脊髄反射的にT-BOLANと認識
このアルバムは初めて聴いた。だけど、初めて耳にした気がしない。それがとても不思議だった。もっとも、ここに収録されたシングル曲のM1「じれったい愛」とM10「サヨナラから始めよう」はともに本作が発売された年の大ヒットシングルであって、M1に至っては年間チャートの36位にランクインしたほどだから、自発的には聴かずとも間違いなく、どこかで耳にしていたことだろう。何しろT-BOLANは俗に言う“ビーイング系”である。1990年代初めから、T-BOLANの他にも、B'z、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEENら、レコード会社兼マネジメント会社であるビーイングに所属しているアーティストたちがヒット曲を連発している。
そんなことだから、シングル曲を知っているのは仕方がないし、この『SO BAD』もT-BOLANのオリジナルアルバムでは最高セールスを記録したものであるから、自然と耳にしていたのかもしれない。それもあながち否定できないけれど、だとしても、発売から30年も経って、どの曲も聴き覚えがあるような気がするのはすごいことだと思う。もう一回言うが、自分はこのアルバムを初めて聴いた。
巧みに作られたキャッチーなサビ
T-BOLANについてそんなことを考えつつ、もう一度、改めて『SO BAD』を聴き直してみると、何となくこのバンドの特徴が分かった気がする。それは、オープニングのM1「じれったい愛」からはっきりと出ていると思うので、結論から先に言ってしまうと、楽曲構造がシンプルである…というのが、(この時期の)T-BOLANの秘訣ではないかと思う。いい意味で無駄がないというか、余計なものがないように感じられる。キャッチーなメロディー、その良さをほぼそのままに伝えようとしていると見ていいのではないかとすら思う。
《じれったい オマエの愛が/うざったい程 痛いよ/めいっぱい 抱きしめたい/本気の好き 胸にひびくよ》(M1「じれったい愛」)。
《じれったい》《うざったい》《めいっぱい》はほぼ同じ旋律であって、それに続く箇所のメロディーを変えることで、サビパートが出来上がっている。リフレインに近い…というか、ほとんどリフレインと言っていい。とにかく、この楽曲ではここの旋律の抑揚を強く押し出しているわけだ。
まだ、ある。このサビは5回出てくると言ったが、サビ以外の箇所は2回しか出てこない上に(そこはよくある構造)、そこがAメロとBメロとに、くっきりと分かれているような感じでもないのだ。やや乱暴に言えば、J-POP、J-ROCKというよりも、そのメロディー展開は洋楽に近いのだろう。
あと、これはT-BOLANだけでなく、件のビーイング系アーティストの特徴であって、それをご存知の方も多いと思うが、その極めて印象的なサビの歌詞に出てくる言葉がそのまま楽曲タイトルとなっている。聴く人の記憶に定着しやすくなるのは、これまた言うまでもない。1、2度聴いていれば、そのタイトルを見聞きして、そこに♪じれったい~とメロディーを乗せるのは容易となるだろう。
無論、全収録曲にそれが当てはまるわけではない。M3「瑠璃色のため息」は1サビと2サビとで歌詞が異なるし、M10「サヨナラから始めよう」ははっきりBメロがあって、後半ではサビ→B→サビと展開する。サビ頭の楽曲ばかりでもない。ただ、サビのメロディがキャッチーであり、そこでの歌詞が楽曲タイトルというのは一貫しているし、リフレインは多い。M4「My life is My way」やM8「BOY」がそうだろう。歌詞のモチーフも当たり前のようにそれぞれに異なるので、メロディーもテンポもサウンドも違ってくるのは当然として、とにかくサビを印象付けようとする意図は全体を貫かれている。『SO BAD』を聴いて、どの曲も何だか聴き覚えがあるように感じたのはおそらくそのせいだし、その徹底した品質管理にはむしろ頭が下がる想いだ。当時はこうしたスタンスを否定的に見る向きもあったように記憶しているが(ブームというのは、すべからくそうした“やっかみ”みたいなものに晒されるのが常)、冷静になって考えれば、こうしたことができるというのは、T-BOLANというバンドのポテンシャルの高さ、とりわけメインコンポーザーである森友嵐士(Vo)の作曲能力、そのポピュラリティーの高さを認めざるを得ないであろう。
ちなみに、T-BOLANはこの『SO BAD』を発売した年、これに先駆けて同年4月に2ndアルバム『BABY BLUE』をリリースしているし、シングルも前述の2曲を含めて4作品を発表している。シングルはアルバムにも収められているし、全てが森友を始めとするT-BOLANのメンバーが書いた楽曲ではないとはいえ、この量産体制は一目どころか、二目も三目も置くべきことだ。もはや職業作家レベル、職人の域だったと言える。
ロックならではのスタンスも露呈
それでいて、職業作家に堕することなく(と言うと、職業作家に失礼だが、別に職業作家を下に見ているとかそういうことではなく)、アーティスト性というか、T-BOLANらしさ、森友嵐士らしさをはっきり楽曲に注入していることを無視してはならないだろう。まず、サウンド。M4「My life is My way」やM5「ためらいの真実」、M7「壊れかけのHistory」辺りはギターリフが引っ張る正調J-ROCKとでも言うべきナンバーで、これらをT-BOLANらしいサウンドと見る向きもあろうし、それはそれで否定しない。
だが、本作でのT-BOLANはそれだけに留まらない。M2「ガラスの刹那さ」のイントロはHR/プログレ方向。M3「瑠璃色のため息」は80年代風というか、ちょっとAORっぽい。アーバンな雰囲気を見せる。M6「あこがれていた大人になりたくて」ではアコギのアンサンブルを取り入れたサザンロック風味を導入。大黒摩季がコーラス参加しているバラードナンバーのM8「BOY」は鍵盤中心のサウンドで、若干ゴスペルを感じさせる。そして、タイトルチューンのM9「SO BAD」では、Guns N' RosesばりのアメリカンHRを聴かせる。
といった具合に、バラエティー豊かなロックを自身のサウンドに取り込んでいる。オーケストラヒットが多用されているのが気にならないかと言えば嘘になるけれども、伝統的なロックをアップデイトするためのエッセンスとして、T-BOLANとスタッフはこれが必要だと判断したのだろう。あるいはリスナーへインパクトを与えるために不可欠と考えたのかもしれない。こうして形となって遺っている以上、もはや何とも突っ込んでみようもないけれども、今となっては1990年代J-ROCKの史料という位置付けで捉えるのがいいのではないかと個人的には思う。
歌詞に関しては、まったくと言っていいほど、そのアーティスト性を隠していないと思われる。アーティスト性というよりも、森友嵐士の人間性と言ったほうがいいだろうか。シングル曲を始め、M2「ガラスの刹那さ」やM3「瑠璃色のため息」で示す心情を吐露したラブソングも独自のカラーが出ていて味わい深いが、ここはロックらしい反骨心を露呈したものに注目した。
《Wow Wow Wow Wow/誰でもなく俺が俺で在れる そのために/Wow Wow Wow Wow/壊れる程今を感じ生きていたいだけ/そうさ My life is My way》(M4「My life is My way」)。
《純粋な感情が霧につつまれてく/怒りに 悲しみ 喜び/知恵に呑込まれて 臆病が騒ぎ出す/自分に問いかけてみた》《頼りない時代のものさし 怯えるより/心に感じる気持ちを 大事にしたい》(M6「あこがれていた大人になりたくて」)。
《気がつけば知らぬ間に 周りに染まってく様さ/信じてた 自分さえも殺されて》《壊れかけの History/すべてがそう 自分さ/いい訳じゃおさまらない/胸の悲鳴に So Shout》(M7「壊れかけのHistory」)。
本作発売時期のT-BOLANは楽曲を大量生産していたと言えば大量生産していたのだろう。それは前述の通りだ。しかし、楽曲を大量に生産していたと言っても、それは決して量販品ではなかった。その何よりの証左が上記の歌詞にあると思う。確かなヒューマニズムに裏付けされたロックバンドならではのスピリットがここにある。
TEXT:帆苅智之
アルバム『SO BAD』
1992年発表作品
<収録曲>
1.じれったい愛
2.ガラスの刹那さ
3.瑠璃色のため息
4.My life is My way
5.ためらいの真実
6.あこがれていた大人になりたくて
7.壊れかけのHistory
8.BOY
9.SO BAD
10.サヨナラから始めよう