ジャガーのデザイン・ディレクターを務めた伝説のデザイナーであるイアン・カラムは、XJ6にその素晴さを取り戻させるのに何年も費やした。

長い年月をかけたイアン・カラムのジャガーに対するこだわりがあり、彼はXJとそのデザインの重要性について強い見解を持っている。
何であるのか、どうあるべきか。加えて、彼が1968年のXJ6の発表を覚えているのには、いくつか理由がある。ダンフリース出身のある少年が将来進みたい道を決め、それを実現するために行動を起こした直後のことだったのだ。

「私は13歳の時、ビル・ヘインズにいくつかのスケッチと、『どうやったら車のデザイナーになれますか?』と書いた手紙送ったんだ。当時、誰も車のデザイナーになる方法について知らなかったからね。信じられなかったけど、彼は本当に返事をくれた。
見習いとして働いて、エンジニアリングを勉強しなければならないと説明してくれた。それは自分がやりたいことではなく、車の外観をデザインしたいのだとと伝えた。しかし、それはサー・ウィリアムズ・ライオンズの仕事であって、他の人たちがすることではなかったんだけどね。1968年3月1日に返事を書いたよ」と彼は説明する。

最初のXJ6シリーズは、多大な期待を受けて発表され、若かりし頃のカラムは強い興味を持った。彼の期待が裏切られることはなかった。


「僕はすっかり魅せられてしまった。当時でも、その車のプロポーションはとても刺激的だというのがわかった。ライオンズは、スポーツカーとセダン両方のマーケットに適した車を作ろうとした。MK10はかなり車高の低い車だったけど、とても大きな車だった。しかしXJ6は、スポーツ性とラグジュアリーの両方を非常にうまく兼ね合わせていて、ジャガーを象徴する典型的なものとなった」

「同じ頃のメルセデスと比べてみると、いかにそれが先鋭的であったかがわかる。低いボンネットを持つ車としては、全く新しいタイプの形だった。
こんなに低いボンネットの下にV12を上手く収めることが出来たことは、本当に信じられない。Mk10を進化させたものなのだけれど、プロポーションはとことん美しく、全く違うものであったんだ」

カラムは、XJが新しい市場を生み出したと考える一人でもある。「とても良く売れた。特にアメリカで、それも女性に。他のラグジュアリーな車たちはだんだん大きくなっていっていたけど、これは運転するのにちょうどいいサイズだったんだ。本当にスポーティーでラグジュアリーな1台だったけれど、大きすぎず、多くの人に気に入られた。
この車の操作性は、世界でも高く評価されていて、V12を取り入れた時には、まさに世界最高だったね」

XJ6の多くの要素がカラムを夢中にさせた。フロントグリルは、それまでの(MkVIIを除いた)額縁タイプではなく、ボディーにはめ込まれていた、大小のヘッドランプ、大きな”教会の窓”の様な後部ライト、”完璧なボディー”、Cピラーが小さくなり、ガラスの部分がより大きくなる様に”丸みを帯びたルーフ”がドアのシャットラインと重なっている。

コカコーラのボトルの様な曲線的な最後部。しかし彼が最も好きだったのは、当時としては大きな車輪の上にある”今まで誰も見たことのない”ボディーワークの優美さだった。他のライオンズの車と同様に、シートが窓の下のラインよりも上になることでガラス内の視界を妨げることは許されなかった。

ジャガーの歴史に残るデザイナーが語るXJ6の素晴らしさとは?前編


S2では、視界の美しさはなくなったが、全体的に見るとかなりすっきりした感じを保っていた。
S3とは異なっている。お決まりの巨大なバンパーは無視して、議論の中心は全てピニンファリーナのルーフラインであった。カラムは特に感銘を受けなかった。「僕は新しい屋根が改善だとは思わないよ。もとの方が好きだった」気が進まない様なため息を交えて言う。「でもそうすることで、内部により広い空間が得られたんだと思う」

角張ったXJ40に続く、あちこちのデイリー・テレグラフの読者を残念がらせた1980年代中頃に取り入れられた変更について、ジャガーは全く気づいていなかったのだ。
カラムはよく考えて、あごをさすりとても絵になるポーズで、話し始める前にかなり間を置いた。ネがティブ発言の連発が始まる・・・と思ったが、まったくそうはならなかった。 <第二弾に続く>