2025年、日本一に輝いた福岡ソフトバンクホークス。しかし、昔から「強い球団」だったわけではない。
1994年に監督に就任した王貞治氏が、弱小だったチームを常勝軍団へと変貌させた。そもそも、なぜ「世界の王」がホークス監督を選んだのか。当時、最前線で交渉に当たった瀬戸山隆三さんに、ノンフィクションライターの日比野恭三さんが聞いた――。
■プロ野球人気の復活を託された王貞治
5月24日、福岡ソフトバンクホークスの全選手が、王貞治会長(以下、王」が監督時代に背負っていた背番号「89」の特別ユニフォームを着用して試合に臨む。王が福岡で切り拓いてきた歴史を、スポーツ文化として未来へ継承するプロジェクトの一環だ。
今でこそ福岡にとって欠かせない存在となっている王だが、32年前、今日のような光景を想像できた者はほとんどいなかった。1988年のシーズン限りで読売ジャイアンツの監督を退任して以降は現場を離れ、複数球団からの監督就任オファーを固辞し続けていたからだ。
世界の王は、なぜ縁もゆかりもない福岡の地で監督になることを決断したのだろうか。
その極秘交渉の最前線に立っていたのが、福岡ダイエーホークスで球団幹部を務めていた瀬戸山隆三だ。現在72歳になった瀬戸山は、すべての発端となった92年秋の出来事をこう振り返る。
「翌93年に福岡ドームの完成を控え、(ダイエー創業者の)中内(功※)オーナーは球団の体制を一新すべく根本陸夫さんを新監督に招聘しました。私が根本さんに引き合わされたのは、92年10月のこと。
東京にある本社の社長室で初めてお会いし、帰りにビル一階の喫茶店に誘われて入りました。席に着くなり『俺はしばらく監督をするが、次はワンちゃん(王)だ』と。さらに『俺が声をかけるから説得はお前がしろ』と命じられたんです」
※正しくは「功の力が刀」
根本の意識にあったのは、猛烈な危機感だった。翌年のJリーグ発足に向け国内のサッカー熱が高まる一方、プロ野球、特にパ・リーグの不人気は深刻だった。
■「自分は、巨人のことしか知りません」
それを打破するには、東京の長嶋茂雄と福岡の王貞治による「ON対決」の実現こそ唯一の道だと、根本は固く信じていた。そんな根本について瀬戸山は「球界の寝業師というより、球界全体を考える事業本部長。コミッショナーのような目線で動いていらっしゃった」と回想する。
プロジェクトの第一幕が開くのは、それから1年以上が過ぎた94年1月。舞台は東京・有楽町にあるフランス料理店「アピシウス」だ。その店には周囲の目につかずに出入りできる個室があった。瀬戸山は根本の隣に腰掛け、静かにその時を待っていた。
「根本さんは王さんをワンちゃんと呼んでいましたが、特別に親しかったわけではなかったと思います。
アピシウスでの初めての会合のときも、結構緊張されていましたね」
やがて個室の扉が開き、2人の前にその男――王貞治が現れた。世界の王を福岡へ呼び寄せるための交渉劇が幕を開けた瞬間である。
このとき、王の返答は明確な「否」であった。
「自分は東京生まれの東京育ちで、巨人のことしか知りません。パ・リーグの野球も分からない。お引き受けすることはできません」
そう固辞する王に、根本が食い下がる。「シーズンが始まれば俺は会えなくなるが、この瀬戸山が連絡するから、月に一回でいいから会ってやってほしい」。王は人の良い微笑を浮かべると、「会うだけなら構いませんよ」と快諾した。2月、同じくアピシウスの個室で瀬戸山は王と対面した。当時の様子を苦笑交じりに振り返る。
■感情を揺さぶった数々の“殺し文句”
「そりゃあ緊張しますよ。でも、そんな私を見てかわいそうだと思ってくださったのか、王さんのほうからいろいろと質問をしてくださいました。
話を引き出すのが上手でしたね」
やがてビールが潤滑油となり、場の空気が和らぐと、瀬戸山は思い切って言葉をぶつけた。根本から、いくつかの“殺し文句”を託されていた。
「王さん、巨人にいらっしゃったら、長嶋さんがいる限りずっと次男のままです。ホークスの長男になってください」

「中内オーナーは、王さんのために福岡ドームを作ったんです。あそこで思う存分暴れてください」

「Jリーグに押されて、このままじゃ野球の人気低迷が止まりません。プロ野球人気を取り戻すには、20世紀中にON対決を実現するしかないんです」
酔いの力を借りて言い切り、「分かってもらえますね?」と同意を求めた。
すると王は、やはり微笑を浮かべてこう答えた。
「分からなくもないです」
明言を避けるような返答ではあったが、瀬戸山は、その柔和な表情の奥底に潜む確かな熱を感じ取っていた。その熱の矛先には長嶋がいるように瀬戸山には感じられた。
共にV9を達成した盟友とはいえ、年齢は長嶋が上。「記憶の長嶋、記録の王」と称されるように両者のタイプも対照的だった。
■「長嶋を抜きたい」気持ちがあったはず
「表には出しませんでしたが、長嶋さんに対するライバル心はあったと思いますね。
どこかで“長嶋さんを抜きたい”、そんな気持ちを強くお持ちだったのではないでしょうか」
「次男ではなく長男に」という言葉は、そんな王の隠されたプライドを揺さぶっていたのかもしれない。
だが、のらりくらりと身をかわすような王の反応は、3月も4月も、まるで変わらなかった。
潮目にわずかな変化が訪れたのは5月だ。
会食の最中、王の携帯電話が鳴った。相手は福岡の会社経営者で、その人物とは瀬戸山も交流があった。ほかにも福岡在住の共通の知人がいることが分かった。
「なんだ、福岡にもお友達がたくさんいらっしゃるじゃないですか」
瀬戸山の言葉に、「まあね、福岡を知らないわけではないんだ」と応じる王。それまで「東京しか知らない」と言い張ってきた強固な盾に、微かなほころびが生まれた。
そして迎えた6月、瀬戸山は勝負に出る。いつものように酒で場を温めてから、いつも以上の熱を込めて訴えかけた。
「中内オーナーは、チーム編成から現場の指揮まで、全権を王さんに委ねる覚悟です。王さんのやりたい野球でON対決を実現してください」
その言葉が響いたかどうか、確かな手応えがあったわけではない。
だがしばらくして、王がこんなことをぽつりと漏らした。「もし監督を引き受けるなら、東京から一番離れたところがいいかもしれませんね」
■トップ会談に向けて“流通王”に演技指導
過去に築き上げた栄光も、住み慣れた東京も置いていく。そんな強い覚悟が王の中で形を成しつつあったのだろう。
別れ際、王は瀬戸山にこう告げた。
「来月は中内さんにお会いしてもいいですよ」
瀬戸山の心臓が早鐘を打った。
大きな前進には違いなかったが、依然として不安は尽きなかった。トップ会談の席で「やっぱりお断りします」と言われてしまおうものなら、オーナーである中内の顔に泥を塗ることになる。
たまらず後日、瀬戸山は王に電話をかけ、「お引き受けいただけるということでいいんですね」と念を押したが、「お会いしたときにお話しします」という言葉しかもらえなかった。
とにかくやれることは何でもやっておこうと考えた瀬戸山は、中内に、王が入室してからどうしてほしいかを身振りを交えて説明した。ダイエー帝国を一代で築き上げた“流通王”への演技指導まで買って出たほど、瀬戸山の不安は大きかったということだ。
「とにかく先に攻めてください。まずは手を握って、『王さん、全て任せますから頼みましたよ』と言うんです。
ちょっとでも話がかみ合わない様子を見せてしまうと、『今回はお断り』となってしまうかもしれません」
さらに、条件面についても打ち合わせた。アピシウスで瀬戸山が年俸について切り出した際、王からは「そういう問題ではない」と一蹴されていた。
■「巨人はこんなんじゃなかった」
しかし中内には「もし年俸の話になったら、『長嶋さんはこれくらいもらっているそうですから、それを上回る額でいきましょう』と言ってください」と伝えておいた。
トップの熱烈な誠意と最上級の評価で一気に押し切る――。それが瀬戸山の編み出した策だった。
7月、東京のダイエー本社の一室に、中内、長男の正、根本、瀬戸山が集まり、王を待ち受けた。
やがて姿を現した王に、中内はすかさず歩み寄った。瀬戸山の描いたシナリオ通りだった。手を握ることはできなかったものの、身を乗り出すような近さに迫り、一息に熱い言葉を浴びせかけた。
「王さん、ようこそいらっしゃいました。どうぞ王さんがやりたいようにやってください。野球界を盛り上げるためにON対決をしていただかないといけないんです。強いチームを作ってください」
その熱意に、王は静かに応じた。
「よろしくお願いします」
数カ月にわたった極秘交渉が、ついに結実した瞬間だった。
翌95年に王ホークスは船出したが、長きにわたり低迷を続けてきたチームの体質は一朝一夕に変わるものではなかった。負けが込む中、王は容赦なく選手たちに雷を落とした。
「このチームはなんだ。巨人はこんなんじゃなかった」
全員参加を義務付けた食事やミーティングの場でV9時代の「巨人基準」を突きつけられ、選手たちは萎縮した。中には「セとパは違いますから」と、環境の違いを言い訳にして逃げ道を作ろうとするベテラン選手もいたという。
■「ON対決」が実現するも…
チームの惨状に対する焦燥と苛立ちは、フロントとの関係にも波風を立てた。ドラフト会議での選手の指名方針などでぶつかった。強いチームを作るという共通の目的があっての衝突だったが、瀬戸山は鬱憤を募らせた王から「プロ野球の経験のない人にそんなことまで言われたくないです」と強い言葉を投げられたこともあった。
だが王は、湿った感情を決して引きずらない。険悪になったときでも翌日には何事もなかったように「どうもどうも」と挨拶を交わし、最終的にはフロントの意見を尊重した。
瀬戸山は言う。
「監督でありながら広報担当のような認識も持ってくださっていました。現場の指揮にとどまらず、われわれのリクエストに応じていろんなことをしてくださいましたし、ビジネスの部分での貢献も大きかった」
王の信念はやがてチームに浸透していく。就任5年目の99年にリーグ優勝・日本一。翌00年にリーグ連覇を果たし、ON対決を実現させた(このとき根本はすでに亡くなっていた)。長嶋巨人の前に苦杯をなめたが、どん底で喘いでいた弱小球団は、王という巨大な柱を中心に、着実に常勝軍団への階段を上り始めていた。
■過去の栄光を捨てた王が作り上げたもの
ホークスが福岡へとやってきたとき、街に歓迎ムードが広がる一方で、地元経済界の反応は決して温かいものではなかった。強引な経営手法をとるダイエーに対する警戒感や不信感があったのだ。球団の披露パーティーに案内状を出しても、トップが顔を見せない企業が多かった。
その空気を一変させたのが、福岡ドームの完成と、それに続く王の監督就任だった。地元の有力企業の経営者たちによる「王友会」という後援組織が発足し、月に一度の会を開いては全力で王をバックアップするようになった。
「ホークスの長男になって思い切り暴れてほしい」
瀬戸山が有楽町のアピシウスで迫った日から、すでに32年の歳月が流れた。「東京しか知らない。巨人しか知らない」と固辞していた男は、過去の栄光を捨てて福岡の地を踏み、今や第二の故郷と呼べるほどの深い縁を結んだ。
瀬戸山は感慨深げにこう語る。
「王さんはホークスの長男どころか、パ・リーグ全体を引っ張る存在になってくださいました。86歳になられた今も、プロアマの壁をなくし、野球をする子どもたちを増やす取り組みまでされている。本当に頭が下がる思いです」
連日ドームが満員になる光景も、ホークスが福岡の地にしっかりと根付いた今の状態も、王のひたむきな情熱が作り上げたものだ。その王を九州へと導いた、瀬戸山の粘りの交渉。すべての原点は、男同士が酒を酌み交わし、言葉をぶつけ合った濃密な時間にある。

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日比野 恭三(ひびの・きょうぞう)

ノンフィクションライター

1981年、宮崎県生まれ。東京大学中退後、広告代理店等での勤務を経て、2010年よりスポーツ総合誌『Sports Graphic Number』の編集者となり、同誌の編集および執筆に従事。16年にフリーとなり、野球やボクシングなどの競技、またスポーツビジネスを対象にライターとして活動中。近著に『ホークスメソッド 勝ち続けるチームのつくり方』(日経BP)。

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瀬戸山 隆三(せとやま・りゅうぞう)

実業家・プロスポーツ経営者

大阪市立大学商学部卒。1977年ダイエー入社。ダイエー神戸本店室課長などを経て、1988年より福岡ダイエーホークスに出向、球団総務課長となる。1993年シーズンオフに球団代表に就任。1996年より新設された「球団本部長」に就任。1999年球団代表に再登用される。その後、球団を退団するとともにダイエー本社も退社。福岡県内での企業経営を経て、2004年に千葉ロッテの球団代表に就任。2006年より千葉ロッテ球団社長。2011年より、千葉ロッテ取締役顧問。2012年よりオリックス・バファローズの執行役員球団本部長補佐、2013年に同球団の球団本部長になり、2016年に顧問に就任。現在は実業家・プロスポーツ経営者として講演活動を行い、経営者の育成に携わる。

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(ノンフィクションライター 日比野 恭三、実業家・プロスポーツ経営者 瀬戸山 隆三)
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