ステージに上がることが 僕にとってのロックンロール

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第15回目はZIGGYのリーダー&ヴォーカリストの森重樹一が登場。
西城秀樹沢田研二への憧れから始まり、ロックに触発され、洋楽にも強く影響を受けた少年時代だったが、ZIGGYのデビューから数年が経ったある時、そのモチベーションが揺らぐ出来事があった。困難や苦しい想いを経て、“今は自分が豊かだと思う”と語るその胸中とは?

“あのお兄さんになりたい” っていうのが最初の始まり

──森重さんが初めて人前で歌ったのはどんなステージでしたか?

「3歳の頃に行った不二家レストランなんです。店内に舞台が設置してあって、そこで歌っている方がいたんですけど、それを観て僕は本能的に舞台に上がって、何かを歌ったと母から聞きました。たぶん『鉄腕アトム』の歌なんじゃないかと思うんですけど(笑)。」

──そんなに幼い時からですか! 森重さんの音楽のルーツには西城秀樹さんや沢田研二さん、フィンガー5への憧れもあり、中学生の時には近所のアパートに住んでいたミュージシャンの方にギターを教わっていたそうですね。

「そうです。音つばめっていうフォークグループの元メンバーで、ギタリストの久保 豊さんにギターを指南していただきました。
週一くらいで教えてもらってましたね。」

──それからロックに惹かれたのは、どんなところを魅力に感じたからなのでしょうか?

「日曜日の午前中にAMラジオで“ポップスベスト10”みたいな番組があったんですよ。それを布団の中で聴きながら“この曲いいな”って思ってたんです。耳からの情報だけだから、どんなアーティストなのかは分からなかったけど、当時はTBSで『ぎんざNOW!』という素敵な音楽番組も放送されてたんですよ。銀座テレサから平日の夕方に生放送していて、木曜日に“ポップティーンPOPS”ってポップスのチャートがあって、今みたいにMVがないから、来日したシーンの映像に音楽をつけて2コーラスくらいかけてくれるんです。そこで動くミュージシャンを初めて観て好きになったんです。あとは、環境もあったかな? 髪を伸ばして、ロンドンブーツを履いてる人が街にいっぱいいましたから。
親父が経営しているアパートにいた学生さんの中にジャズを好きなミュージシャンがいて、そこに遊びに行ったり、身近なお兄さんたちがたくさんいたのも大きいですね。一足飛びでジュリーや西城秀樹さんにはなれないけど、“よく見かけるあのお兄さんにはなれるかも”と思ったのが最初だと思う。」

──周りにロック好きの先輩方もいるから、ロックに対してマイノリティーな感じはなかったんじゃないでしょうか?

「いや、そんなこともなくてね。中学2年生の時に観たKISSの公演が衝撃的で、父親に“どうしてもエレキギターが欲しい”って頼んで、勉強を頑張るっていう誓約書を書いて買ってもらったんですよ(笑)。国産メーカーのグレコの7万円くらいするEC700を買ってもらったら、俺がエレキギターを買ったことが職員室の先生にも広まってて、さらに他の中学校にまで“森重って奴がグレコのエレキを買ったらしい”って噂になったんです(笑)。だから、エレキギターを買うことは一般的なことではなかったんですよ。でも、もう僕の世代では“エレキ=不良”っていうイメージはなかったので、ギターを習いに行ったり、友達に「天国への階段」のイントロの弾き方を教えてもらって学んだりしてました。」

ステージに上がっても ハイになれない時期があった

──それから1984年、森重さんが21歳の時にZIGGYを結成されて、1987年にはアルバム『ZIGGY ~IN WITH THE TIMES~』でメジャーデビューを果たしますが、今思うとメジャーデビューはご自身にとってどういうものでしたか?

「デビューすることで自分がロックだと思っていたものの幻想を壊されてしまったら嫌だなという恐怖心がありました。
今は“このままやってもロックになる”っていう自分の中での仕組みが理解できているつもりだけど、当時は僕の中の“ロックじゃないもの”が今ほど明確じゃなかったから、“ちゃんとロックができるのかな?”って。でも、CDの発売日にちょうどリハーサルがあって、松尾宗仁くんとふたりで駅前の飲み屋で祝杯をあげた覚えがありますね。やっぱりすごく嬉しかったと思いますよ。不安はあったけど、デビューっていうひとつのかたちをもらえるのは。」

──メジャーシーンで活動していく中で、その“ロックじゃないもの”を目の当たりにすることもあったと思うんですけど、ご自身に変化があった出来事はありますか?

「うん。デビューして何年かは、今の俺みたいにステージで元気にエキサイトしてやれていたんだけど、メンバーが脱退して戸城憲夫くんとふたりになった時、当時の社長に“以前のお前みたいにガーッとやってほしい”って言われたことがあって。でも、どうしていいか分からなかったんですよ。
ステージに上がってもハイにならないんですよね。オーディエンスからのエネルギーも自分にインプットすることができない時期が何年かあって、それは音楽シーンに対するどうこうじゃなく、自分自身が模索してたんだと思う。でも、そこからドラムにジョー(宮脇“JOE”知史)が入ってくれたり、松尾くんが戻ってきて、ソニーに移籍して、不思議と自分の中にエキサイトする何かが戻ってきた。…何なんだろうな、あれは? 93年はテレビにも出ていたし、ZIGGYを一般の人が目にする機会も多かったはずなのに、僕は達成感が得られていなかったんですよね。ぬるま湯だったのかもしれない。必要なものが何なのか、どんなに模索しても答えが見つからなかった」」

──最初はテレビで観たアーティストに憧れを持っていたけど、自分がその立場になった時に、求めていたものが違ったんでしょうか?

「アマチュアの時とは生活も変わっていたし、時代もあると思うんだ。
ちょうどNirvanaの登場があって、それは今までのMTVで作られたアメリカのロックシーンが全部崩壊するくらい衝撃的で、いわゆるエンターテインメントとしてショーアップすることが、すごくカッコ悪いことになったんだよね。それまでのアリーナロックが完全に駆逐された。僕はエンターテインメントとしてショーアップされたものに触発されて音楽を始めたから、“自分の好きなものや、自分が触発されたものが、こんなにも時代に不必要になってしまうんだ!?”って実感したのかもしれない。だけど、Nirvanaはすごくカッコ良かったから、自分をヒリヒリさせるものにもなってたんだよ。むしろ、自分もあの隠逸なショーアップされていない剝き出しの感じに惹かれていってしまったし。だから、駆逐された側のロックに憧れてきた自分が、それを駆逐したヒーローにも憧れているっていう矛盾があった。
でも、その経験は自分の中ですごく大きいんだよね。」

医者よりも警察官よりも、 バンドマンがカッコ良い

──デビュー以降、ZIGGYはひとつのバンドであり、それ以前にメンバーのひとりひとりがアーティストであったからこその葛藤が、表では見えないところでたくさんあったのではないかと感じます。

「あったね。一緒にやってきたメンバーたちの志向性が一番活きるかたちでやるために、僕が舵取りをした時期があるけど、今思うと無理があった。音楽的志向性が矛盾していたら、バンドのエネルギーは分断されるんだよね。どんなにいいアーティストで力を持っていたとしても、その人の能力がリミッターのかかった状態で使われたら、バンド総力は落ちてしまう。僕は戸城くんと長いことやって、そのあとThe DUST'N'BONEZも一緒にやって、彼の才能を認めてるし、とても尊敬してるんですよ。でも、僕は彼と一緒にやるとリミッターがかかっちゃて、彼も僕とやるとリミッターがかかっちゃうんだよね。先が何十年もあるわけじゃないし、あとアルバムを何枚作れるのか、あと何曲書けるのかって考えると、残りの人生をリミッターかけた状態でやりたくないんですよ。自分の与えてもらった才能を、自分が何かのために抑制してしまったら、それは僕のミスジャッジだから。自分に対して正しいジャッジをするために、抑制がかかるものを排除しようっていうのはいつも思ってることで、それは自分を愛することだとも思うんです。メンバーのアーティストとしての志向性を考えて、いろんなユニットを作りながらやってきたけど、限られた時間を一番有効に使うために、僕は今のZIGGYのメンバーと音楽をやってる。」

──とことん自分自身に向き合い、メンバーをリスペクトした上で、ZIGGYは今のかたちであると。

「八方美人でいるわけにはいかないんだよね。やっぱりミュージシャンだからさ、音楽を作ってなんぼじゃん。僕はそれ以外の何者でもない。そういうバンドマンに憧れ、そうやって音楽を作る人たちから学び、盗み、ここにいるわけだから。…ZIGGYは一時期とても苦しい時期があったのね。だから、10年間も活動ができなかった。音楽的志向性の矛盾、人間関係、そういうことで僕自身がZIGGYで曲を書くモチベーションをなくしていた。それで活動休止して、ソロワークで活動する地盤をちょっとずつ作っていく中で、音楽をプレイする喜びを再確認してさ、それで今に至ってる。」

──ZIGGYの活動が止まっていた08年~17年で、音楽シーンにもたくさん変化があったと思うのですが。

「今のZIGGYにこれだけ素晴らしいメンバーシップやクリエイティブな気持ちがあっても、“セールスはどうなんだ?”って話になったら、当然CDを買ってくれる人たちは少なくなってるじゃん。サブスクリプションも普及して、音楽は手軽に自分のもとに来てくれるものになったわけだから。でも、僕はレコード屋に足を運んで、大きいアナログ盤を抱えて家に帰って聴くのが楽しみだった子なんだよね。アルバムを一枚通して聴けば、“この曲は今ひとつだな”っていうのもあるわけで、気に入らない曲もあるわけさ。アーティストってそういうものなんだよね。ムラもある…そりゃあるよ。でも、今は音楽を聴くために出向く必要もなく、音楽をセレクトして、聴きたくないものを排除する。良くない音楽を知らないんだよね。逆に、いい音楽っていうのは“多くの人たちが聴いているから”という理由だったりする。共通言語が欲しくて、その題材として音楽を聴くようなかたちであるならば、僕はそこに何かを投げて金を稼ぎたいとは思わない。バンドマンとして生きて、バンドマンとして歌って、バンドマンとして死んでいく…それが僕なりの理想なんだよね。57歳のおっさんの主観だけど、僕は医者よりも政治家よりも警察官よりも、バンドマンがカッコ良いと思ってるんだよ。だから、この仕事を続けたい。僕は怠け者だけど、怠けて自分が手に入れるものと、頑張って手に入れるものを比べたら、自分の思うカッコ良いミュージシャンであるために、頑張って掴み取っていきたいんだよ。そうやって音楽と接しているとさ、ものすごく自分が豊かだなと思う。何の保証もないけど、保証を求めて始めたわけじゃない。僕が思ってた以上に豊かな作品を作ってこれたし、これからも作りたいと思ってる。」

──先ほどおっしゃっていた模索している時期があったからこそ、逆境になりかねない時代の変化があっても強い意志で進むことができているんですね。

「うん。あの喪失感がなければ、今感じている音楽を鳴らすことへの喜びを、喜びととらえられなかったかもしれない。だから、経験ってすごいね。どんな理論を書物から学んでも、経験したことじゃないとそこの説得力は生まれないんだよ。」

オーディエンスが返してくれるから 自分のを肯定できる

──今の森重さんにとって、ZIGGYを突き動かすエネルギーはどこから湧いてくるのでしょうか?

「やっぱりステージかな? ステージに立つことっていうのは、家で寝間着でいる自分じゃなくて、ステージに上がる自分を用意しないとできないんだよね。歌うことが喜びであると感じながらアウトプットできると、必ずオーディエンスに届いて、そのオーディエンスの感じている楽しい気持ちが返ってくる。それがすごい達成感でさ、自己肯定感につながるんだよね。“少なくともこれだけの人たちに俺は必要とされているんだ”って感じることは、自分のことを肯定できる。自分を客観視すると、とても好ましくないって思う部分もあるけど、自分が持って生まれた生来的なものだから何をしても潰れない。その生来的な負の部分に自分が引っ張られると、すごく後ろ向きな人間になっちゃうんだよね。」

──ステージに立ち続けるからこそ、ZIGGYはZIGGYでいられると。

「自分が一番好きなことを真剣に投げると、オーディエンスがひとりひとり違うかたちで返してくれるから、次に進めるんだと思う。ステージに上がることが僕にとってのロックンロールだから、それを忘れては何も始まらない。それこそ3歳の時にさ(笑)、何のサジェスチョンもないまま本能的にステージに上がった、それが全てなんじゃないかなって思うよ。それがあったから音楽が始まったし、初めて自分が積極的にした行動だったんだと思うんだよね。」

──最後に、森重さんにとってのキーパーソンとなる人物はどなたになりますか?

「曲を書き始めた時にすごく好きで聴いてたのが甲斐バンドなんだよね。甲斐よしひろさんの『荒馬のように』って本を高校生の時に読んで感銘を受けて…甲斐さんってすごくロマンチストだと思うけど、ダンディズムとロマンチストを同時に持っている方で、彼の書く詩が大好きで、たくさん聴いたし、歌った。自分が自覚している初めてのステージは16歳の時で、甲斐バンドのフルコピーだったんだよね。僕は洋楽もすごく好きで、スタイルやサウンドにすごく影響を受けてきたけど、精神性や日本語でやっていることなんかは、やっぱり甲斐バンドから受けた影響が大きいと思う。昨年、自宅から弾き語りの配信をしている時に甲斐バンドの「嵐の季節」を歌ったんだけど、その16歳の時のステージでも歌ってるんだよ。いい曲で、歌詞もコードも全部覚えてるし、あの頃の自分ではその表現にどんなメンタルがついているのか分からなかった部分もあったけど、今の自分にはとてもよく分かる。だから、甲斐よしひろさんですね。」

取材:千々和香苗

森重樹一

モリシゲジュイチ:日本最高のR&Rバンド、ZIGGYのリーダー&ヴォーカリスト。 「GLORIA」「I’M GETTIN’BLUE」「STAY GOLD」「Jealousy ~ジェラシー~」など、ZIGGYのビッグヒット曲はほとんど彼の手によるものであり、ソングライターとしての評価も非常に高い。類稀なるその歌唱力は日本のみならず海外でも高く評価されている。ZIGGYの活動と並行して、ソロワークでも通算16枚のアルバムを発表。