日本には約2万人の医療的ケア児がいるとされ、全国の公立特別支援学校には6,674人の「医ケア児」が在籍し、うち338人は保護者が付き添いをしているとされる。

学校では黒子に徹し、存在を消すように言われる保護者。

「私はここにいる」「あなたはひとりではない」という思いを届けるために医ケア児の保護者の現状をユーモアのある写真で伝えてきた。

■社会の壁を写真でぶっ壊したい

「これまで障害者と母親をプロのカメラマンが撮影した写真では、白い光の中に慈愛にあふれた母がわが子を見つめるといったものが多かった印象があります。

でも、私が現実に学校で出会った“医ケア児”の母親たちは夕飯の献立の相談をしていたり、『嵐がカッコイイ』と盛り上がってたり(笑)。

いわゆる普通のお母さんが、なぜ障害をテーマにした作品になると白く淡い光に包まれるのかと、そのギャップを感じていました。

障害者の母はこうあるべき、を他者から押しつけられてる感があって、私は自分が写真に撮るなら“まんま”をやりたかった」

6月8日、宮城県は仙台の書店「曲線」にて、写真家で4人の子供の母親である山本美里さん(44)のトークショーが開催された。

ベリーショートの金髪がトレードマークの山本さんは、重度の心身障害でたんの吸引や人工呼吸器など24時間の介護を必要とする「医療的ケア児」である、次男の瑞樹君(16)を育てる「医ケア児の母」でもある。

瑞樹君と二人三脚の闘病生活のなかでカメラを持つようになり、40歳を前に芸術大学で写真を学び、医ケア児と特別支援学校の保護者付き添いをテーマに創作をスタート。

その後、卒業制作を経て2023年に本格出版された『透明人間 Invisible Mom』(タバブックス)が高い評価を得て、現在は日本各地で個展や講演も行っており、ここ仙台が「ちょうど20カ所目」という。

この日の目玉は、山本さんと10人ほどの参加者でのフリートーク。仙台在住で重度の脳性マヒの中学生男子をケアするという母親は、

「山本さんが校内で撮った写真を最初にSNSで見たとき、うら寂しい和室の待機部屋の様子が自分とまったく同じで、『あっ、これは私だ!』とリアルに感じました」

続いて、やはり医ケア児の母親という女性は、会場に展示された大手家具店の前で撮られた山本さん母子の写真を指さしながら、

「車いすの“医ケア児”が、あの“イケア”の前でパチリ。これを見た瞬間、私、ゲラゲラ笑ってました。でも、笑っていいんですよね?」

山本さんも「もちろん!」とほほ笑んだあと、やがて真顔になって、

「今、パソコン検索で“いけあ”と入れると“医ケア”じゃなく、最初にこの家具店が出てきますね。

医ケアという言葉が社会に出始めて、私たちの認知度が上がったといわれるけど果たしてそうかな、と。この写真には、そろそろ内輪だけで盛り上がるのはやめませんか、という提案も込めました」

山本さんは、カメラを持つ医ケア児の母親として、いつも写真を通じ「そろそろ外に出て、いろんな社会の壁をぶっ壊そうよ」と訴え続けてきた。

作品には必ず彼女らしいユーモアと、ときに小気味よい毒も込めながら。

■誰も知らない世界に行きたい…と考えていた中学時代

1980(昭和55)年3月8日、東京都府中市生まれの山本さん。

「共働きの両親と弟がいる、いたって普通の子供でした。ただ4歳で両親が離婚し、母の不在時に預けられていた祖母から『お母さんに迷惑をかけないように』と言い聞かされて育ちましたから、まわりはよく観察していても、本当に思ってることは言わない子でした」

地元の小中学校を出たが、学校にはあまりなじめなかった。

「中学では、母親が出社したあとに母のフリして『今日は娘の体調が悪いので休ませます』と、学校にずる休みの電話をかけたり。

シングル家庭ということも、今と違って人に簡単に言える社会ではなかった。そんな自分のことを誰も知らない世界に行きたいと、いつも考えていました」

その願いは、都立府中高校への入学で実現する。

「1年生のとき、ドイツからの留学生と仲よくなりました。大好きだった洋楽の本場にも行ってみたかったし、『ここを出たい』という思いがますます強くなって。

市の無利子の奨学金やコンビニなどバイト3つをかけ持ちして旅費をため、3年生の夏にアメリカへ、続いてイギリスへの留学を実現させました」

帰国後は留学経験を生かした仕事に就きたいと考え、外国語専門学校へ。

卒業後は就職氷河期だったこともあり、学生のころからバイトしていた近所のコンビニに正社員として就職した。

「でも現実は厳しくて、過酷な労働環境に耐えきれず、1年後に輸入雑貨の問屋に転職し、アジア方面の仕入れなどを担当しました」

コンビニ時代からの仲間で、会社員のさん宗武(48)と結婚したのは24歳のとき。翌年には長男が、さらに年子で長女が誕生する。

「2人とも保育園です。特に長男のときは会社で初めての産休を取り、3カ月後には職場復帰しました。長女も同様でした。

結婚・出産しても、仕事を辞める選択肢は私にはありませんでした。女性は家庭にいるべきという時代に総合職として勤め上げ、『女でもひとりで稼いで生きていく』との姿勢を貫いた母親の影響は大きかったと思います」

仕事に子育てに充実し多忙な日々を送るなか、第3子を妊娠。

「子供が3人になっても、今度もギリギリまで育休を取って、また仕事に復帰するつもりでした」

ところが妊娠7カ月のエコー検査で、近所の産院の医師が告げた。

「頭の大きさだけ、成長が止まっているね」

不安を抱えたまま翌月、世田谷区の国立成育医療研究センターへ。

「ここで、先天性サイトメガロウイルス感染症の罹患の疑いを告げられました。

『それなりの障害です』との告知と同時に、『お母さん、覚悟はできていますか』と言われましたが、出産まであと1カ月ほどで戸惑うばかりでした」

2008年5月29日、次男の瑞樹君が2,270グラムで誕生。

すぐにNICU(新生児集中治療室)へ入り、翌日には酸素を送るチューブが鼻につなげられた。

■同じように孤独を感じている主婦や母親は多いのではないか

「息子の障害は、生まれた瞬間から、私の想像をはるかに超えてました。生後3日目には、正式に先天性サイトメガロウイルス感染症と診断が下りました」

このウイルスは、妊婦が感染した場合、流産、死産や赤ちゃんの脳、視力、聴力などに障害が生じることがある。

日本では出生数1,000人に対し1人の頻度と推定される。

「母親としては、一日一日を、ただただ『生きていてください』と願うしかありませんでした」

3カ月間のNICUを経て生後半年で退院した瑞樹君だったが、急に呼吸が止まる「息止め発作」などで、その後も入退院を繰り返していく。

「瑞樹が生まれて、夫は1カ月の育休のあとに仕事復帰しました。

私は1年間の育休後に熟慮の末、退職しました。会社は引き止めてくれましたが、自宅でも15?20分ごとのたんの吸引などに加え入退院時の世話や、預ける所もなくて先が見えない状況でしたから」

2010年春には三男も誕生した。そして、瑞樹君が2歳のころ、急に体調が悪化する。

「ですが、上の子たちもいるうえに、赤ん坊の末っ子の世話もあって、すぐには病院に連れていけず。夫はサラッと『仕事で無理だよ』で、近所に住む実母も『友達とご飯を食べに行く約束してる』と。

正直、イラッともしましたが、我慢するしかなくて。

で、夫の帰りを待ち夜になって病院に駆け込んだのですが、やはり瑞樹の状態はかなり悪くなっていて、緊急入院となってしまいました」

このとき、山本さんは夫らを前に、初めて感情を爆発させた。

「瑞樹が生まれてから、あなたたちの人生は何も変わっていないけど、私ひとりだけ会社も辞めて、家に入って、これっておかしくない!?」

怒りもあったし、深い孤独も感じていた。

「家族だからといって、みんなが母親の私と同じ認識ではないんだ、と。そんなことが何度も重なっていくうちに、どうせ言っても断られたりなので、モヤッとしながらも、何も言わなくなるんです。

これって、障害のことだけじゃなく、同じように何かで我慢したり、孤独を感じている主婦や母親は多いんじゃないでしょうか」

やがて3歳になった瑞樹君は療育園に通い始めるが、5歳で肝硬変が見つかり、人工呼吸器装着に向けての気管切開も行われた。

そして2015年4月、都立の特別支援学校小学部に入学。

「医ケア児の瑞樹が通学するとなると、彼に必要なアンビューバッグ(気管切開部に空気を送り込む医療機器)の操作を、東京都のルールでは学校の看護師さんが担えないため、万が一に備えて、母親である私の付き添いが必要になりました」

週4日、午前9時から午後3時まで約6時間、山本さんが車いすの瑞樹君の通学に付き添い、校内の控室で待機する日々が始まった。

【後編】特別支援学校の実態を撮り続けたママカメラマン「僕にはみえているよ」へ続く

(取材・文:堀ノ内雅一)

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