平成の将棋界はどのように動いてきたのか。平成の将棋界をどうやって戦ってきたのか。
勝負の記憶は棋士の数だけ刻み込まれてきた。連載「平成の勝負師たち」、2019年7月号には里見香奈女流四冠が登場する。

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■出雲の天才少女

平成4年生まれの里見が将棋を指し始めたのは、5歳のころ。地元・島根県出雲市にあった道場に通っていた3学年上の兄に付き添っているうちに、自然と一緒に指すようになった。
「低学年のころのことはあまり覚えていなくて、高学年になってからのことしか記憶に残っていませんが、週末はいつも道場や大会に出かけていました」
小学4年生だった平成14年にはアマ女王戦で優勝。また男女混合の全国小学生倉敷王将戦では島根県代表を勝ち取ってリーグ戦で4勝1敗の好成績を挙げた。
翌年には小学生名人戦でも島根県代表となり、西日本代表決定戦に進出している。
21世紀に入って情報の共有化が加速し始め、将棋界ではインターネット対局がはやり出した時代。ホームページ、BBS(インターネット上の交流掲示板)を通じて、中国地方の大会で活躍する「出雲の天才少女」の存在は瞬く間に全国に知られるようになっていった。

■将棋が好きだから

兄とともに通った地元道場には、多いときでも10人程度しかいなかった。里見はとにかく実戦が好きで、限られた数人とどんどん対局して経験を積んだ。
平成12年には出雲市で「将棋の日」が開催され、里見は高橋和女流三段に出会う。
「詰将棋を解くといい」と言われて以来、毎日の詰将棋を欠かしていない。実戦重視の日々に詰将棋の習慣が加わってさらに棋力は伸びた。
家では「里見家名人戦」が開催されていた。4つ下の妹・咲紀(現女流初段)も加わってリーグ戦を開催。幼かった咲紀を除いた父・兄・香奈の3人のうち、成績が悪かった者が皿洗いをする。
子供たちが洗ってばかりだったが、上達とともに父が皿洗いをするように。
里見が育成会に入るころに、里見家名人戦は自然消滅した。兄も後に県代表になるなど、アマ強豪に育っている。
里見の「将棋が好き」との想(おも)いは、周囲を動かした。平成15年10月、里見は女流育成会に入会する。
「私自身は女流棋士の制度について理解していませんでしたが、父と道場の先生が相談して話を進めてくれたそうです。私はプロを目指すという決意よりも好きな将棋をできる喜びでいっぱい。
でも両親には大きな決断だったと思います。交通費や身体的な負担のことも考えてくれました。いろいろな苦労があったはずですが、私には見せないようにしてくれていたみたいです。いま振り返ると、本当にありがたかった」
小学生の里見が島根から東京までひとりで出かけるわけにはいかない。月1回の育成会には両親のいずれかが同行し、費用を節約できる夜行バスを使った。
※後半はテキストに掲載しています。

※肩書はテキスト掲載当時のものです。
文:諏訪景子
■『NHK将棋講座』2019年7月号より