■宮澤エマが演じる“秀吉の実姉”
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では豊臣秀吉を池松壮亮さん、その弟で主人公の秀長を仲野太賀さんが演じています。そして兄弟の姉・ともは、宮澤喜一元首相を祖父に持つ宮澤エマさんが演じます。実際には姉・ともはどのような女性だったのでしょうか。
ともは一般的には「智」と表記されることが多いので、本稿では基本的に智と記していきます。しかし、この「智」という名も確かな史料からは確認できないので、実際のところ彼女の実名は不明。「豊臣兄弟!」など、ドラマなどでは智の母も「なか」と呼ばれることが多いですが、本当の名は分かっていません(しかしここでは便宜上、なかと表記します)。
智が生まれたのは、諸説ありますが、天文3年(1534)とされます。父は弥右衛門、母はなかですので、秀吉と同じ父母のもとに生まれたのです。ちなみに秀吉の生まれは天文6年(1537)ですので、3歳差の姉弟。秀長の生まれは天文9年(1540)で、智とは6歳差ということになります。
■秀吉と同父母の長女だった
かつては秀吉・秀長は異父兄弟と言われていました。秀吉の父は弥右衛門、秀長の父は筑阿弥というように。
しかし、秀吉の実父は天文12年(1543)に死去したと史料から考えられるので“豊臣兄弟”は同じ父のもとに生まれたとする見解もあるのです。その見解を踏まえると、智と秀長も同父母のもとに生まれたということになります。
さて、智がどのような少女時代を送ったかは残念ながら不明ですが、智は弥助という男性に嫁ぐことになります。江戸中期に成立したとされる逸話集『祖父物語』(尾張国清須朝日村の柿屋喜左衛門が祖父の見聞談を書き留めた聞書)には、弥助は「藤吉郎(秀吉)姉」の婿と記されています。同書によると、弥助は尾張国海東郡乙之子村(愛知県あま市)の出身だったとのこと。弥助は同書の記述から馬貸しをしていたのではと推測されます。
■夫の弥助は馬を扱う小者だったか
一方、福田千鶴氏(九州大学教授)は、弥助は綱差(つなさし)という鳥を飼い慣らして準備しておく職業についていたのではと書いています。鷹狩りの際に獲物となる雉(きじ)などの鳥を飼い慣らすことを生業にしており、農業に従事していた可能性にも言及しています(しかし、農業の専従者ではなかった)。
『祖父物語』では織田信長に仕官していた秀吉が弥助から馬を借りた、との逸話が収録されています。秀吉は信長から「来年、美濃国(現在の岐阜県)に攻め入るので、一門の者から馬を借りよ」と命じられたのでした。
そこで秀吉が頼ったのが姉(智)の夫であった弥助だったのです。秀吉は義兄の弥助のもとを訪ね、栗毛(明るい黄褐色)の雑役馬(雑用に使われた馬)を借りることにします。
見苦しい格好で美濃に出陣した秀吉ですが、坪内十郎右衛門という者を討ち取り、手柄を立てた……。『祖父物語』の記述を基に考えるならば、智と弥助は信長の美濃攻め(永禄4年=1561年以降)の頃までには結ばれていたということになります。
■長男・秀次は秀吉の後継者になった
弥助は秀吉の姉・智を妻としたことで大きく人生を変えていくことになりました。また智との間に長男の秀次(「豊臣兄弟!」では幼名・万丸(よろずまる)として登場)が生まれたことも弥助にとって大きかったでしょう。秀次は阿波三好一族の三好康長の養子となりますが、それに伴い、弥助も「三好吉房」を名乗ることになります(基本的には弥助の名で通します)。
秀次が天正18年(1590)に尾張国を秀吉から与えられると、弥助も犬山城主となります。そして後に清洲城主ともなっています。
その間、妻の智はどのような生活を送っていたのか。夫の弥助に随従したと考えられますが、残念ながら詳しいことは分かりません。ただ、天正19年(1591)、秀次が秀吉の後継者として関白に就任してからは、聚楽邸(秀吉が都に造営した邸宅。秀次が関白となると同邸は秀次のものとなった)に智は夫・弥助(その頃までには出家して三位法印と称していた)と暮らしていたようです。
■5年間で3人の息子に死なれる
文禄2年(1593)、智は出家し、瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)と名乗ります。ちなみに智は「大(おお)かみ様」と呼ばれていました。智は秀次のみならず、秀勝・秀保の母とされます。しかし秀保の生年は天正7年(1579)であり、智が45歳の時の子供。よって秀保の生母は智ではなく、別にいたのではとの説もあるのです(ここでは秀保は智の子ということにします)。
智が産んだ秀次・秀勝・秀保に次々と悲劇が襲います。まず、天正20年(1592)に次男・秀勝が朝鮮出兵中の巨済島において病死。
■秀次が切腹、妻子たちも処刑に
秀保死去の3カ月後には、秀吉に謀反を疑われた秀次が高野山で自害するという悲劇が起こります。その妻や側室、子たちまでも30人以上が処刑された秀次事件では、実父である弥助も連座し、讃岐国(現在の香川県)に配流されています。智自身は秀次事件で罰せられるということはありませんでしたが、息子たちのあまりにも早い死に悲嘆の日々を送ったことでしょう。
文禄5年(1596)、智は秀次たちの菩提を弔うために京都に瑞龍寺を建立(後に移転し、現在は滋賀県の八幡山城跡にある)。罪を得ていた弥助も許されて都に戻ってきます。弥助は慶長17年(1612)に死去しています。それまでには弟の秀吉が病死(1598)。智は弟・秀吉の死に何を思ったでしょうか。
弟さえいなければ、わが子(秀勝や秀次)は死ぬことはなかったと、秀吉に恨みを抱いていたでしょうか。
■秀吉亡き後、秀頼と心を通わせた
秀吉や夫亡き後、智に労りの言葉をかけてくれたのは、秀吉の子・豊臣秀頼(母は淀殿)でした。慶長18年(1613)頃、秀頼が智に送った書状には「ご息災ですか。承りたく思います。世も涼しくなりましたので、大坂へのお下りをお待ちしています。(中略)この銀子200枚を贈ります」との文言が見えます。
高齢の智を気遣う秀頼の優しさが伝わってきます。他にも秀頼は「世上は冷えますので、よくよくご養生してください。約束した屏風を贈ります」などと記された手紙を伯母に送っています。智からすれば、秀頼さえ生まれなければ、わが子・秀次は死ぬことはなかったと思ったこともあったでしょう。一方、秀頼も自身が預かり知らぬこととは言え、伯母とその子(秀次)を襲った悲劇を長じてから知り、何とも言えない気持ちになったと思われます。
■北政所より長生き、91歳で没す
しかし、秀頼が智に出した書状を見ていると、慶長18年(1613)頃にはもはや、その溝は埋まっていたように感じます。高齢の伯母を気遣う秀頼もまた慶長20年(1615)に徳川方により攻められ、自害して果てます(大坂夏の陣)。智は秀頼の死も大いに悲しんだことでしょう。大坂夏の陣から10年後の寛永2年(1625)4月、智は91歳で亡くなります(その前年には秀吉の正室・高台院が亡くなっています)。
わが子・秀次の非業の死から30年、甥の秀頼の死から10年……。死の瞬間、智の胸に去来した思いとは何だったのでしょうか。
参考文献
・渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(創元社、1939年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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