犯人の死ぬ間際の告白で明らかとなった10の殺人事件(パート2)

 さて前回、未解決だった殺人事件が、犯人の死ぬ間際の告白、あるいは死後に発見された遺書や手記などから事件解明につながった5つのケース(パート1)をお伝えしたが、今回はその続編である。

 良心の呵責なのか、死後地獄に落ちたくないのか、映画やテレビドラマによくある「死の床での犯罪の告白」は実際に存在する。


 パート2では、死の床での告白が犯罪解決につながった10の殺人事件の残りの5つをお伝えしよう。

【5. 自らが犯した絞殺の手記を残した元図書館司書(イギリス)】
 図書館司書だったハーヴィー・リチャードソンは、つつましく静かな生活を送っているように見えた。およそ犯罪とは縁遠い人物だと思われていたが、それは彼が77歳のとき、大腸ガンで死ぬまでのことだった。

 遺品を整理していたとき、"極秘"と記された封筒が入った革のカバンが見つかった。封筒の中には、9ページにも及ぶ手記があり、1970年9月2日にリバプールで遺体で発見された、ロレイン・ヤコブの殺人を告白したものだった。

 手紙には殺人の動機が詳しく記され、殺人を伝えるさまざまな新聞記事の切り抜き、行方がわからなくなっていたロレインの下着、旧式の空気銃が一緒に出てきた。殺人の動機はなんだったのか?

 発端は、リチャードソンがロレインの子どもたちの写真を撮ったことだった。それが原因で、ロレインは彼のカメラ2台を盗んだ。リチャードソンがなんの悪意もなく子どもの写真を撮ったのは確かなようだが、そのことでふたりは口論になった。

 1970年9月1日、リチャードソンはむしゃくしゃして酒を飲んだ勢いでロレインの首を絞めた。

 この犯罪に性的な動機はなかったが、リチャードソンは暴行殺人に見えるように、わざとロレインの下着をはぎ取ったのだ。

 リチャードソンは、容疑者のリストにもまったくあがっていなかった。

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The Murder of Lorraine Jacob【4. 飲酒運転で逮捕され6日後に亡くなった男の殺人告白文(イギリス)】
 1975年、ジョアン・ハリソンという26歳の女性が、イギリス、プレストンの廃ガレージで死体となって発見された。

 警察は最初、有名なヨークシャー・リッパーの犯行だと考えた。ウェアサイド・ジャックとして知られるべつの男が仕掛けたデマのおかげで、警察はその後16年間もそう信じ込んだ。

 だが、1981年、ヨークシャー・リッパーは逮捕され、13件の殺人を自白したが、その中にハリソンの名はなかった。

 いったい誰がハリソンを殺したのか?

 その答えは、2008年にわかった。末期の病に冒されていたクリストファー・スミスという男が、飲酒運転の罪で捕まり、その6日後に亡くなった。逮捕時に採取したDNAで、スミスには暴行、窃盗、レイプなど複数の前科があることが判明した。

 のちに、スミスの自宅から3ページに渡る告白文が発見され、そこで彼はハリソンを殺したのは自分だと認め、謝罪していた。この手紙は、死の前日に書かれたものだった。

 警察が6日前に採取したDNAも、ハリソンの遺体に付着していたものと一致し、この事件は解決した。
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Joan Harrison Murder & the Yorkshire Ripper Case【3. 少年の殺人誘拐事件を死の床で告白(アメリカ)】
 1981年、6歳の少年アダム・ウォルシュが、ハリウッドモールにあるデパート、シアーズで誘拐された。6日後、頭部のないアダムの胴体が発見され、2週間後に60号線沿いの排水路で頭部が見つかった。


 この誘拐殺人事件は、その後2年間、未解決のままだったが、常習犯のオーティス・トゥールが、5回目の終身刑に服している時、死の床でアダムを殺したことを姪に対して告白した。

 当時、トゥールも容疑者のひとりだったが、以前からいいかげんな自白を繰り返していた。実は、アダムの殺害についても二度自白していたが、後から撤回したりしていて、嘘だと判断されていた。

 この3度目の正直で、事件はついに解決に向かうことになった。

 事件後、被害者アダムの父親ジョンは、凶悪犯罪の犠牲者を救済する活動を積極的に行うようになり、長年続いているアメリカの公開捜査番組「America's Most Wanted」のホストを務めた。
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John Walsh explains how his son's kidnapping & murder led to his life's mission【2. 銃殺事件の犯人の自供と証拠を隠蔽していた刑事の告白(アメリカ)】
 1967年、アメリカ、ヴァージニア州スタントンにあるアイスクリームチェーン店でふたりの女性が殺された。それから41年間、事件は迷宮入りしていたが、シャロン・ダイアン・クロフォード・スミスが、その死の2ヶ月前に犯行を自供した。

 殺されたキャロリン・ペリーとコンスタンス・ハベナーと、スミスは当時、同じアイスクリーム店で働いていた。スミスはレズビアンだったため、ふたりから常にいじめられていた。

 ふたりを撃ち殺した夜のことをスミスは説明した。その日、スミスは仕事を辞めるので、もう明日から店には来ないと言いに、25口径を持って店に行った。

 ただ辞めると伝えるだけのつもりだったが、そこで口論になり、スミスはふたりを撃ち殺したという。


 犯行を自供したものの、殺人の凶器は見つかっていなかった。スミスは、銃は当時の刑事に渡したと主張した。当時19歳だったスミスが持っているのは危険だから、銃を預かると彼に言われたというのだ。

 結局、その銃は元警官だったデヴィッド・ボコックの未亡人が所有していることがわかったが、彼女は1981年に夫からそれを渡されたことをすっかり忘れていた。

 そのとき、今は亡くなっている夫から「僕が君にこれを渡したことを誰にも知られてはならない」と言われたという。夫はスミスを気の毒に思い証拠である銃を隠蔽したものと見られている。
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【1. 死の床で娘の殺害を告白した母親】
 1867年、クリスティン・ケットが地下室の階段で死んでいるのが、彼女の弟と隣人によって発見された。斧で切りつけられていたが、弟が持っていた銃が遺体の近くにあった。

 弟が疑われたが、彼には仕事に行っていたという完全なアリバイがあった。やってきた母親は、家が野次馬や警官に取り囲まれているのを見て、ヒステリーを起こした。母親は、その朝早くから娘の姿を見ていないと証言した。

 しかし、隣人の話は違った。
ふたりの女性が激しく口論する声が聞こえたというのだ。クリスティンの母親は解放されたが、容疑は晴れなかった。

 その後もさまざまは憶測が飛び交ったが、捜査に有益な情報はなかった。

 この事件は迷宮入りし、人々は平穏な生活に戻った。しかし、1884年3月、クリスティンの母親が死の床に弟を呼び、娘の殺害を告白した。

 クリスティンが夜遅く帰って来たので、あの日、ふたりは口論になり、クリスティンが背を向けて出て行こうとしたので、母親が頭に斧で一撃を与えたという。

 母親は、警察には決して言わないでくれと頼んだが、母親の死後すぐに、弟は警察にすべてを明かした。
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Top image:photo by Pixabay /written by konohazuku / edited by parumo

追記(2021/06/27)本文の名称の間違いを訂正して再送します。

記事全文はこちら:犯人の死ぬ間際の告白で明らかとなった10の殺人事件(パート2) https://karapaia.com/archives/52303417.html
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