的なものだったのではないでしょうか。

また、天海の年齢も諸説ありますが、かなりの長寿であったと伝わっています。現在では1536年生まれ、没年が1643年が定説となっており、なんと数え年で108歳だったそうです。

明智光秀は本能寺の変の後に亡くなっていなかった説。天海になって生き延びたのは本当なのか?
天海像(wikipediaより)

天海が家康と出会ったのは、家康が江戸城に入る前年(1589年)だったと言われています。そうして高齢ながら家康・秀忠・家光と、天海は徳川三代将軍に仕えたのです。

徳川幕府を江戸に置いたのも、天海の意見を家康が尊重したからだと伝わっているので、まさに徳川幕府の礎を築いた立役者なのでしょう。

■「天海=光秀」説は否定されている

明治から大正に掛けて小説家として活動した須藤光暉は、1916年に発表した著書「大僧正天海」内で、「光秀が生き延びて天海となり、豊臣家を滅ぼした」という説がある事を記しています。

光秀山崎の一戦に敗れ、巧みに韜晦隠匿して、出家して僧となり、徳川家康に昵近して、深く其帷幕に参し、以て豊臣氏を滅亡し、私かに當年の怨を報ひたりといふ奇説を唱道する者ありと聞く。

この事実から、大正の頃から「天海=光秀」説が囁かれていたことが分かります。

明智光秀は本能寺の変の後に亡くなっていなかった説。天海になって生き延びたのは本当なのか?
明智光秀像(wikipediaより)

天海には素性が分からない部分がありますが、天海と名乗る以前は「隋風」という名前だった記録があるそうです。

だから天海は光秀ではないと、須藤光暉は著書で語っています。すでに100年前に、「天海=光秀」説は否定されていたのです。

織田信長が「人間五十年~」と詠んだことからも、戦国の世の中は寿命が現代よりも遥かに短い事実はよく知られていますよね。

そんな時代に100歳を超えるだけで、それはもう人間を超越したような存在だったのでしょう。そういった背景から、「天海=光秀」という図式が成り立ったのかもしれません。

参考文献:須藤光暉「大僧正天海」(1916年)

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