ロジャー・ムーアは1960年代、このボルボ 1800をテレビシリーズの「セイント」で走らせた。新しいストーリーが撮影されているカリフォルニアの撮影現場にて。


日本で一番有名なスパイといえば、ジェームズ・ボンドだろうか? このイアン・フレミングが生み出したスパイ・ヒーローに必要なのは、美女とシェイクしたウオッカ・マティーニと特殊な武器、そしてなにより魅力的な車たちだ。そんな、ジェームズ・ボンドを演じたロジャー・ムーアが、ボンドとなる前に演じていたのが、TVシリーズ「セイント 天国野郎」のサイモン・テンプラーだ。この通称"セイント"=聖者と呼ばれる神出鬼没の大怪盗は、英国人で、教養があり、信念があり、女性を愛し、そして"要望に応える形"でいつも人々を窮地から救った、現代版ロビン・フッドのようなキャラクターだ。

1962年から1969年にかけて、足掛け8年間放送されたこのシリーズのおかげで、ムーアは初代ボンド役のオファーを断念せざるをえなかったということは、007好きなら周知か?
 
さて、ボンドの様々な秘密兵器が搭載されたアストンマーティンDB5が「ゴールドフィンガー」に登場する以前から、プロダクト・プレイスメントの価値に目を向けていたのは自動車メーカーばかりではなかった。ムーアはテンプラーが乗る車としてジャガーを好んだとされるが、コベントリー(=ジャガー本社)はこれを拒否。そこで番組のプロダクション・スーパーバイザーであったジョニー・グッドマンはスポーツカータイプの新しいボルボを考えてみてはどうかとムーアに勧めた。
ムーアはこれなら自分にも、そして番組にも、いい仕事をしてくれるような気がした。それがボルボ1800であった。

『セイント 天国野郎』でロジャー・ムーアが選んだ相棒 ボルボ P1800の物語 前編


「セイント 天国野郎」の製作期間を通して、計3種類4台の異なるボルボ1800が使用された。最初の車は、ボルボが自社で生産を始める以前に、イギリスのジェンセン工場でつくられた1962年式P1800である。ボルボ・クラブ・オブ・アメリカの雑誌「Rolling(ローリング)」によると、71DXCとして登録されたこの車両は、第26話まで使用されたという。次いで77GYLとして登録された1964 年モデル(1800S)が登場。
この車両については、おそらく1965年頃にアップグレードされたと見られるが、これはボルボが量産車に加えた変更に対応するためであったと思われる。1967年、60話からは、2台の新しい1800が登場する。登録番号NUV 647Eは、ムーアのプライベートカー。そしてもう一台のNUV 648Eこそがまさに写真のこの車両である。
 
結局、このNUV 648Eはシリーズが終わるまで使用されることになった。フロントバンパー上部に左右に取り付けられたドライビングランプ、マグネシウムホイール、そして二本スポークのウッドステアリングホイールがこの車をさらに魅力的にしている。
この車両は撮影の際、ステージライトをたっぷりと浴びた際、車内が熱くならないよう、小さなファンが後部に取り付けられているという以外は、オーバードライブが付いたマニュアル・トランスミッションを含め、いたって普通の右ハンドル仕様の1800だ。

 
この時代は通常、自動車メーカーがスターやスタント、そして映画のプロデューサーらに対し、自動車を無償提供(しばしば自分たちの会社の製品を脚本に書いてもらえるよう、多額の金銭を渡すことさえあった)していた。実際、ボルボは協力的であったし、特別な撮影シーンに使われる小道具用の部品の提供さえ行ったが、プロデューサーは、これら1800の代金はきちんと支払っていたという。

この「セイント・ボルボ」たちは、画面に登場する時間に関して言えば、ジェームズ・ボンドの相棒たるアストンマーティンのどの車両よりも長い。世界を救うために、または少なくとも足の長い女性を救うために、車で滑り込んだり、走り去ったりする、さっそうとした姿のテンプラーを映し出さないエピソードを見つけるほうが難しい。例えば、「Invitation to Danger」というタイトルではテンプラーは自ら運転をし、助手席にも乗っている。
また「TheFrightened Inn-Keeper」ではマシンは爆破されてもいる。
 
番組は全118話をもって終わりを迎え、ロジャー・ムーアは〝あの〞スパイとなり、NUV 648Eはビル・クルザステック氏のもとに売られた。バージニア州出身の彼は、エンジニアから転身した学校の先生である。1960年代、夜遅くにテレビで「セイント 天国野郎」を見て育った、数え切れないほどのティーンエイジャーの中の一人だった。

「『セイント 天国野郎』というテレビ番組は、私も父も好きでした。私たちはサイモン・テンプラーと彼のボルボの冒険を一緒に見たものです。
それから何十年か後、父が我が家に訪ねてきた際には、ビデオテープで一緒に番組を見たほどです。すでに父は亡くなってしまいましたが、私はその頃の時間を今も大切に思っています」
 
製作現場での役割を終えた「セイント・ボルボ」は、1969年から1994年にかけて様々なオーナーの日々の足となって仕えた。そして英国にあるピーター・ネルソンの「カーズ・オブ・ザ・スターズ・ミュージアム」に買い取られた。クルザステックは車の行方は知っていたが、売りに出されることがあるのかどうかはわからなかったという。その後、スコットランドにあったこの施設が閉まることとなり、展示されていた車の何台かはこのボルボを含め、売りに出されることになった。ネルソンはどうしてこんなに価値のある車を売ってしまったのかといえば、もう一台1964年式の「セイント・ボルボ」を持っていて、2台は必要ないと思ったからである。

 
クルザステックはその車を検査に出し、良い知らせと、同時に悪い知らせも受けた。良い知らせは車が正真正銘「セイント・ボルボ」であったということ。悪い知らせとは、ぶつけられたノーズにずさんな修理が施されていた上、あちらこちらをパテで埋められていた。そのため、フルレストアが必要だったが、その費用は決して安いわけはない。しかし、この「セイント・ファン」はあきらめなかった。提示価格4万ポンドに対し何度かのディスカウント交渉を行った上、自分の家の借り換えをした後、このNUV 648Eのオーナーとなったのである。

問題の修復はどのように行われた?・・・後編へ続く