「あ、ゾウさんだ! 大っきい!」

多摩動物公園(東京都日野市)に遠足に訪れた幼稚園児たちが“アジアゾウのすむ谷”で歓声を上げている。

子供たちの輝く瞳が見つめる先には、体重3トンを超える、雄のスリランカゾウ「アヌーラ」が巨体をゆらして歩いている。

来年1月1日には72歳になるアヌーラ。国内最高齢というだけでなく、70年以上生きているゾウは世界でもまれだ。

どこの動物園でも、ゾウは花形スターだ。

多摩動物公園の開園(1958年)と同時にやってきたアヌーラも、ずっと子供たちに囲まれてきた。ところが、今のアヌーラは、子供たちの笑顔を見ることができない。

アヌーラの飼育を担当する齋藤友樹さん(36)が語る。

■子供たちの声は大きな耳に届いている

「白内障で両目が白く濁ってしまって視力が低下。光を追えているかどうかで、今はほとんど目が見えていないでしょう。

でも、長い鼻を杖代わりに、ゆっくりですが放飼場を自由に歩き回ることもできます。

それでも視力以外は健康。とくにあの大きな耳ははっきり聞こえているようで、号令にはしっかり反応します。子供たちの声もアヌーラに聞こえているようで、うれしそうなしぐさをみせます」

ゾウ舎の前に小学生がやってきた。

アヌーラは小学生向けの教科書に載っている。かつて病気で立てなくなったアヌーラを仲間の2頭のゾウが1カ月近くも支えたことがある。そんな仲間に尽くす心をもつゾウのエピソードが道徳の教材になっているのだ。

「アヌーラ、がんばれ!」

と児童が声を上げると、アヌーラはそれに応えるように長い鼻をユラユラとゆらしだした。

盲目のゾウ、アヌーラがインド洋に浮かぶ島国、スリランカからやってきたのは1956年のこと。

アヌーラが日本にやってきたのには、11月15日朝に101歳で薨去された三笠宮妃百合子さまが深く関わっている。

歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんが語る。

「1956年8月、スリランカで行われた『建国2500年記念式典』に三笠宮崇仁親王(2016年に100歳で薨去)と百合子さまが参列されました。

ご夫妻にとってスリランカご訪問は、初めての公式外国旅行であり、宮さまも大変緊張しましたとご著書で書かれていました。そのときにスリランカ政府から贈られたのが、当時3歳だったアヌーラです」

スリランカから帰国後に行われたインタビュー記事で、百合子さまは、ゾウに乗った体験をこのように語られている。

《私ははじめこわくて……揺れかたが、こういうふうに大きくゆらりゆらりと揺れますからね。それからつかまりどころがない。

裸で鞍もなんにも置いてない。細い紐が巻いてあるのにつかまるだけで、それで思いがけなく立ち上られると、高いもので……。馬にも私、乗ったこともないのに、いきなり乗ったら、とても……(笑)》(『文藝春秋』1956年12月号)

三笠宮ご夫妻は、このインタビュー記事で、現地の児童養護施設で出会った子供の笑顔が印象深かったことを語られ、また、スリランカの総理大臣夫人が社会事業の運動の先頭に立ってやっていることに興味を示されていた。

「お二人にとって大歓迎を受けたスリランカご訪問は忘れられない思い出だったのでしょう。とくに子供たちを笑顔にすることの大切さ、社会貢献の重要さ、平和への思いなどの原点をお二人は初の公式海外旅行で見つけられたのかもしれません。

2007年に多摩動物公園でアヌーラの『来日50年を祝う会』が開かれ、当時91歳の三笠宮さまと百合子さまが出席されました。

お二人が、いつも子供たちの笑顔を作り出しているアヌーラを優しいまなざしで眺めていらっしゃったのが印象的でした」

日本の子供たちに贈られたアヌーラは、三笠宮ご夫妻の「思い」の象徴のようだ、と小田部さんは語る。

■ゾウに会えることがどれだけ尊いことか

百合子さまは、1923年(大正12年)、旧河内丹南藩主家の高木正得子爵の次女として生まれた。母は入江為守子爵の次女の邦子さん。昭和天皇に仕えた入江相政侍従長の姉だった。

百合子さまが、昭和天皇の末弟で、7歳年長の三笠宮さまと出会われたのは17歳のとき。学習院女学校のご卒業と同時にご婚約が決まった。

小田部さんが続ける。

「戦前の宮さま方は、幼少のころから家族と離れて、それぞれ独立した個人として日常の暮らしをなさるのが習わし。

周囲は大人の側近ばかりで、同年代の友人もあまりつくれないさびしい環境。

そうしたなか結婚によって生涯の伴侶ができることは、宮さま方にとってはじめての家族ともいえる豊かで温和な存在との人生のはじまりを意味しました」

三笠宮ご夫妻の結婚祝いの晩餐会が行われたのは真珠湾攻撃の前日。百合子さまの結婚と子育ては、戦時下で始まった。

「新婚生活は、戦前、当時の皇族のならいのとおり陸軍の軍人となられた宮さまの職務が優先され、不在の日々も。ときに中国・南京に赴任されるなど三笠宮さまも生死に関わる環境に置かれ、百合子さまは伴侶としてその心配をされながらも、それを口に出せない生活を重ねられていたようです」(小田部さん、以下同)

終戦末期には、B29の空襲で赤坂御用地にあった三笠宮邸が焼失。百合子さまは防空壕で過ごされたこともあった。

お二人は、寬仁親王、宜仁親王(桂宮)、憲仁親王(高円宮)、甯子さん(近衞忠煇夫人)、容子さん(千政之夫人)と5人のお子様に恵まれた。

百合子さまは、子育ての悩みや三笠宮さまの何げないお言葉に、心を痛められたことを育児日誌に綴られていた。

〈授乳は赤ちゃんにとって絶対的のもの重大なものと一生懸命しているが、(中略)周囲の理解あってこそ十分なことが出来るのだ。(中略)誰も助けてくれないので、すべての事に亙って自分から思いつき、しなくてはならない。

心身供に疲れたという感じ〉(『高円宮憲仁親王』より)

戦後、三笠宮さまは、皇族の身でありながら、古代オリエント史の研究家として活躍。多忙な日々を過ごされていた。

「百合子さまは、戦後、研究者の道に進まれた宮さまの勉学の支援、たとえば、多忙な宮さまのためにノートの清書をされていたことはよく知られています。

またフォークダンスなどの社会活動をされたときにも、ご一緒に踊られるなど、宮さまの活動のよき理解者であり支援者でもありました。

宮さまは、中東などへの現地視察も数多くこなされてきました。そうした海外での視察研究にも百合子さまは同行し、写真撮影など支援もされてきました」

身をもって戦争の悲惨さや不条理を知った三笠宮さまは、戦後、先の大戦の反省を常に口にされていた。

「宮さまは、歴史研究のなかで、戦争がない社会をつくるためには、平和の期間を長く保つために最大の努力を尽くさねばならない、という強い思いがありました。

百合子さまも、表立って『平和への思い』を語ることはなくとも、宮さまに寄り添って生きてきた歩みそのものから強い信念を感じられます。

戦争によって不幸な状況に追いやられるのは人間だけでない。動物園に行くとゾウに会える、という当たり前のことが、どれだけ尊いことかを示されたのではないでしょうか」

2002年に三男の高円宮憲仁さま、2012年に“ヒゲの殿下”と親しまれた長男の寬仁さま、2014年には次男の桂宮宜仁さまと、3人のご子息に相次いで先立たれた。

2016年には、70年以上の歳月をともに歩まれた三笠宮さまが100歳で息を引き取られた。

その後、百合子さまは、当主として三笠宮家を守ってこられた。

「百合子さまは、毅然たる芯の強さをお持ちになりながらも、さまざまな困難にあっても動揺せず、ひとつひとつを受け止めながら、強いお心で皇室の品格を支えてこられたと思います。

愚痴のような言葉はあまりうかがったことはありません。また気丈で心の強さがあることも当然ながら、事態に柔軟に対応していくお力も備えておられたのだろうと感じます」

■もっと子供たちを笑顔にしてほしい

社会貢献活動に熱心だった百合子さまは、社会福祉法人恩師財団「母子愛育会」の総裁を62年間にわたってつとめられた。

「社会的に困難な立場にある人々へのまなざし、皇室の国民への歩み寄りの姿勢を百合子さまは持ち続けられたと思います。そこにはスリランカのご訪問が影響していると思います。

そのような百合子さまの姿勢が国民の皇室への敬愛を深めてきたともいえます。戦前戦後を貫く皇室のよき伝統を守られてきたお一人でした」

そんな百合子さまの傍らには、いつも68年前にスリランカを訪問されたときの記念品であるゾウの置物があったという。

アヌーラは、今日も元気で子供たちの前を悠然と歩いている。

「アヌーラは優しいゾウで、頭もいいです。海外の動物園にいる高齢のゾウのなかには、認知症のような症状が出て、自分が帰る場所がわからなくなったりするゾウもいるようですが、アヌーラはしっかり自分の居場所に戻ります。

最近、歯がすりへってきているのか消化が落ち、エサの草も細かく切ってから与えるようにしています。

長生きして、もっと子供たちを笑顔にしてほしいですからね」(齋藤さん)

大正、昭和、平成、令和と激動の時代を生き抜かれた百合子さまの思いを、きっとアヌーラが受け継いでくれるはずだ。

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