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私が初めてハヴェルの文章に触れたのは、1990年代初頭、日本語でも多くの翻訳が出始めた頃のことです。当時ハヴェルは、ドイツのヴァイツゼッカー大統領と並んで「哲人大統領」と評され、冷戦終結後の混沌とした時代に光を照らす存在として注目されていました。しかし、ハヴェルの文章を読んだ私は、ある種の戸惑いを覚えました。そこにあった言葉が、それまで私が見聞きしていた政治家が発する言葉とは、まったく異質なものだったからです。
まず、身近でありながらも、政治の世界ではあまり聞くことのない語彙、具体的には「真実」「倫理」「人間性」「愛」といった表現が多用されていたことです。それから、このような語彙だけではなく、ハヴェルの言葉には、ある種の「ためらい」が感じられました。
ハヴェルは明言を避けるかわりに、問いを投げかけます。実は、『力なき者たちの力』の結びの一文も「どうなのだろうか?」という問いかけで終わっています。かれの問いかけを受け止めるか流すかは、受け取る側の問題です。
哲学的、不条理的と評されることの多いハヴェルの文章ですが、数年後、プラハに留学し、ハヴェルが1960年代に残した視覚的な詩を目にした時、また印象が変わりました。それは、タイプライターでさまざまなレイアウトを駆使して描かれたもので、言葉が自由に解き放たれ、自在に紙面を飛び回っているかのようでした。言語表現の柔軟さ、ユーモアと機知に富む表現の奥深さを感じ、戯曲、エッセイとともに、巧みな表現者としても改めて意識するようになったのです。
1999年、全七巻のハヴェルの全集(補遺の第八巻は2007年刊行)がチェコで刊行されたことが、ひとつの転機となりました。
ハヴェルはこの本を通して、「力」の構造だけではなく、「力」をつくる「言葉」についても考察をしています。例えば、これまで見てきたように「オポジション」「ディシデント」の言葉の意味についての考察が綿密になされており、また合法性をめぐる法律の議論では、次のように述べています。
儀式、ファサード、「口実」が担う役割がもっとも雄弁に現れているのは、市民が何をしてはいけないかと記したり、起訴の根拠について記された法秩序の箇所ではなく、市民は何ができ、どういう権利があるのかが記されている箇所である。
法律は言葉であり、法律の言葉に則ってハヴェルたちは「憲章七七」の活動をし、体制側は法律を使ってプラスチック・ピープルを逮捕します。青果店店主のスローガンの例も、当然ですが、言葉の力を検討したものであり、スローガンの言葉を置かないことがむしろ「真実の生」を導く「力」を引き起こすことにもなっていました。
「噓の生」を覆い隠すカバーは、奇妙な素材からできている。
このように考えると、この本には「言葉の力」をめぐる考察の書という側面もあるのかもしれません。ハヴェルは、戯曲、詩、評論といったさまざまなジャンルを通して表現を行なってきました。そこには、実験的に言葉のイメージを探求する詩もあれば、言語コミュニケーションの不条理な世界を描いた戯曲もあります。そして、牢獄から妻オルガにあてた書簡集は、書簡文学とも、哲学的瞑想とも捉えることができます。
■『NHK100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル 力なき者たちの力』より