■問題は傑作「美人大首絵」完成後にあった
喜多川歌麿(染谷将太)は、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)と距離を置きたがっているが、蔦重はなんとかして歌麿を手元に置きたい――。このところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、そうした場面が繰り返し描かれてきた。
40回「尽きせぬは欲の泉」(10月19日放送)での蔦重は、とりわけ真剣だった。歌麿が死んだ妻きよ(藤間爽子)の顔をアップにして描いた大量の絵を見て、美人をバストトップで描くという、美人画としてはいままでなかった「大首絵」を歌麿に描かせれば、評判を呼ぶに違いないし、身上半減で経営が厳しい耕書堂に大きな利益をもたらしうる、と考えたからだった。
滞在先の栃木まで訪ねてきた蔦重から、錦絵を描くようにいわれた歌麿だが、最初は「私のためのようにいいますけど、詰まるとこ、金繰りに行き詰ってる蔦屋を救う当たりがほしいってだけですよね」とにべもない。だが結局、歌麿は蔦重の必死の訴えに説き伏せられて江戸に戻り、蔦重の厳しい注文に応えながら、美人大首絵を描くことになった。
第41回「歌麿美人大首絵」(10月26日放送)では、試し摺りを見た蔦重が、背景に雲母の粉を摺り込んだ雲母摺にすることを思いつき、歌麿のはじめての美人大首絵『婦人相学十躰』はすばらしい仕上がりになった。
そして、美人大首絵は大きな評判を呼ぶが、問題はその後の蔦重の、歌麿のあつかい方にあった。
■史実における蔦重と歌麿の関係
第42回「招かれざる客」(11月2日放送)では、歌麿の代表作のひとつで、当時の江戸で評判だった3人の美人を1枚に並べて描いた『当時三美人(寛政三美人)』も耕書堂から刊行される。難波屋おきた、高島屋おひさの2人は水茶屋の看板娘で、もう1人の富本豊雛は富本節の名取だった。
歌麿の絵は身近なアイドルのブロマイドのような役割を果たし、彼女たちを一目見たいという客が、それぞれの店に押し寄せた。
大繁盛で結構なことだが、注文をさばききれない歌麿は蔦重から、弟子に描かせて仕上げだけ自分でするようにいわれ、1点1点をしっかり描きたい歌麿は納得がいかない。しかも蔦重は、吉原からの借金を返済するために、歌麿に女郎の大首絵を描かせる約束を、歌麿への相談もなしにしてしまう。
納得できない歌麿はどうするのか。第42回の予告で流れた「もう蔦重とは終わりにします」という歌麿の言葉が気になるところである。史実においては、蔦重と歌麿の関係はどうなっていくのだろうか。
■蔦重だけが見抜いていた才能
今後の「べらぼう」は、蔦重に反発した歌麿が、蔦重とは手を切って西村屋などほかの地本問屋から錦絵を出したのち、蔦重側にふたたび説得され、また耕書堂からも出す、という展開になるようだ。実際のところはどうだったのだろうか。
「べらぼう」では、歌麿は蔦重にずっと「恋愛感情」に近いものをいだき、それゆえ蔦重の妻のてい(橋本愛)に嫉妬する、という描き方がされてきたが、念のためにいうと、その部分は脚本家の創作である。
さて、歌麿が蔦重のもとで最初に取り組んだ美人大首絵は、女性の性格を描き分けるというジャンルのもので「観相物」と呼ばれた。その代表作が寛政4年(1792)の『婦人相学十躰』だった。
顔自体は、そのころ理想とされた美人を描いているために、みな同じにも見える。
その際、美人で評判の市井の娘を主題にすることが検討され、前述した『当時三美人(寛政三美人)』はその代表である。また、蔦重には引き続き吉原との縁があった関係で、吉原が主題の錦絵も手がけていく。
■なぜリアルな美人画を描けたのか
歌麿はなぜ、心情的にもリアルな美人画が描けたのだろうか。松嶋雅人氏は「これは私の想像ですが」と断ったうえで、こう記す。「歌麿のなかには女性の心情と共振するような、特別な何かがあったのではないでしょうか。男の理屈で考え、男の目で、『女性はこうあってほしい』『女性はこうあるべきだ』という女を描いたのではなく、彼には女性の心の機微がわかる、そういう女性性というか、女性の感性があったように思うのです」(『蔦屋重三郎と浮世絵』NHK出版新書)。
大首絵で評判を勝ちとると、蔦重は歌麿に女性の全身像も描かせる。寛政6年(1794)ごろの『青楼十二時』がそれで、女郎の1日を1刻ごとに追った12枚のシリーズである。鳥居清長風の八頭身の美人像だが、普通は人に見せない女郎の日常や、着飾った場面の裏の姿が描かれており、やはり心情表現のリアリズムが傑出している。
ところが、歌麿は寛政6~7年(1794~95)ごろから、蔦重とは距離を置いて、ほかの版元から錦絵を出すようになる。若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田屋、松村屋、鶴屋……。その理由は、歌麿の自負心との関係で語られることが多い。
蔦重のもとから刊行された歌麿の美人画には、「歌麿筆」という署名の上に蔦屋のマークがある。これは蔦重と歌麿との関係性を示していた。すなわち、「これは蔦重がアートディレクションをして歌麿に描かせたという蔦屋優位を世間に示すものです」(前掲書)。
■自分の力を露骨にアピール
前掲書には続いて、こう書かれている。「まだ売れていないうちならいざ知らず、人気がでれば自分はもっとこんな絵が描きたい、こんなふうに描いてみたいと思うもの。浮世絵は版元優先とはいえ、歌麿は我慢ならなかったのでしょう」。
その後、蔦重は東洲斎写楽に傾注するが、だからといって、ドル箱の歌麿を蔦重が簡単に手放すとは考えにくい。やはり、自負心の強い歌麿が蔦重と袂を分かったと考えるのが自然だろう。
しかし、蔦重と組んでいた寛政6年ごろまでが歌麿のピークだ、というのが一般的な見方である。
そういう状況を実感していたからか否か、歌麿は自分の力を露骨にアピールするようになる。
たとえば、寛政7~8年(1795~96)ごろに近江屋から出した美人大首絵『五人美人愛敬競兵庫屋花妻』は、「歌麿筆」の上に「正銘」と記され、「本家」と書かれた印も押されている。さらには、画中の女性が読んでいる手紙に「人まねきらい」「美人画ハ哥子にとゝめ参らせ候(美人画は歌麿にとどめを刺す)」と書き込み、強烈な自負心が示されている。
■自負心が強いがゆえの模索
ほかにも寛政8~10年(1796~98)ごろに鶴屋から刊行された『錦織歌麿形新模様』というシリーズ内の「白うちかけ」には、画面左上に巻物をかたどった文章が配置され、「自分の画料は鼻とともに高い」と自画自賛する一方、ほかの絵師は「蟻のように出てくる木の葉絵師」だとしている。
強烈な自意識だが、蔦重と離れてしまっては――しかも蔦重は寛政9年(1797)に死去する――。自分の絵の方向性を手探りしながら、虚勢を張らざるをえなかったのかもしれない。
歌麿が離れてから、蔦重は歌麿と同じ鳥山石燕門下の栄松斎長喜(えいしょうさい・ちょうき)という画家を、美人画家として売り出している。長喜の描く美人も歌麿が描く美人に似たうりざね顔で、しかし、歌麿の絵にくらべると、なで肩で体はほっそりしている。
自負心ゆえに蔦重のもとを離れた歌麿だが、自負心ゆえに煩悶と模索が続いたのだろう。そして、気づいたときには蔦重はこの世の人ではなくなっていた。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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