FUN! the TOKYO 2020
いよいよ来年に迫った東京オリンピック・パラリンピック。何かと “遊びざかり”な37.5歳は、 この一大イベントを思い切り楽しむべき。
現在、ハーバード大学経営大学院(ハーバード・ビジネス・スクール)で教鞭を執る唯一の日本人教授である竹内弘高さん。実は高校生だった1964年、前回の東京オリンピックでボランティアに参加している。
それは竹内さんに大きな影響を与え、人生の岐路を決断するきっかけにもなったという。いったいオリンピックで何があったのか。その経験を振り返ってもらった。
「国際的な人間に」という父の薦めで特例で高校生ボランティアに
竹内弘高さんが、1964年の東京オリンピックの馬術競技にボランティアとして参加したのは、インターナショナルスクールに通っていた高校3年生のときだった。
「指輪など装身具のデザイン・生産・販売を手掛けていた父は、私を英語の話せる国際的な人間になってほしいという思いから、インターナショナルスクールに通わせたそうです。そして、ゆくゆくは海外の大学で学んでほしいと」。
ボランティアの誘いは、そんな父からのものだった。
「父から“ボランティアで馬術の通訳をやらないか?”と声を掛けられたんです。父は仕事の傍らで馬術を習っていたので、その関係で話が出たのでしょうね」。
もともと馬術は礼儀作法も含め、ヨーロッパの上流階級の嗜みとして発展してきた側面がある。
「こんな機会はなかなかない。面白そうだな」と感じた竹内さんは、父の誘いに乗り、ボランティアを志願する。
「馬術のボランディアは当時、ICU(国際基督教大学)に一括で依頼していたそうですが、特例ということで入れてもらいました。
問題は学校と年齢だった。オリンピックは10月で学校は長期休暇の時期ではない。また、ボランティアは原則18歳から。竹内さんはまだ17歳だった。
「学校には“一生の一度の機会。
ボランティアをともに務めたICUの学生に影響を受ける
こうして馬術のトップ選手が集う場で通訳のボランティアを始めた竹内さん。まずはその「世界」に驚いた。
「馬術は圧倒的にヨーロッパが強いんです。
ただし、オリンピック後、竹内さんはその父を烈火のごとく怒らせることになる。
「先ほども言ったように、馬術のボランティアはほぼICUの学生さん。大学生の中に私1人、高校生が混じっている状態でした。だから、かわいがられたのですが、一方で自分と少ししか年齢が変わらない彼らの話が理解できなかったんです。ICUはリベラルアーツ教育も行っていたから、みんな哲学や文学への造詣が深くて……まあ教養があるわけです。彼らがハイデッガーの話をしていても、私は“なんですか? そのハ、ハ、ハイデなんとかって?”みたいな感じでまったくついていけない(笑)」。
そのショックが、竹内さんの人生を大きく変えた。
「僕もあんなお兄さん、お姉さんのようになりたい」。
ICUの学生たちは、教養があるだけではなく、みな優しさも持ち合わせていた。
「キリスト教の教育がそうさせたんですかねえ。とにかく私は影響を受けて、インターナショナルスクールからアメリカの大学へ進むという既定路線を覆し、ICUに希望進路を変更したんです」。
それで父が大激怒した、というわけである。それでも息子が自分の経験のもと、自分で考え出した進みたい道。最後には父が折れた。日本の大学とはいえ国際色豊かなICUがであったことが、救いにはなったのかもしれない。
ICUで植え付けられた「自分は日本人」という意識
オリンピックのボランティアをきっかけに、人生の舵を大きく逆に切った竹内さん。実際、この変更は竹内さんに確固たるアイデンティティを与えることになる。それは「自分は日本人である」という意識。
「ICUでは勉強の傍らでサッカー部に入って、野球部も創設して、スキーの同好会も作り、演劇にも参加した。ICUって、いい意味でいい加減で(笑)、掛け持ちもOKだったから。インターナショナルスクールにはいなかったさまざまな日本人とも接した。ICUには日本育ちの学生から、私のような経歴の人間、海外育ちの日本人など、さまざまな学生がいて、それぞれ世界が違う。いろいろな日本を肌で感じる機会になりました」。
それは、竹内さんに「自分の根っこは日本人」という意識を強く植え付けた。
「大学3年時にカリフォルニア大に留学して以降、今に至るまで日本と外国と行き来している人生ということもあって“ハイブリッド”なんて呼ばれることもありますが(笑)違うぞ、と。根は日本にあるんだ、という気持ちは強い。ハーバード大学に所属していたときに子供が生まれましたが、帰国して日本で育てることにも迷いはありませんでした。ICUに行ったからこそ、根っこをどこに置くか、ということに迷わなかったのだと思います」。
クリスチャンの竹内さんは「ヨゼフ」という洗礼名をもっている。
「ハーバードに行ったとき、自分のことをヒロ・タケウチと呼んでくれ、と言いました。もしICUに行かず、そのままアメリカの大学に進んでいたら、ヨゼフからとったジョー・タケウチといった名で呼ばれていたかもしれないし、それに抵抗も覚えなかったでしょう」。
NEXT PAGE /力を抜いた“いつも通り”の姿勢でボランティアと文化交流を
今、振り返れば、そのままアメリカの大学に進んでも、いずれ大きな影響を受けたICUの学生たちの背景にあるリベラルアーツの教育に触れることはあっただろう。しかし、多感でまだ確固たるアイデンティティが定まっていない高校生というタイミングで、オリンピックという印象深い舞台で触れたからこそ、竹内さんの心は大きく動き、進路変更という行動につながったように感じる。
「妻ともICUで出会ったし、今年からICUの理事長も務めることになりました。まさに運命だったんでしょうね」。
オリンピックのボランティアに参加したからこそ、自分のアイデンティティが定まり、人生が変わった。
「陸上短距離のスタートシーンを描いた1964年の東京オリンピックのポスターがありますよね? あの選手の中で日本人選手は一番奥にいる。それは“世界に追いつけ、追い越せ”という気持ちだった当時の日本を象徴している気がします。だから、オリンピックは、敗戦後の日本がここまで来たぞ、と日本が国を挙げて世界にアピールするイベントという印象が強い。インターナショナルスクールに通っていた私は、すごく自分が日本人であることを意識させられました。ナショナル・プライドのようなものを感じたというか」。
だから、2020年の東京オリンピックでも、ボランティアに携わる人々にはそんな経験をしてほしいと願っている。
「ボランティアというよりもアンバサダーという気持ちと誇りを持ってもらうのがいいのではないでしょうか。ただ、だからといって特別なことをする必要はありません。いつも通りの気持ちでいい。渋谷のスクランブル交差点のように、混沌としている中にも秩序があったり、どんな仕事にも誠実と思いやりをもって取り組んだり。外国人の方は、そんな“いつも通りの日本”に驚き、感動していますから」。
世界中からたくさんの人が訪れるオリンピックは、スポーツの祭典だが、一方で、国内・海外、たくさんの人々が交わり、文化交流が発生するイベントでもある。
2020年も、18歳のときの竹内さんのような「出会い」に恵まれる人々が、きっとたくさん生まれるはず。竹内さんも、人生2度目のオリンピック・ボランティアに参加する予定だ。
[話を聞いた人]
1946年生まれ。1969年、国際基督教大学卒業。71年、米カリフォルニア大学バークレー校で経営学修士(MBA)、77年に博士号を取得。ハーバード大学経営大学院(ハーバード・ビジネス・スクール)講師・助教授、一橋大学商学部の助教授を経て87年、一橋大学教授に就任。2010年、一橋大学名誉教授。ハーバード・ビジネス・スクール教授。『知識創造企業』『トヨタの知識創造経営』など著書多数。複数の企業で社外取締役も務める。
田澤健一郎=取材・文