三重県松阪市の老舗駅弁屋「あら竹」社長の新竹浩子さんは、大河ドラマにも出演した「元女優」というユニークな経歴を持つ。女優の夢をあきらめ父を支えようと家業に加わった浩子さんは、BSEの風評被害で窮地に陥ったあら竹をどのように救ったのか。
■早朝、愛子さまのために作った駅弁
2024年3月27日、朝4時半。
三重県松阪市の駅弁屋「あら竹」の調理場に、6代目社長の新竹浩子さんは立っていた。この日、彼女は天皇陛下の長女である愛子さまとその御一行が近鉄電車内で食べる駅弁「モー太郎弁当」8個、「特撰牛肉弁当」2個を作った。
5時に米を炊きはじめる。モー太郎弁当は、三重県産の調味料を使用したあら竹オリジナルのタレで黒毛和牛をじっくり炊く。炊きあがった肉を取り出し、再びタレを絡める。牛の容器にご飯を敷き詰め、照りと艶のある肉を、ふわっと広げて盛る。
6時15分、3カ月前からの依頼で浩子さんが東京へ直接届けなければいけない駅弁20個を含め、計30個の駅弁が完成。愛子さま御一行への配達は、弟で長男の信哉さんに託した。
「駅弁は、お母さんが作るお弁当。100人いれば100通りの『ふるさと』があるんです」
元女優という異色の経歴を持つ6代目社長。
■弟が4人、長女はお呼びじゃなかった
駅弁あら竹の店舗は、新竹家の自宅兼店舗。1階は調理場、事務所、売店があり、2階が住居だ。祖母と母は一人娘で、2代続けて養子を迎えて家業を継いできた。駅弁は本店や松阪駅構内の売店で販売するほか、電話注文があれば駅のホームまで届ける。列車の停車時間に合わせて出向き、手渡す。このサービスは今も続いている。
浩子さんは新竹家の長女として生まれ、翌年には年子で信哉さんが生まれる。その後も男の子が3人続いた。
「男の子が4人も生まれたから、新竹家の継承は安泰。それもあって、父や母は私に全然興味がなくって」
小学校に上がる前から駅弁の紐かけが仕事になり、夏休みの繁忙期には1日に200個、300個とこなした。中学生になると店頭に立ち、駅弁とともに三重県を代表する「赤福」を売った。
商品の背景を丁寧に語り、相手の心に響く言葉を選ぶ。これが後の広報や商品開発の原点となる。
■嫌いだった、家族総出の「駅弁」家業
ただ、浩子さんは家業が心底嫌いだった。年中無休で、家族旅行は夢のまた夢。「とにかく家がうるさかった。食卓では商売の話が日常茶飯事だし、注文の電話が入ったらご飯を食べていても手を止めて家族総出で駅弁を作るから」
逃げ場は本の世界だった。アルセーヌ・ルパンや怪人二十面相などシリーズものを端から借りて読み、「学校で一番図書館を利用した子」と先生から言われた。
高校は進学校に入学するも、2年生から勉強漬けの環境に馴染めず、起立性低血圧症で朝起きるのも苦痛に。それでも休日は家業の手伝いに追われ、悶々とした日々が続いた。
大学受験が近づくと、願望は明確になった。「家を出たい」。
記念受験した明治大学に合格すると、「東京なら私のことを知っている人もいないし、家から一番遠い。新しい人生がはじめられる」。両親は反対しなかった。
■アルバイトに明け暮れた劇団員生活
東京での生活は、昼は講義、夜は趣味の観劇が日課となった。下北沢の小劇場から歌舞伎までジャンルを問わず足を運び、観劇後は必ず『演劇界』という専門誌を読む。劇評と自分の感想を比較するのが面白く、自分の感想と違う点を発見したときは同じ作品を2、3度と観に行って分析するのが習慣になった。
大学3年の頃、演出家・松浦竹夫氏を知る。劇団「テアトロ海」と、演劇界で一流の師から教われるという養成所を立ち上げた人物だ。演劇好きが高じて、就職活動する同級生を横目に、ミーハー心を抱きながら養成所に入所し、女優を目指す。ただ、劇団員の収入だけでは生活できず、新たに始めたのがマネキン(実演販売)のアルバイト。浩子さんはなにを担当してもよく売り、販売実績が認められて美容メーカーから正社員の打診を受けるほどだった。
初見の商品をこれほど販売できたヒントは、劇団のチケット売りにあった。
劇団員にとって、チケット売りは生死を分ける。紀伊國屋ホールのような大劇場では、席を埋めなければ赤字になる。ただ「見に来てください」と言っても誰も買わない。作品の背景を語り、感情に訴える必要があった。
「特攻隊の話の芝居では、ご年配の男性に、『“蛍になって帰ってくる”と、最後に特攻隊が旅館の女将に涙ながらに話すシーンがあって』と説明すると、琴線に触れたようで購入してくださいました。マネキンも同じで、人には必ず興味を示すポイントがあるんです。それを見つけ出せば、行動を起こしてくれると知りました」
■大河ドラマに出演、自分の姿に幻滅
1985年、NHK大河ドラマ『春の波涛』への出演が決まった。主演の松坂慶子さんが演じる川上貞奴が日本初の女優学校で生徒に舞踊を教えるシーンで、生徒役の一人として抜擢された。
放送日、自宅で一人、テレビの前に座って出演シーンに見入る。カメラが左からゆっくりとなめるように進み、最初に映ったのは下座にいた浩子さんの横顔。その瞬間、全身が凍り付いた。
「もう、女優なんてできない。
画面に映る自分は想像とはまったく違う。同じ画面に映る松坂慶子さんとの対比が顕著で、見るに堪えなかった。舞台なら遠目で見える。写真なら一瞬を切り取るだけ。しかし、テレビは容赦なくすべてをさらけ出す。
「自分の限界を突きつけられるような、越えられない壁を思い知らされたような……」と目を覆う。自分でも認める、ひねくれた性格。しかしそれは、中途半端を許せない性分の裏返しでもあった。
テレビ放送のあった日、ふと、何日か前の母からの電話を思い出した。「おじいちゃん、がんなんさぁー(がんなんだ)」。あら竹の大黒柱で精神的支柱だった祖父は、すでに余命宣告を受けていた。
「世の中には何万人もの女優さんがいるけれど、新竹亮太郎の孫娘は私一人。
25歳の浩子さんは女優に見切りをつけ、故郷に帰ることを決めた。
■マネキンも劇団員経験も生きた
松阪に戻って1年後、浩子さんが力の限り看病した亮太郎さんが亡くなった。父・日出男さんが社長に、弟の信哉さんが専務になり、浩子さんは「駅弁あら竹 新竹浩子」という肩書のない名刺を持った。
「マネキンのアルバイトでお客様に喜んでもらう楽しさを知っていたから、家業への抵抗感は薄れていました。何より、養子として祖父との確執に苦しんできた父が社長になった今、全力で支えたいと思って」
仕事は雑用からはじめた。駅弁作り・プライスカード作り・松阪駅への配達・取引先との交渉・百貨店の催事の準備。ネクタイを締めてかしこまる場を嫌った現場主義の父に代わって、日本鉄道構内営業中央会の会合にも代理出席した。
さらに、メディアの取材を受けるときには、劇団時代の経験が生きた。父の衣装選びや取材風景を撮影し、当時の駅弁業界では珍しかったホームページに取材の様子を掲載。「あら竹がテレビで紹介されました!」と、アピールした。これが「取材の取材」と呼ばれる手法になる。
積極的な広報活動で認知度が上がると、注文も増えた。昼間は12人のパートさんがいるが、夜は家族だけ。食事中でも家族総出で駅弁を作り、三瀬谷駅付近で30個の車内注文が入れば、20分で作ってホームへ向かう。こうした慌ただしい光景は新竹家では珍しくなかった。
浩子さんが30歳の時に出産したひとり娘の実奈さんは振り返る。
「母の寝言は全部仕事のこと。家を空けられないから、学校行事には祖父と祖母と母がローテーションで見に来てくれました。発表会で壇上から母を見つけたときは『やった! 今日はお母さんいる!』って嬉しくて。寂しさはなくて、来てくれた喜びの方が大きかったです」
■初めての駅弁づくりで胃潰瘍に
入社から15年目、浩子さんは新聞の朝刊で「本居宣長没後200年記念事業 記念商品を募集」という記事に目を止めた。松阪市が江戸時代の国学者・本居宣長にちなんだ土産物の開発を呼びかけていたのだ。夜ご飯の席で父に切り出すと、「どうぞ」。41歳で初めて自分の企画で駅弁を作ることになった。
翌日、本居宣長記念館を訪れた。館長の高岡庸治氏は、本居宣長研究の第一人者。本居宣長の代表的な和歌を駅弁で表現するコンセプトを掲げて高岡氏に打診すると、意外な答えが返ってきた。
「毎日来なさい。まず勉強しないと作れないでしょう」
それから毎日、高岡氏は時間を割いて本居宣長について教えてくれた。著書も借りて読み込む。その後、試作を作っては持参し、グルメの高岡氏から意見をもらって作り直す日々。試作するのは、店が終わった後だ。夜に1人で調理場に立ち、納得いけば家族に試食してもらう。これは味も見た目も一切妥協したくない浩子さんのマイルールだ。
「でも、そんな日々が続いたからプレッシャーで胃潰瘍になりました。体重は3キロ減っちゃって(笑)」
販売にあたり、高岡氏は専門家ならではの深い知識を分かりやすい文章でまとめ、掛け紙に記してくれた。この経験から、浩子さんは駅弁開発において重要な手法を確立した。
「あら竹の駅弁は、松阪の文化を知って味わってもらうもの。その道の専門家の愛を借りること」
しかし、本居宣長弁当の販売がスタートして半年後、突然日本中を震撼させたニュースが流れた。
■BSE騒動で売り上げが10分の1に
狂牛病、後にBSE(牛海綿状脳症)と呼ばれる病気が国内で確認されたのだ。テレビでは、よろめきながら崩れ落ちるホルスタイン牛の映像が連日のように流れる。看板商品が「特撰元祖 牛肉弁当」のあら竹にとって、これは死活問題だった。
あら竹が駅弁に使っているのは黒毛和牛で、問題のホルスタインとは全く別物だが、影響は瞬時に現れた。JR南紀特急からの注文が止まり、毎年1月から2月に開催される百貨店の駅弁大会からも外される。「テレビの影響力の恐ろしさを知りました。本当に風評被害。悔しかった」と浩子さんは口を結ぶ。
車内販売と百貨店催事という2本の柱を同時に失い、売り上げは10分の1に激減。105年続く老舗駅弁屋が存続の危機に直面していたさなか、電話が鳴る。「私、牛肉弁当食べたいんやけど、売ってないやんか」。車内販売で買えないという客からだった。さらに別の客からも「なぜ今年の駅弁大会に出ていないの? 毎年楽しみだったのに」と、クレームのような声色で問い合わせが相次ぐ。浩子さんは事情を説明すると、電話の向こうで客はこう言った。
「頑張りなさい。私たちは待っているから」
この言葉が、浩子さんに火をつけた。とはいえ、牛肉弁当以外の名前で売るだけでは、根本的な解決にならない。
誰も見たことのない、特別な駅弁を作るしかない――。
■五感に響かせる「モー太郎弁当」誕生
起死回生の一手になったのは、雑誌で見かけた「五感に響く和菓子」というキャッチコピーだった。駅弁を五感に響かせるなら、どうする?
「視覚」と「触覚」は、黒毛和牛を象徴する、猛々しい牛の顔の形のパッケージを。顔のリアルな凹凸は、目を見張るインパクトがある。「嗅覚」は、すきやきの香ばしくて甘い香り。「味覚」はもちろん、黒毛和牛をふんだんに。そして「聴覚」を考えた時、浩子さんの脳裏に、開くとメロディーが流れる誕生日カードが浮かんだ。
業者に相談すると、光センサーで音楽を流す仕組みは可能だという。曲は「鉄道唱歌」と「ふるさと」に絞った。駅弁だからと、浩子さんの心は8対2で「鉄道唱歌」に傾いていた。しかし、ふと女優時代、演出家の松浦氏に言われた言葉が頭をよぎる。
“ありがとう”というセリフにも100通りある――。
「めんどくさそうなありがとう、心からのありがとう、泣きそうなありがとう。同じ言葉でも、音の高低・リズム・間の取り方で伝わる感情が変わります。駅弁を開けた時に流れる音楽は、どんな感情を呼び起こすの? と、問いかけて。100人のお客さんがいたら、100人にふるさとがある。『鉄道唱歌』なら、歌詞の通り新橋から横浜への鉄道開通という特定の歴史しか想起させないけど、『ふるさと』なら聞く人それぞれの原風景につながると思いました」
女優として100通りの表現を学んだ経験が、この選択を後押しした。牛の顔を開けたときに「ふるさと」が流れれば、誰もが心の琴線に触れる何かを感じるはず。
2002年10月14日「鉄道の日」、日本初のメロディー付き駅弁「モー太郎弁当」の販売をスタート。浩子さんはニンマリする。
「鉄道唱歌を選んでいたら、もしかするとここまで売れなかったかもしれないです」
■百貨店の駅弁大会で1日600個完売
モー太郎弁当発売後、地元の新聞に取り上げられたり、駅弁ファンの間で話題になったりして、少しずつ注文が来るようになった。そして、2002年1月に開催される東京・新宿の京王百貨店の駅弁大会に、初出品枠での参加が決まる。「催事に呼ばれたことで、一歩前進です」。百貨店からの初日の注文数は50個。BSE騒動前の牛肉弁当と同じ数で、妥当ではあった。
それが、開店5分後に完売。浩子さんはあら竹本店にいて催事の状況は見えなかったが、百貨店と客からのクレームに近い電話で、手に取るように状況が分かった。
「『大変です、新竹さん! 客が殺到してすぐ売り切れました! 明日は100個お願いします』って。お客様からは『催事行ったけど売り切れよ! いつ行けば買えるの』って。タイミングよく12月に受けた取材がテレビで放送されたそうです」
2日目の100個は10分で完売。3日目300個、4日目400個、週末には600個の注文が入り、最終日まで毎日完売が続いた。「容器の生産が追い付かなかったので、600個で勘弁いただいて。毎日600個作るのは必死でしたよ!」と浩子さんはあっけらかんと笑う。
これをきっかけに、BSE騒動で10分の1に落ち込んだ売り上げは急速に回復し、再び軌道に乗った。
「モー太郎は、会社を救ってくれた救世主です」
このとき、浩子さんはまだ社長ではない。まして、後に愛子さまがあら竹の駅弁を食べることなど、想像もしていなかった。
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みつはら まりこ
フリーライター
1986年生まれ、香川県出身。大学卒業後、大手コーヒーチェーン店で6年、薬局事務8年の勤務を経て、2022年に独立。現在はインテリアデザイン・SDGs・社会福祉分野を中心に、オウンドメディア・PR記事・地方自治体の広報など幅広く執筆中。従来の常識や価値観をそっと解きほぐし、新しい生き方や心の豊かさに光を当てながら、誰かの小さな一歩となる記事を目指して取材を行う。
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(フリーライター みつはら まりこ)
フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(前編/全2回)
■早朝、愛子さまのために作った駅弁
2024年3月27日、朝4時半。
三重県松阪市の駅弁屋「あら竹」の調理場に、6代目社長の新竹浩子さんは立っていた。この日、彼女は天皇陛下の長女である愛子さまとその御一行が近鉄電車内で食べる駅弁「モー太郎弁当」8個、「特撰牛肉弁当」2個を作った。
5時に米を炊きはじめる。モー太郎弁当は、三重県産の調味料を使用したあら竹オリジナルのタレで黒毛和牛をじっくり炊く。炊きあがった肉を取り出し、再びタレを絡める。牛の容器にご飯を敷き詰め、照りと艶のある肉を、ふわっと広げて盛る。
6時15分、3カ月前からの依頼で浩子さんが東京へ直接届けなければいけない駅弁20個を含め、計30個の駅弁が完成。愛子さま御一行への配達は、弟で長男の信哉さんに託した。
「駅弁は、お母さんが作るお弁当。100人いれば100通りの『ふるさと』があるんです」
元女優という異色の経歴を持つ6代目社長。
その経営哲学は、家業を嫌って東京へ出て、女優として挫折し、雑用係から社長になるというユニークなキャリアから生まれた。
■弟が4人、長女はお呼びじゃなかった
駅弁あら竹の店舗は、新竹家の自宅兼店舗。1階は調理場、事務所、売店があり、2階が住居だ。祖母と母は一人娘で、2代続けて養子を迎えて家業を継いできた。駅弁は本店や松阪駅構内の売店で販売するほか、電話注文があれば駅のホームまで届ける。列車の停車時間に合わせて出向き、手渡す。このサービスは今も続いている。
浩子さんは新竹家の長女として生まれ、翌年には年子で信哉さんが生まれる。その後も男の子が3人続いた。
「男の子が4人も生まれたから、新竹家の継承は安泰。それもあって、父や母は私に全然興味がなくって」
小学校に上がる前から駅弁の紐かけが仕事になり、夏休みの繁忙期には1日に200個、300個とこなした。中学生になると店頭に立ち、駅弁とともに三重県を代表する「赤福」を売った。
当時、あら竹は松阪市で唯一の赤福販売店。「赤福にまつわる物語を添えて売ると、お客さんは喜んで買っていかれたのを覚えています」
商品の背景を丁寧に語り、相手の心に響く言葉を選ぶ。これが後の広報や商品開発の原点となる。
■嫌いだった、家族総出の「駅弁」家業
ただ、浩子さんは家業が心底嫌いだった。年中無休で、家族旅行は夢のまた夢。「とにかく家がうるさかった。食卓では商売の話が日常茶飯事だし、注文の電話が入ったらご飯を食べていても手を止めて家族総出で駅弁を作るから」
逃げ場は本の世界だった。アルセーヌ・ルパンや怪人二十面相などシリーズものを端から借りて読み、「学校で一番図書館を利用した子」と先生から言われた。
高校は進学校に入学するも、2年生から勉強漬けの環境に馴染めず、起立性低血圧症で朝起きるのも苦痛に。それでも休日は家業の手伝いに追われ、悶々とした日々が続いた。
大学受験が近づくと、願望は明確になった。「家を出たい」。
記念受験した明治大学に合格すると、「東京なら私のことを知っている人もいないし、家から一番遠い。新しい人生がはじめられる」。両親は反対しなかった。
■アルバイトに明け暮れた劇団員生活
東京での生活は、昼は講義、夜は趣味の観劇が日課となった。下北沢の小劇場から歌舞伎までジャンルを問わず足を運び、観劇後は必ず『演劇界』という専門誌を読む。劇評と自分の感想を比較するのが面白く、自分の感想と違う点を発見したときは同じ作品を2、3度と観に行って分析するのが習慣になった。
大学3年の頃、演出家・松浦竹夫氏を知る。劇団「テアトロ海」と、演劇界で一流の師から教われるという養成所を立ち上げた人物だ。演劇好きが高じて、就職活動する同級生を横目に、ミーハー心を抱きながら養成所に入所し、女優を目指す。ただ、劇団員の収入だけでは生活できず、新たに始めたのがマネキン(実演販売)のアルバイト。浩子さんはなにを担当してもよく売り、販売実績が認められて美容メーカーから正社員の打診を受けるほどだった。
初見の商品をこれほど販売できたヒントは、劇団のチケット売りにあった。
劇団員にとって、チケット売りは生死を分ける。紀伊國屋ホールのような大劇場では、席を埋めなければ赤字になる。ただ「見に来てください」と言っても誰も買わない。作品の背景を語り、感情に訴える必要があった。
「特攻隊の話の芝居では、ご年配の男性に、『“蛍になって帰ってくる”と、最後に特攻隊が旅館の女将に涙ながらに話すシーンがあって』と説明すると、琴線に触れたようで購入してくださいました。マネキンも同じで、人には必ず興味を示すポイントがあるんです。それを見つけ出せば、行動を起こしてくれると知りました」
■大河ドラマに出演、自分の姿に幻滅
1985年、NHK大河ドラマ『春の波涛』への出演が決まった。主演の松坂慶子さんが演じる川上貞奴が日本初の女優学校で生徒に舞踊を教えるシーンで、生徒役の一人として抜擢された。
放送日、自宅で一人、テレビの前に座って出演シーンに見入る。カメラが左からゆっくりとなめるように進み、最初に映ったのは下座にいた浩子さんの横顔。その瞬間、全身が凍り付いた。
「もう、女優なんてできない。
無理……」
画面に映る自分は想像とはまったく違う。同じ画面に映る松坂慶子さんとの対比が顕著で、見るに堪えなかった。舞台なら遠目で見える。写真なら一瞬を切り取るだけ。しかし、テレビは容赦なくすべてをさらけ出す。
「自分の限界を突きつけられるような、越えられない壁を思い知らされたような……」と目を覆う。自分でも認める、ひねくれた性格。しかしそれは、中途半端を許せない性分の裏返しでもあった。
テレビ放送のあった日、ふと、何日か前の母からの電話を思い出した。「おじいちゃん、がんなんさぁー(がんなんだ)」。あら竹の大黒柱で精神的支柱だった祖父は、すでに余命宣告を受けていた。
「世の中には何万人もの女優さんがいるけれど、新竹亮太郎の孫娘は私一人。
潮時だ」
25歳の浩子さんは女優に見切りをつけ、故郷に帰ることを決めた。
■マネキンも劇団員経験も生きた
松阪に戻って1年後、浩子さんが力の限り看病した亮太郎さんが亡くなった。父・日出男さんが社長に、弟の信哉さんが専務になり、浩子さんは「駅弁あら竹 新竹浩子」という肩書のない名刺を持った。
「マネキンのアルバイトでお客様に喜んでもらう楽しさを知っていたから、家業への抵抗感は薄れていました。何より、養子として祖父との確執に苦しんできた父が社長になった今、全力で支えたいと思って」
仕事は雑用からはじめた。駅弁作り・プライスカード作り・松阪駅への配達・取引先との交渉・百貨店の催事の準備。ネクタイを締めてかしこまる場を嫌った現場主義の父に代わって、日本鉄道構内営業中央会の会合にも代理出席した。
さらに、メディアの取材を受けるときには、劇団時代の経験が生きた。父の衣装選びや取材風景を撮影し、当時の駅弁業界では珍しかったホームページに取材の様子を掲載。「あら竹がテレビで紹介されました!」と、アピールした。これが「取材の取材」と呼ばれる手法になる。
積極的な広報活動で認知度が上がると、注文も増えた。昼間は12人のパートさんがいるが、夜は家族だけ。食事中でも家族総出で駅弁を作り、三瀬谷駅付近で30個の車内注文が入れば、20分で作ってホームへ向かう。こうした慌ただしい光景は新竹家では珍しくなかった。
浩子さんが30歳の時に出産したひとり娘の実奈さんは振り返る。
「母の寝言は全部仕事のこと。家を空けられないから、学校行事には祖父と祖母と母がローテーションで見に来てくれました。発表会で壇上から母を見つけたときは『やった! 今日はお母さんいる!』って嬉しくて。寂しさはなくて、来てくれた喜びの方が大きかったです」
■初めての駅弁づくりで胃潰瘍に
入社から15年目、浩子さんは新聞の朝刊で「本居宣長没後200年記念事業 記念商品を募集」という記事に目を止めた。松阪市が江戸時代の国学者・本居宣長にちなんだ土産物の開発を呼びかけていたのだ。夜ご飯の席で父に切り出すと、「どうぞ」。41歳で初めて自分の企画で駅弁を作ることになった。
翌日、本居宣長記念館を訪れた。館長の高岡庸治氏は、本居宣長研究の第一人者。本居宣長の代表的な和歌を駅弁で表現するコンセプトを掲げて高岡氏に打診すると、意外な答えが返ってきた。
「毎日来なさい。まず勉強しないと作れないでしょう」
それから毎日、高岡氏は時間を割いて本居宣長について教えてくれた。著書も借りて読み込む。その後、試作を作っては持参し、グルメの高岡氏から意見をもらって作り直す日々。試作するのは、店が終わった後だ。夜に1人で調理場に立ち、納得いけば家族に試食してもらう。これは味も見た目も一切妥協したくない浩子さんのマイルールだ。
「でも、そんな日々が続いたからプレッシャーで胃潰瘍になりました。体重は3キロ減っちゃって(笑)」
販売にあたり、高岡氏は専門家ならではの深い知識を分かりやすい文章でまとめ、掛け紙に記してくれた。この経験から、浩子さんは駅弁開発において重要な手法を確立した。
「あら竹の駅弁は、松阪の文化を知って味わってもらうもの。その道の専門家の愛を借りること」
しかし、本居宣長弁当の販売がスタートして半年後、突然日本中を震撼させたニュースが流れた。
■BSE騒動で売り上げが10分の1に
狂牛病、後にBSE(牛海綿状脳症)と呼ばれる病気が国内で確認されたのだ。テレビでは、よろめきながら崩れ落ちるホルスタイン牛の映像が連日のように流れる。看板商品が「特撰元祖 牛肉弁当」のあら竹にとって、これは死活問題だった。
あら竹が駅弁に使っているのは黒毛和牛で、問題のホルスタインとは全く別物だが、影響は瞬時に現れた。JR南紀特急からの注文が止まり、毎年1月から2月に開催される百貨店の駅弁大会からも外される。「テレビの影響力の恐ろしさを知りました。本当に風評被害。悔しかった」と浩子さんは口を結ぶ。
車内販売と百貨店催事という2本の柱を同時に失い、売り上げは10分の1に激減。105年続く老舗駅弁屋が存続の危機に直面していたさなか、電話が鳴る。「私、牛肉弁当食べたいんやけど、売ってないやんか」。車内販売で買えないという客からだった。さらに別の客からも「なぜ今年の駅弁大会に出ていないの? 毎年楽しみだったのに」と、クレームのような声色で問い合わせが相次ぐ。浩子さんは事情を説明すると、電話の向こうで客はこう言った。
「頑張りなさい。私たちは待っているから」
この言葉が、浩子さんに火をつけた。とはいえ、牛肉弁当以外の名前で売るだけでは、根本的な解決にならない。
誰も見たことのない、特別な駅弁を作るしかない――。
■五感に響かせる「モー太郎弁当」誕生
起死回生の一手になったのは、雑誌で見かけた「五感に響く和菓子」というキャッチコピーだった。駅弁を五感に響かせるなら、どうする?
「視覚」と「触覚」は、黒毛和牛を象徴する、猛々しい牛の顔の形のパッケージを。顔のリアルな凹凸は、目を見張るインパクトがある。「嗅覚」は、すきやきの香ばしくて甘い香り。「味覚」はもちろん、黒毛和牛をふんだんに。そして「聴覚」を考えた時、浩子さんの脳裏に、開くとメロディーが流れる誕生日カードが浮かんだ。
業者に相談すると、光センサーで音楽を流す仕組みは可能だという。曲は「鉄道唱歌」と「ふるさと」に絞った。駅弁だからと、浩子さんの心は8対2で「鉄道唱歌」に傾いていた。しかし、ふと女優時代、演出家の松浦氏に言われた言葉が頭をよぎる。
“ありがとう”というセリフにも100通りある――。
「めんどくさそうなありがとう、心からのありがとう、泣きそうなありがとう。同じ言葉でも、音の高低・リズム・間の取り方で伝わる感情が変わります。駅弁を開けた時に流れる音楽は、どんな感情を呼び起こすの? と、問いかけて。100人のお客さんがいたら、100人にふるさとがある。『鉄道唱歌』なら、歌詞の通り新橋から横浜への鉄道開通という特定の歴史しか想起させないけど、『ふるさと』なら聞く人それぞれの原風景につながると思いました」
女優として100通りの表現を学んだ経験が、この選択を後押しした。牛の顔を開けたときに「ふるさと」が流れれば、誰もが心の琴線に触れる何かを感じるはず。
2002年10月14日「鉄道の日」、日本初のメロディー付き駅弁「モー太郎弁当」の販売をスタート。浩子さんはニンマリする。
「鉄道唱歌を選んでいたら、もしかするとここまで売れなかったかもしれないです」
■百貨店の駅弁大会で1日600個完売
モー太郎弁当発売後、地元の新聞に取り上げられたり、駅弁ファンの間で話題になったりして、少しずつ注文が来るようになった。そして、2002年1月に開催される東京・新宿の京王百貨店の駅弁大会に、初出品枠での参加が決まる。「催事に呼ばれたことで、一歩前進です」。百貨店からの初日の注文数は50個。BSE騒動前の牛肉弁当と同じ数で、妥当ではあった。
それが、開店5分後に完売。浩子さんはあら竹本店にいて催事の状況は見えなかったが、百貨店と客からのクレームに近い電話で、手に取るように状況が分かった。
「『大変です、新竹さん! 客が殺到してすぐ売り切れました! 明日は100個お願いします』って。お客様からは『催事行ったけど売り切れよ! いつ行けば買えるの』って。タイミングよく12月に受けた取材がテレビで放送されたそうです」
2日目の100個は10分で完売。3日目300個、4日目400個、週末には600個の注文が入り、最終日まで毎日完売が続いた。「容器の生産が追い付かなかったので、600個で勘弁いただいて。毎日600個作るのは必死でしたよ!」と浩子さんはあっけらかんと笑う。
これをきっかけに、BSE騒動で10分の1に落ち込んだ売り上げは急速に回復し、再び軌道に乗った。
「モー太郎は、会社を救ってくれた救世主です」
このとき、浩子さんはまだ社長ではない。まして、後に愛子さまがあら竹の駅弁を食べることなど、想像もしていなかった。
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みつはら まりこ
フリーライター
1986年生まれ、香川県出身。大学卒業後、大手コーヒーチェーン店で6年、薬局事務8年の勤務を経て、2022年に独立。現在はインテリアデザイン・SDGs・社会福祉分野を中心に、オウンドメディア・PR記事・地方自治体の広報など幅広く執筆中。従来の常識や価値観をそっと解きほぐし、新しい生き方や心の豊かさに光を当てながら、誰かの小さな一歩となる記事を目指して取材を行う。
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(フリーライター みつはら まりこ)
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