ユニクロしまむらなど大手アパレルチェーンの業績が好調な一方、個人の衣料品店は存続の危機に瀕している。だが、東京・巣鴨に3店舗を構える「マルジ」は1952年に創業して以来、大手にできない方法で利益を出し続けている。
ジャーナリストの座安あきのさんによる連載「巨人に挑む商人たち」。第4回は「赤パンツの元祖『マルジ』の生存戦略」――。
■「宝くじに当たった」「受験に合格した」声が続出
東京・巣鴨の地蔵通り商店街に、平日から人の流れが絶えない一角がある。真っ赤なパンツを店内いっぱいに並べた「マルジ」だ。干支やメッセージ入りの赤パンツに赤色の靴下などを含め300種類以上、95%を店のオリジナル商品が占める。
日本には古くから、魔除けや健康祈願と結びついた「赤い下着」にまつわるさまざまな言い伝えがある。中世から江戸期にかけて、赤い布やふんどし、腹巻きは邪気を祓い、冷えや病気を防ぐ病除け・安産・健康祈願の道具とされた。神事では「厄落とし」、武芸では「勝負色」としても使われてきた。科学的根拠はもちろんない。だが実際、世界で唯一の赤パンツ専門店「マルジ」には、愛用する客から年中こんな声が寄せられる。
「宝くじに当たった」「念願の子どもを授かった」「受験に合格した」「商談がうまくいった」「病を克服した」――。
■「10円でも売れまへんで」と笑われたが…
始まりは、1993年11月の終わり頃。
「赤いパンツはありませんか」と一人の女性客が訪ねてきた。それから1~2週間の間にさらに別々に2人の客が同じことを尋ねてきた。初めてのことだった。店に赤いパンツは置いてなかった。不思議に思いながら、大阪や東京の問屋に問い合わせたが、どこも扱ってないという。
「それなら作ってみようか」。店主が大阪の縫製工場に問い合わせると、「そんなモン10円でも売れまへんで」と笑われる。12月、その工場から「赤色に染めた生地が2反余っていて、ミシンに空きができたので今なら作れる」と連絡が入った。
「2反で240枚の赤パンツができる。全部損してもいいから、試しに作ってみよう」
当時まだ、「赤い下着」は各地に残る風習や祭りにちなんで親しまれる程度のものだった。ところが、急遽仕入れた240枚の赤パンツはおよそ1カ月で売り切れ、マルジはすぐに本格生産に向け動き始める。刺繍やメッセージ入りの「多品種化」に挑むのと比例して、売り上げは右肩上がりに。
メディアから取材依頼が頻繁に入るようになり、「おばあちゃんの原宿」に誕生した新名物「マルジの赤パンツ」は徐々に全国区に広がった。さらに、2004年の申(さる)年には「申年に赤い下着を身につけると、病いが去る(サル)」という言い伝えの発信と相まって、爆発的なヒット商品となった。
■「巣鴨から出ない」から大手チェーンに負けない
人口減少、ネット通販の浸透、郊外型チェーン店の台頭によって全国各地の中心市街地がシャッター街へと姿を変える中、赤パンツに支えられたマルジは今日も「地域一番店」の座を守り、商店街を活気づけている。まさに「幸運を呼ぶ」赤パンツなのだ。
だが、この赤パンツの目立つ看板は、創業73年のマルジの特徴を表すほんの一面にすぎない。マルジの店はその隣と向かいに合計3店舗。S~5Lサイズのインナーに、身長別のパジャマ、春夏にも冬物を扱い、入院や介護に必要な品がワンストップでそろう。欲しい時に欲しいものが手に入る。多品種をそろえた赤パンツ同様、大手量販店には手の届かない「実用衣料」へのこだわりが幅広い客層を引き寄せ続けている。
経営するのは2代目社長・工藤敬司さん(75)と常務・工藤秀治さん(71)の兄弟。創業者の父・勇治さんに請われ、工藤社長が入社したのは31歳の時だった。それ以来、「小さな店が勝ち続けるための戦略」をあらゆる角度から徹底追求してきた。
バブル期に過去最高だった坪当たり1000万円超の売上高は現在、3分の1の水準になったにもかかわらず、粗利益率では当時の1.5倍。巣鴨から絶対外には出ない、「多店舗化」「拡大路線」から一切距離を置く経営方針を貫きながら、デフレにもコロナ禍にもインフレにも飲み込まれない、独自の経営ノウハウを積み上げた。
■アメリカの真似をしたら日本の小売は終わる
商売の起点になったのは今から53年前の1972年、22歳でアメリカ・テネシー州オークリッジに渡った工藤さんが食品スーパーで働き、「流通業の未来」を見てきたことにさかのぼる。当時、アメリカの流通小売業はすでに、成熟期にあった。
「大企業化する流通業は、激しい安売り競争で多くの企業が赤字でした。家族で休日に教会に通うような習慣は次第になくなり、社会がどことなく不安に包まれていた。大きな店には同じような商品が山積みにされ、腰からピストルをぶら下げた警備員が店内を巡回していた。こんなビジネスモデルが広がったら日本の小売文化は絶対ダメになる、そう直感しました」と振り返る。
今ほど海外が身近ではなかった時代、ベトナム戦争がようやく終結に向かう頃とも重なり、兵士の帰還とともに生活環境が変化していく様子を目の当たりにした。企業の規模拡大と価格競争の足元で、生活者の幸福感が奪われていく現実を対比させながら、工藤さんは早く日本に戻って商売の根幹を学ばなければという焦燥感に駆られたという。
■2000店舗×1社よりも、2店舗×1000社がいい
3年間の滞在予定を1年で切り上げて帰国し、商人の街、大阪に移り住んだ。アメリカで流通革命の最前線を見てきた工藤さんは、一つの「結論」をつかんでいた。

「日本の中に、2000店舗を有する企業が1社あるよりも、2店舗をもつ会社が1000社あったほうがいい。人々に幸せをもたらすような地域の小売文化が築けるという結論です。でも、まだ20代でなんの経験もなかった。ビジネスとは何か、体感するには大阪に行くしかないと思いました」
いわば飛び込みの就職活動だった。大阪にある200社のメーカーや問屋を自分の足で回り、最終的に船場にある繊維の卸問屋に「明日から働かせてほしい」と申し出た。「変わった若造の妙な話」(工藤さん)に興味を持った担当部長が3時間、根掘り葉掘り対話した後、その場で採用を決めてくれた。
■東京の人間がなぜ「大阪」から始めたのか
商売人にとって大阪は特別な場所なのだという。工藤さんは学生時代、作家・山崎豊子のデビュー小説『暖簾』の世界観に魅せられ、三方良しの大阪の「商人道」に深い関心を持った。
「大阪と東京は、商売に対する考え方が根本的に違います。大阪の人は商売に対してものすごいプライドがあって、自分たちの人生観が反映されている。ところが東京はそうじゃない。デパートやショッピングセンターの足元で(小規模な小売店の)商売は格下という見方をされた70年代に、自分は23歳で一生を通じてこの業界で商人として生きていこうと思ったわけです」
大阪の問屋に勤めながら、全国各地の商店街やメーカーの産地を飛び回った日々は、一瞬一瞬が血肉となるような実践経験の塊だったという。
目的意識が明確な人の学び方、時間の使い方がどれほど緻密で濃密か。工藤さんの行動原理は一本のブレない芯で貫かれている。
工藤さんには、17歳から30年間書きためた読書ノートがある。
西友ストア、駅前開発で個人商店がピンチに
「学生の時から、私は本を読むのが他の人より少し遅いという自覚がありました。頭のいい人は時代の流れを捉えてサッと切り替えられるけど、僕にはそれができない。だから、読んだ本や経験したことを記録して蓄積していく以外にないと思った。大阪での8年間は貯金などせず、自分の稼いだお金を全部、本と飲み代につぎ込みました」
さまざまな経営書を読み漁る中で出会ったのが、「ランチェスター戦略」の経営への応用だ。経営資源が限られた中で競合が手を出しにくい分野を磨き、生き残りを目指す「弱者必勝の戦略」とも呼ばれる。工藤さんは理論と哲学の知識をベースに実際の現場で仮説と検証を重ねながら、商売の体幹を鍛えることに没頭していった。
大阪の問屋の仕事が軌道に乗り始めた頃だった。東京・巣鴨の商店街で小売店を経営する父親から工藤さんのもとに、店の立て直しに協力してほしいと再三の要請が届くようになる。
工藤さんの父・勇治さんは、終戦から7年後の1952年に北海道岩見沢市から東京・巣鴨に移り住んだ。
商店街に10坪の店から始め、2店舗で計130坪の衣料品店を経営していた。だが、69年以降、巣鴨駅前に西友ストアが出店、駅周辺の開発が進んでいく。大手資本企業の影響力が増し、個人商店の買い物客の流れに変化が起き始めていた。
■「黙っていたってお金が右から左で儲かる」
工藤さんが父親の商売を継ぐ決意を固め、マルジに入社したのは1981年、31歳だった。大阪の問屋で培った営業力と商品企画力によって、入社3年目にはそれまで横ばいだった売上高が前年を上回るようになる。85年に弟の秀治さんが入社し経営体制が強化された。
その翌86年にNHKが「おばあちゃんの原宿」と題して全国放送で紹介すると、商店街は観光名所となった。マルジは93年まで10年連続、前年比の増収割合が毎年10~30%台を記録、店舗拡大しない一商店として「奇跡」といわれる成長を遂げた。
世の中は、バブル経済のまっただ中にあった。
「黙っていたってお金が右から左で儲かる、すごい時代ですよ。土地買え、別荘買えって、朝から晩まで周囲はそんな話題ばかりで仕事の話はない。なんか、嫌だなーってずっと違和感があった。そんな時に、生き様とか哲学とか、そんな話ができる気の合う経営者の仲間たちと勉強会を開くようになりました」
以来30年以上、その経営者仲間らと複数の店の定点観測や情報交換を続けてきた。冒頭で紹介した93年の「赤パンツ」の誕生も、こうして時代環境の変化をつぶさに観察し続けた延長線上にあった。
■バブルの終焉をいちはやく察知できた“習慣”
店に赤いパンツを求める最初の客が現れる半年ほど前、工藤さんは仕入れ価格の動向から、日本経済がこれからデフレに向かう兆候を察知していた。当時マルジは1坪当たりの売上高が1000万円超、年間約13億円を売り上げていた。
「今までのやり方を続ければ売上高が伸びても利益は次第に下がっていく」と考えた工藤さんは、利益の確保を確実にするため、小さくて目立たず高額品ではないが根強い支持を集められる「シンデレラ商品」の開拓を急ごうと、情報のアンテナを高く張り巡らしていた。沸々とわき立つ脳内をリフレッシュするため日本を飛び出し米ニューヨークに数日滞在、「アメリカに答えはない」と帰国した直後にキャッチしたのが、お客さんからの「赤パンツ」情報だったのだ。
景況感のわずかな変化を見逃さず実行に移せるのは、工藤さんが続けるもう一つの「緻密な習慣」が強力な後ろ盾になっている。
「世界と日本」「巣鴨」「マルジ」のそれぞれで起きた出来事をパラレルに記録した、時代年表の作成だ。巻物のように一連につながり、几帳面な文字でニュースになった出来事や為替、店の企画などがびっしりと書き込まれている。
■世界目線で「マルジの動き」をとらえる
「マルジに入社してしばらくたった頃、問屋と小売では随分と仕事の中身が違うなと思いました。これは、自分の時間軸と世界や街の時間軸を合わせた年表を作っておかないと、自分の立ち位置が見えなくなるかもしれないと思って始めたのがきっかけです。僕が生きている限り書き続けるつもりで、一生分の紙を買い込んで、40年以上記録し続けています」
人の暮らしを彩るモノやサービスとは、螺旋階段を上から眺めるように、いつの時代も技術革新を少しずつ取り込みながら利便性と懐かしさを兼ね備えた形でループしている感覚があるという。手作りの時代年表は、未来を見通すために頻繁に活用しているデータベースなのだ。
「子供の頃から僕はとても気が長い性格。目の前の小さな選択が、後々大きな変化を生むことを想像しながら今の行動をとる習慣がある。経営戦略というのも、その時が来てから準備するのではなく、ここぞという瞬間に動けるように、ずっと前から準備しておくことだと思って、日々観察しています」
イトーヨーカ堂を失った縫製工場と手を結ぶ
大手量販店が広域に進出するほど、限られた場所でしか買えないモノや人との交流体験は、大きな吸引力となる。マルジは2004年、主力だった婦人服を縮小し、日常使いの実用衣料を強化するかたわら、「赤パンツ」を次のステージに引き上げようと国産品のブランド化を目指した。工藤さんが真っ先に訪れたのは、山形県に縫製工場をもつショーツのメーカーだった。
「当時、量販店の中でもイトーヨーカ堂さんは模範的な売り場を作っていて、品質はどれも素晴らしかった。その中でショーツの生産を支えていたのが山形にある縫製工場でした。高い品質でバリエーション豊富な製品を作ることができる、他にはない特徴があった。ところが、同時期にイトーヨーカ堂さんは国内製造ではコストが合わないということで、製造拠点を中国に移すことになった。すると、その生産ラインに空きができましてね。そこで作れる分だけ丸ごと赤パンツを生産してくれることになった。国産を求めているマルジにとって、こんな幸運なことはありませんでした」
■「価格と質で中国には到底かないません」
日本の製造業の海外シフトが加速していく、まさに「日本経済の失われた20年」の入り口でマルジは逆に国内メーカーとの結びつきを強めた。質のいい赤パンツのギフト需要を見込み、取引先や商品構成を変化させた。このことが、創業以来ディスカウンターだったマルジの立ち位置を大きく転換し、店全体の品質と独自性、信頼を高める分岐点になったという。
だが、差別化の柱となる日本のものづくりの基盤は崩壊の一途をたどっている。日本のアパレルにおける国産品の割合は流通量全体の1%台にまで落ち込んだ。マルジが生産委託を相談したショーツメーカーはイトーヨーカ堂の海外シフトによって廃業に追い込まれた。
一方、その傘下にあった山形の縫製工場は赤パンツの受注によって単独で存続に道をつないだ。人手不足による事業縮小を余儀なくされながら、現在も稼働を続けている。コロナ禍の緊急事態で赤パンツの店を5カ月閉めた時にもマルジは継続発注を続け、大量の在庫を背に「職人の仕事」を守ろうと奮闘した。
赤パンツ商品を含め、マルジが扱うその他の実用衣料においても国産品を仕入れることは非常に困難になったという。
「京都の西陣とか岡山のデニムとか、特殊なマーケットの範囲でのものづくりは可能ですが、国内の工場でまとまった分量を一定の品質を保って生産することはほぼできない。価格と質で中国には到底かないません。新しい素材や糸に対応できる、人の技術も機械もほとんど残されていないのが現状だと思います」
■老舗卸とのタッグで実現した「マスク」の量産
業界の行く末を見通し、工藤さんが最後の頼みの綱として期待を寄せる企業がある。東京・日本橋に本社を置く「エトワール海渡」だ。全国各地のものづくりメーカー約2500社をネットワークし、国内外約1万店の小売店向けに商品を卸す、創業123年の総合卸売企業。特に季節や流行を先取りした売り場の編集企画力、オリジナル商品の開発力に定評がある。
世界をコロナ禍が襲った2020年3月上旬、工藤さんはエトワールが有する「問屋機能」の真の役割を目の当たりにする出来事に遭遇した。パンデミックの脅威が急速に広がり、市場から不織布マスクが消えた時だ。工藤さんは有志の小売店と共同で布製マスクを生産販売することを企画し、エトワールの担当者に相談を持ちかけた。
「中国製マスクが出回る4月15日までの1カ月の間に、3万枚の布マスクを作ってもらえるメーカーを探してほしい」
厳しい条件にもかかわらず、エトワールの動きは迅速だった。全国各地のメーカーとつながり、感染拡大の長期化を見据えた商品構成の見直しを進めている最中だった。複数のメーカーから、工場の稼働を維持するため布マスクの生産をしたいという提案が寄せられ、水面下で売り先となる出口を探っているところに舞い込んだマルジからの生産依頼だった。取りまとめに向け、社内は一気にドライブがかかったという。
■日本がものづくりで勝てなくなった本当の理由
エトワール海渡取締役の渋市徹さんは、問屋側の動きをこう解説する。
「中国で大量生産されるような工業製品とは違って、繊維系の国内メーカーさんとは日頃から、お客さんの細かな要望に応じてデザインや色を変更したり、少量の試作品を作ってみたり、そんなやりとりをしています。発注の際に見極めが難しいのは生産分野によって、工賃に幅があること。どのレベルまでクオリティーを求めるかでもメーカー選びは変わってきます。マスクだったらどこが対応しやすいか、日常業務の延長でそれを判断できたことが良かったかもしれません」
複数のメーカーに同時発注をかけ、3万枚の布製マスクが納期内に完成。「アベノマスク」よりも早く、各小売店の顧客に届けられたことは、関わったメンバーにとって大きな成功体験になったという。
「日本国内のメーカーさんがこれだけ短期間でまとまって動いてくれた例を私は知りません。エトワールさんが長年培った信用とサプライチェーンのなせる技でした」と工藤さんは強調する。
「メーカーは自社の機械や職人の技術にいつも没頭しているので、営業は得意じゃない。末端の小売店の現場で何が求められているのかあまりわかりません。その逆も同じで、小売店はたとえ売価を引き上げても、それがメーカー側の工賃に反映されているのかまでは、目が向かない。だから日本では国産の新しいものづくりができなくなってしまったのです」
■メイドインジャパン消滅の危機を救うために
そんなメーカーと小売店の両方の状況を熟知しているのが、間に立つ卸問屋だ。エトワール海渡には、2度の世界大戦、数々の災禍をくぐり抜け、そのたびに取引先の助けになるような流通構造の革新を起こしてきた経験値の基盤がある。そのDNAを根っこに宿す社員たちと会話をする時、工藤さんは微かな希望を見出し、同時に喪失が近いことに焦りも感じるのだという。
「安ければいいという小売店が圧倒的に多い中にあっても、メーカーの技術の価値や工賃にまで配慮できる小売店さんは確実に存在します。お店側の情報を翻訳して商品を企画しつつ、一方で、生産工程でしっかり利益が出るように流通全体のプロセスを考えてあげること。これは、うちが赤パンツの生産で実践してきたことです。もっと広い範囲でこれを実践できるのは現状、問屋機能がまだ生きているエトワール海渡しかないと、僕は思っています」
工藤さんが憧れてきた「商人道」という商いの哲学は、客の困りごとの解決に奔走する「問屋」を介して育まれてきた歴史がある。だが、国内のアパレル産業の衰退とともに、各地の卸問屋はことごとく事業規模の縮小を余儀なくされている。中間業者を排した製造と小売の一体化によって「ユニクロ」のようなグローバルチェーン店が誕生した一方、その足元では、生産技術の流出、過度な合理化による国内のサプライチェーンの瓦解が加速した。メーカーと小売店をつなぐ動脈は細くなり、地方の街の衰退にもつながった。
■これからも“隙間”を埋めて勝ち続ける
だが、巣鴨の商店街を拠点に“弱者必勝”を成り立たせてきた工藤さんの目には今、異なる変化と可能性も見えているという。人や技術の流出によって広がる「隙間」を居場所にして、赤パンツのような小さな「シンデレラ商品」、限られた商圏で成り立つビジネスモデルの数々が全国各地に生まれてきていることだ。
「これから大きな規模で新しいモノを作ることは難しくなりますが、小さくとも自分のできる範囲で商人道を生きる人たちは増えていると感じます。そこに行かないと出会えない価値を生み出していて、決して暗い時代ではない。だからこそ、小さな商売人同士をつなぐ、問屋の役割が今まで以上に重要になってくると思うのです」
信用を重んじ、ともに栄え、限られた資源で創造や改善を惜しまない。「マルジの幸運を呼ぶ赤パンツ」とは、工藤さんが商人人生をかけて追求してきた商いの心得が詰まったシンボル。そして、経営に携わる人々が、利益は「人の喜び」の結果であるという目的を忘れないための「魔除け」の御守りでもあるのだ。

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座安 あきの(ざやす・あきの)

Polestar Communications取締役社長

1978年、沖縄県生まれ。2006年沖縄タイムス社入社。編集局政経部経済班、社会部などを担当。09年から1年間、朝日新聞福岡本部・経済部出向。16年からくらし班で保育や学童、労働、障がい者雇用問題などを追った企画を多数。連載「『働く』を考える」が「貧困ジャーナリズム大賞2017」特別賞を受賞。2020年4月からPolestar Okinawa Gateway取締役広報戦略支援室長として洋菓子メーカーやIT企業などの広報支援、経済リポートなどを執筆。同10月から現職兼務。朝日新聞デジタル「コメントプラス」コメンテーターを務める。

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(Polestar Communications取締役社長 座安 あきの)
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