「豊臣兄弟!」(NHK)では信長(小栗旬)の家臣、松永久秀(竹中直人)が謀反を起こす。久秀が籠もった信貴山城を訪れた古城探訪家の今泉慎一さんは「久秀は感情に任せて信長に刃向かったのではない。
籠城戦での誤算さえなければ勝つ可能性もあった」という――。
■信長の歩み寄りを断固拒否
第14回:信貴山城(奈良県平群町)・多聞城(奈良市)
戦国武将の中でも、最も衝撃的な最期を迎えたともいえる松永久秀。みずから築いた信貴山城(図表1:奈良県平群町信貴山1308)に籠るも織田信長の大軍に囲まれ、平蜘蛛の茶釜と共に命も散らしてしまう。
松永久秀の謀反は、実は二度目だった。最近、戦国ファンからは、下剋上でのし上がったその生涯を揶揄し、「永久謀反(むほん)男」などというありがたくないあだ名までつけられてしまう始末。だが、はたして久秀のこの謀反は、そんなに無謀だったのだろうか。「戦国三大梟雄(きょうゆう)」にも数えられるほどずる賢い男が、感情に任せて無計画な謀反を起こすとは考えづらい。
なお、1572(元亀2)年の一度目の謀反の際は翌年に降伏し、多聞(たもん)城(奈良県奈良市法蓮町1416-1)を信長に差し出すことで赦免されている。ところが二度目は「どんな事情があるのか、要望があれば聞く」とまで信長側から歩み寄られたにも関わらず、断固拒否。久秀の頭の中ではいったい、どんな勝算がなされていたのだろうか。
ちなみに多聞城は信長に破壊されたが、豪華絢爛な城で、金箔障壁画のある御殿や庭園、そして2つの茶室を備えていたという。勢力争いに明け暮れるだけでなく、久秀にも城主、茶人として栄華を味わった時間はあったのだ。

■苦戦が続いていた当時の信長
久秀が二度目の叛旗を翻したのは1577(天正5)年8月のこと。久秀の領地は大和一国にも満たないのに対し、信長は尾張、美濃、近江、そして都のある山城以下、畿内の大半を制していた。単純に比較すると、その勢力差は歴然だが……。
実はこの時期、信長軍は苦戦が続いている。1576(天正4)年1月、丹波国で波多野秀治が信長から突如離れ、明智光秀の軍を攻撃。光秀は大敗を喫している。同年7月には、石山本願寺を支援する毛利家の水軍と木津川口で争い、壊滅的な打撃を受け大敗。翌年6月には大勝するも、石山本願寺は未だ意気軒昂で容易に落ちる気配がない。
そして、この時期の信長にとって最大の難敵だったのが「豊臣兄弟!」にも登場した上杉謙信だろう。越後国から北陸道を西上する謙信に、柴田勝家率いる信長軍が大敗した手取川の戦いは、久秀謀反の翌月、1577(天正5)年9月だが、謙信の進軍は前年の1576(天正4)年から始まっていた。謙信の猛攻に窮した七尾城からの援軍要請に応じた結果、信長軍は手取川で完膚なきまでに打ちのめされたのだ。
信長政権下でそれなりのポジションにいた久秀は、近々、謙信攻めで大軍が北陸へ向かう情報をつかんでいたはず。
つまり、久秀が謀反を起こしたのは、「畿内が手薄になる今しかない!」という読みがあったに違いない。だからこそ、信長は久秀に最大限の譲歩姿勢を見せたのだ。
この状況、後年の明智光秀による本能寺の変に似ていやしないだろうか。久秀は失敗し、光秀は(少なくとも一時は)本懐を遂げたという、結果としての違いはあったとしても。
■大阪を見渡せる山に築いた城
久秀の「勝算」の大きなファクターとなったのは、謙信の動きを代表とする信長の置かれた四面楚歌状態だった。さらに加えるならば、居城・信貴山城が非常に堅固な山城だったことだろう。
信貴山城は、大和(現・奈良県)と河内(現・大阪府南東部)の国境の山地に築かれた山城。標高437m、比高340m。なかなか峻険だが、中腹の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)まで車でアクセス可能だ。
朝護孫子寺は、聖徳太子創建と伝わる古刹。信貴山城の戦いで焼失後、豊臣秀頼により再建されている。現在は江戸時代築の山門や塔、お堂が残る。
信貴山の山頂一帯がかつての信貴山城だが、その城域は同寺の広い意味で境内にあたる。
本堂から急道を登ること約10分で雌嶽(めだけ)。見上げるような崖っぷちの落差は、軽く40~50mはある。まさに天然の要害。要害っぷりはその先も。つづら折れの道が伸びている。
■守りに強い「天然の要害」だった
本堂から比高200mほど登った場所に「信貴山城址」の石碑が立つ。標高437mの信貴山山頂・雄岳からは眺望が開けている。
信貴山城は大和国に属し、久秀が信長から安堵された領地も大和だが、かつて久秀が仕え、のちに追い落とした三好家の支配地域は摂津や河内が中心。大阪平野に睨みを利かせるのに最高の立地。加えて天然の要害ぶり。いかにも久秀の城にふさわしい。

■天守閣は久秀が先で、信長が後?
雄岳は東西100m近くある平坦地。縄張り図には「本丸」「主郭」ではなく「天守閣跡」と書かれている。
実は信貴山城に天守が立っており、信長の安土城天主はそれをモデルにした、との説がある。天守閣跡には現在、朝護孫子寺のお堂のひとつである空鉢護法堂(くうはつごほうどう)が立ち、周囲には無数の祠と鳥居が並んでいる。
■織田は4万の大軍、久秀は援軍を求めた
信貴山城の曲輪は山頂から北東側に集中している。
まずは堀切。天守閣の真北にある「切通し」と書かれているあたりに特に密集している。
■丁寧に削平されている曲輪
そして切岸。雌嶽でも見られるように、自然地形を活かしたものもあれば、明らかに人工的に削ったことがわかるものもある。
曲輪内は丁寧に削平されており、兵の駐屯に最適。「松永屋敷」あたりには建物の礎石のような成形された巨石も見られる。
■久秀が援軍さえ呼ばなければ…
1577(天正5)年の「信貴山城の戦い」の際、久秀軍は約8000、信長軍は4万だったと伝わっている。
兵力差は歴然だ。劣勢を挽回するため、久秀は信長と敵対する石山本願寺に援軍を要請。そして200人の鉄砲隊が信貴山城に派遣されたという。
久秀が信貴山城に立て籠ったのは8月だが、信長軍による本格的な攻撃が始まったのは10月5日、自害し落城したのは10月10日だ。
その間の9月23日に、手取川の戦いで信長軍が謙信に完膚なきまでに叩きのめされている。ということは、なんとか持ちこたえていれば状況は逆転する可能性は大いにあった。もし、もともと謙信の動きに呼応して謀反を起こしたのであれば、なおさらだ。石山本願寺からの援軍は10月5日に要請され、10月8日に信貴山城に入城している
これだけ堅固な城で鉄砲隊の援軍も得られたのであれば、5倍の兵を相手にしても持ち堪えられるのではないか。ところが、この鉄砲隊200がワナだった。彼らを引き連れたのは、もともと大和国の覇権争いで久秀のライバルだった筒井順慶に仕えていた武将・森(もり)好久(よしひさ)。信貴山城内で反旗を翻し、たちまち火の手が上がる。目の前で立ち昇る火を見て、久秀は全てを悟ったに違いない。

「勝算」は間違いなくあった。しかし、たったひとつだけ、誤算が生じてしまった。それが味方だと信じていた森好久の裏切りだったのだ。
■命より大事な茶釜を破壊
落城必至となった以上、このままでは平蜘蛛の茶釜を信長に奪われてしまう。自らの命は失ったとしても、それだけは絶対に避けたい。そう思ったであろう久秀は、どうやって茶釜を「爆破」したのか。
信長の家臣が書いた『信長公記』によると、久秀は天守に火をつけ焼死した。だが、平蜘蛛の茶釜を「爆破」したという記述はない。ただし、何らかの形で破壊したのは事実だろう。無事に残っていれば信長は間違いなくそれを手中にし、そのことが記録として残っているはずだ。
それにしても、これだけ堅固な城に籠城し、強力な援軍も得られたのだから、いったんは「勝機あり!」と確信したはずだ。戦いに敗れなければ、信長に茶釜が渡ることもない。まさかの展開に、泣く泣く茶釜を破壊する選択をせざるを得なかった久秀。さぞかし無念だっただろう。

----------

今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

----------

(古城探訪家 今泉 慎一)
編集部おすすめ