働かない、家に帰ってこない、給料は酒とギャンブルに消え、大借金をつくる。結婚した相手はダメ男だった。
当時20代の井後史子さんは3つの仕事をかけもちして必死に働くが、露頭に迷う寸前まで追い込まれた。だが、そこに思いもよらぬ救世主が現れる。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが、井後さんの激動の半生を取材した――。
厚生労働省によると、2025年3月時点の生活保護の新規申請件数は、2万2484件(前年同月比867件増加、4.0%増)。生活保護を開始した世帯数は、2万395世帯(同1062世帯増加、5.5%増)。賃金は上がらず、物価が異常に高騰する中、さらに生活保護が必要な人々が増えるのは必至な状況だ。
介護や毒親の取材現場で筆者が以前から気になっていたのは、不正受給問題への批判がある中、経済的な困窮者が生活保護を忌避するケースが多いことだった。その背景には、生活保護の仕組みの複雑さや“得体の知れなさ”が影響しているのではないか。そんな問題意識を胸に、かつて生活保護を受給していた方々の話を通じて制度の実態を明らかにして、正しく救われる人や機会を増やしていきたい。

■“デキ婚”した夫はDV男だった
関西地方在住の井後史子さん(52歳)は、27歳の時、夫が突然家に帰ってこなくなった。同い年の夫とは、高卒後に入ったバスケットボールの社会人チームで知り合った。交際し、妊娠がわかると、20歳で結婚。
21歳で出産した。
エアロビクスのインストラクターをしていた井後さんは、妊娠をきっかけに家庭に入った。夫は高卒後、アルバイトをかけ持ちしながら、ストリートバスケットボールをメインに活動するバスケットプレーヤーだった。
子どもが生まれると、夫に「定職に就いてほしい」と伝えた。渋々と定職に就いた夫だったが、長くは続かなかった。
「母親としての自覚が芽生えた私が、自分そっちのけで家事と育児に追われるのが面白くなかったのか、家族のために定職に就くことでバスケを我慢させられたストレスがあったのかはわかりませんが、夫は毎日のように飲みに行くかギャンブルをするかで、仕事が終わっても真っすぐ帰ってこないようになっていきました」
■「もう夫を当てにできない」
当時、夫の給料は現金を手渡しだった。給料が出ると決まって飲みに行ったり、パチンコに行ったりして帰りが遅く、時には数日帰ってこないこともあった。夫の給料が井後さんの手に全く渡らなくなるまで、さほど時間はかからなかった。
たまに帰ってきた夫に、「もう、いいかげんにしてよ!家族のために働いてよ!」と井後さんが声を荒らげると、夫はキレて殴る蹴るの暴力を振るう。井後さんの体にはアザだけが増えていった。
「お酒が入ると気が大きくなる人で、口だけでなく手も出すようになるのですが、お酒が抜けると優しくなる……って、当時はまだあまり知られていなかった言葉だと思いますが、今で言うDVですよね」
多くの場合、DVには、被害者が暴力に怯える「緊張期」、実際に暴力が振るわれる「爆発期」、加害者が謝罪したり優しくなったりする「ハネムーン期(開放期)」という加害者の行動サイクル(周期)があり、何度も繰り返されると言われている。「ハネムーン期(開放期)」で加害者が被害者に優しくなるのは、被害者が自分から完全に離れてしまうのを防ぐためだ。

DVは身体的暴力だけを指す言葉と思われがちだが、精神的暴力(モラルハラスメント)、経済的暴力、性的暴力なども含まれる。井後さんは、経済的暴力も振るわれていたわけだ。
ある日、夫は会社で上司と喧嘩をして辞めて帰ってきた。驚くべきことに、次の職場でも同じことを繰り返し、職を転々とし始めた。当時は保育園が十分ではない時代。「もう夫を当てにできない」と、2歳の息子を預けて働ける託児所付きの仕事を探し、働き始めた。
■「もう無理だ」絶望の末に
井後さんが26歳、息子が4歳になったある日のことだ。家に借金の取り立ての電話がかかってきた。
「どうも夫は、ギャンブルに使うお金を借りてはまたギャンブルで溶かして……みたいなことを繰り返していて、借金が膨れ上がってしまったようです」
この頃の夫は、数カ月帰ってこないこともザラ。借金取りの電話は頻繁にあり、家の郵便受けに、借金返済を求める手紙を入れられるようになった。
「もう無理だ」と思った井後さんは、夫の借金を義両親に相談したが、「自分たちで精一杯だから」と断られた。自分の両親に相談すると、「“デキちゃった結婚”で勝手に出て行ったくせに、都合のいい時だけ頼って来るな!」と怒鳴られ、八方塞がりに。

「私には頼るところがないんだ」と絶望した井後さんだったが、「もういい!誰にも頼らないで生きてやる!」と腹を決めた。
この時、息子が幼稚園に入園することができたのは幸いだった。息子を幼稚園の延長保育に預けて吉野家で働き、夜は息子を寝かしつけてからスナックでパート。午前3時から新聞配達をして、隙間時間を息子の送迎や家事、睡眠時間に充てた。
「仕事のコネもない。特別な経験も能力もない。そんな自分が男の人並みに稼ごうと思ったら、人よりたくさん働くしかなありませんでした」
帰ってこない夫が作った借金に加え、不足する生活費を補うため、井後さんが親戚を回って借りた分を合わせると、借金は約500万円にのぼった。それらを返済するため、井後さんは、睡眠時間を削ってがむしゃらに働いた。
■朝は新聞配達、昼は吉野家、夜はスナックで
1~2カ月はうまく回っているように思えた。だが計算上、「これで何とか借金を返済しながら生活できる!」と安心したのも束の間、3カ月経つ頃に高熱を出して動けなくなり、休まざるを得なくなってしまう。
「この時ばかりは、『なんで自分の体はこんなにも弱いのよ!』『結局、私が意地になって働いても、数カ月しか続かないんだ』と自分を責め、『自分は何をやってもダメな人なんだ』と落ち込み、涙が止まらなくなりました」
まだ20代とはいえ、未就学児を抱えながら、朝は新聞配達、昼間は吉野家、夜はスナックでバイトという生活を3カ月も続けられるのだから、「井後さんは十分体が強いほうだ」と思うのは筆者だけだろうか。
だが健康な頃はなんとかなっても、体調を崩すと人は心細くなるものだ。

当時の井後さんの夢は、「お金のことを心配しないで眠れるようになりたい」「家族一緒に揃って毎日温かいご飯が食べたい」「心から笑える生活がしたい」だった。しかし、「こんなささやかな夢さえも、私は叶えることができないなんて……」と自分が情けなくなり、苦難の現状をすべて自分のせいだと責め、自分が大嫌いになっていた。。
ところが、非情にも運命はさらなる追い討ちをかける。
賃貸マンションに住んでいた井後さんは、月約12万円の家賃を3カ月分滞納していた。2000年12月、大家さんから、「溜まっている家賃をお支払いいただけないなら、今年いっぱいで強制退去していただきます」と通告された。
当時の井後さんは、電気、ガス、水道料金も滞納しており、それらを止められるのも時間の問題だった。夫はもう半年以上帰ってこず、連絡さえよこさない。相変わらず借金取りからの電話は頻繁にあり、毎日怯えて暮らしていた。
「ここまできたらいっそのこと、路上生活者になってやる!」
と半ばヤケクソで投げやりになりかけた井後さんだったが、時は極寒の12月。「まだ5歳の息子を、寒さと飢えで失ってしまうかもしれない」と思い直し、投げやりな気持ちを頭の中から消し去った。そして、
「このままでは夫の借金まで払わされてしまう。
泣いていても何も変わらない。とにかく行動しよう!」
そう思った井後さんは、以前、夫婦喧嘩の際に夫に書かせた離婚届を役所に提出。その足で近所の不動産屋に駆け込んだ。
■「この世に中に、神様っているんだ!」
その不動産屋で井後さんは、夫が帰ってこないこと、借金があること、幼い子どもがいること、今年中に滞納している家賃を払わないと強制退去になること、親たちに援助してもらうことは難しいということまで、自分の置かれている現状を洗いざらい打ち明けた。
「その時の私は、『恥も外聞も構っていられない。どう思われてもいい。今以上に悪くなることなんてもうないわ!』と開き直っていました」
ひたすら話を聞いてくれていた不動産屋の男性は、おもむろに言った。
「生活保護を受けたらどうでしょう?」
井後さんは面食らった。
「生活保護を受ける方って、病気で働けない方とか、やむをえない事情のある方とかじゃないんですか? 私、まだ27歳ですし、健康だからもらえないですよね?」
当時の井後さんは「渦中の人」であり、「やむを得ない事情のある人」だったが、そんな自分を客観的に判断できず、生活保護受給という選択肢を思い浮かべることができなかった。おそらく不動産店の男性もそう思ったからこそ、救いの手を差しのべたに違いない。
「母子家庭だと生活保護の中でも、子どもが18歳になるまでの期間限定で、子ども1人につき上乗せして支給される『母子加算』があるんですよ」
自分が生活保護を受けられる可能性があることを想像したこともなく、母子加算という制度の存在自体も知らなかった井後さんは、目から鱗が落ちる思いで聞いていた。
「当時は、車はもちろん、貴金属やエアコンを持っていたらダメで、とにかく最低限の生活をしていないと申請が通らないと聞いていたのですが、不動産屋さんに『そこまでじゃないですよ』とアドバイスされました」
■「心が震えて涙が止まりませんでした」
この男性が、「ちょっと、彼女に説明してあげて」と店の奥にいた女性事務員を呼んだ。
実はこの男性は不動産店の社長で、呼ばれた女性は母子加算のある生活保護受給者だったのだ。
女性から生活保護について詳しく説明を受け、「今住んでいるマンションでは申請が通らないから、引っ越したほうがいいよ」といった助言をもらった。風呂なし、トイレ汲み取り式のアパートを見つけると、女性は「ここで生活保護の審査が通るまで、半年間だけ頑張れる?」と訊ねた。
「はい、頑張ります」
井後さんは即答。さらに社長が、「今お金がないなら、契約金などは生活保護が降りてからでいいから」と言ってくれた。
「夫が帰ってこなくなってから、初めて人の優しさ、温かさに触れた瞬間でした。『この世の中に、神様っているんだ!』と思い、感謝で心が震えて涙が止まりませんでした」
■捨てる神あれば拾う神あり
不動産店の事務員の女性から、生活保護担当の福祉事務所に行く際は、
・すっぴん

・ボロボロの服

・ボサボサの髪

・徒歩か自転車で
というレクチャーを受け、井後さんはその通りにした。
生活保護担当のケースワーカーは井後さんの話を丁寧に聞いたあと、生活保護の申請をサポート。2週間後には無事通ったとの連絡を受けた。
「不動産屋さんでの出会いがなかったら、私は今ここにいなかったと思います。当時はスマホはもちろん、インターネットやパソコンが普及していない時代。自分で検索できないし、周囲に生活保護をもらっている人がいなかったので、生活保護を受けようなんて発想自体、全く思いつきもしませんでした」
夫が失踪し、義両親にも自分の両親にも冷たくあしらわれ、たった1人で頑張り続けていた井後さんは、孤独と不安で押しつぶされそうになっていた。そんな時、不動産屋の社長と事務員の女性の親切に触れ、大きく心を揺さぶられた井後さんは、この時はまだ具体的ではなかったが、「私もいつか、人の役に立ちたい」と思うようになっていた。
生活保護制度の中でも母子世帯に対する主な対応には、子の養育には母子加算のほかに、一児童養育加算や0歳児のミルク代として人工栄養費、新生児のための寝具、産着、おむつ等に対して一時扶助費、就労に伴う子の託児費の控除として勤労控除などがある(地域による。役所や福祉事務所で要相談)。
いずれにしても、人間にテレパシーはない。苦しい時であっても、声を上げなければ苦しんでいることに誰も気づいてはくれない。
井後さんは、最後の最後に不動産屋で心から声を振り絞ったがために、救いの手が差し伸べられたのだ。捨てる神あれば拾う神あり。声を上げるだけの勇気は、最後までなくさないようにしたい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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