西田幾多郎(にしだ・きたろう)の『善の研究』は四編からなりますが、批評家、東京工業大学教授の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは、最後の第四編「宗教」から読み始めることを薦めています。西田がいう「宗教」への認識を深めるところから始めた方が、より実感をもって「善」を理解することができるからだと若松さんは考えているからです。


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西田がいう「宗教」とは、宗派的宗教とは異なる、「大いなるはたらき」のことです。「善」とは何かを直接的に考えるよりも、彼がいう「宗教」への認識を深めるところから始めた方が、より実感をもって「善」を理解することができると思いますので、今回も逆の順番で見ていきましょう。
第四編の「宗教」でも第三編の「善」でも、鍵となる言葉は「自己」です。先に「宗教」は「大いなるはたらき」だと書きました。この「大いなる」ものを西田は、『善の研究』で「神」と書いています。もちろん、彼がいう「神」は、現代の私たちが想像する宗派的「神」ではありません。

西田は「神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う」(第四編宗教第二章宗教の本質)と書いています。
西田哲学における「宇宙」は、大気圏外の宇宙空間ではなく、内面世界を含むものです。「神」は内界と外界の双方の根本の「はたらき」だというのです。
「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。それが西田の「神」の理解です。「……神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである」(同前)とも西田は書いています。
遠く彼方に神を感じつつ、わが身の内に神を探せというのです。
この感覚は、理論で考えるとたいへんむずかしくなってきます。しかし、生活の実感に寄り添って考えてみると、こうしたことを私たちはさまざまな場面で感じていることが分かります。
遠く離れた場所にいる大切な人をおもうとき、相手はどこまでも遠いところにいるのに、誰よりも近くにもいると感じる。これを実現するのは「愛」である。このような実感を否定する人は少ないと思います。
私たちはこの感覚を亡き人たちにも感じることができるのです。さらに私たちはそれを「自己」においても感じることができます。
こうした認識の具体例として西田は、イギリスの詩人テニスンが、一人自分の名を唱えていると、通常感じている「自分」とは異なる、その彼方にいる真実の「自己」を感じた、という逸話に言及しています。
氏〔テニスン〕が静(しずか)に自分の名を唱えて居ると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、しかも意識は決して朦朧(もうろう)たるのではなく最も明晰(めいせき)確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといって居る。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。

(第四編 宗教 第三章 神、〔 〕内は著者注)

自分の名前を唱えることが、どうして不死なる自己の発見につながるのかと感じるかもしれません。しかし、これが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という名号(みょうごう)であれば、理解できるのではないでしょうか。
テニスンは、自分の名前を唱え続けることで、小さな「自我」の壁を突き破って、大きな「自己」の世界にふれた。浄土教の人たちはそれを「南無阿弥陀仏」という言葉によって行っている。テニスンは、自己という道を、浄土教の信者たちは仏という道を通じて大きな「自己」の世界にふれているのです。西田が「神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本」である、というのはこうした自己と「神」の重層的な関係を指しているのです。
一つの頂点を目指して進む、二つの異なる道だというのです。
■『NHK100分de名著 西田幾多郎 善の研究』より