■ゲームは生まれた瞬間に始まっている
この本、その名も『人生というクソゲーを変えるための仏教』(ネルケ無方・著/春秋社)。クソゲーという言葉に「ケシカラン」と目を剥くことなかれ。ドイツでキリスト教の牧師の家系に生まれた著者・ネルケ無方氏は、人生を「一方的に競争させられる理不尽なクソゲー」と思いながら育ち、16歳で出会った座禅に魅入られて日本へ流れ着く。
兵庫の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度し、のちに18年間住職を務めたというから、地元では間違いなく名物住職だったろう。現在は、大阪を拠点に座禅を広める活動をしているという。
初期仏教、大乗仏教そして親鸞道元への流れを、「仏教とは人生というクソゲーを降りる、脱出ゲーム」との観点から、自ら「理屈っぽい」というドイツ人著者らしく論理的かつ現代的に解説していく、いわば「逆輸入」仏教入門だ。
人生は理不尽なクソゲーである、との前提に、まず疑問の湧く読者もいるのかもしれない。人生はクソゲーなんかじゃないよ、と言える人は幸いだ。「人生とは一生懸命生きるということでしょう?」。そういう人ばかりだったらおそらく人類史に宗教は必要なかったのだ。
我々を見透かすように、著者は言う。
■「弱肉強食」と題名のついた競争
自由意思を持った自由な個体、ゼロから描き始める人生、いわば「可能性オンリーの塊」としてこの世に生まれ落ちたはずの我々は、しかしながら、生まれながらの自然に戻った「野生のエルザ」なんかじゃない。
人間社会の中では集団に属する一個体として捉えられ、望むと望まざるとにかかわらず近しい存在たちの影響を受け、属性の似たような個体とどこか比較されながら育つ。
さあ、ルールは簡単。優秀たれ、出し抜け、成功せよ、そして生き残れ。洋の東西も、政治的イデオロギーも関係ない、資本主義でも共産主義でも結局はそれぞれに「弱肉強食」と題名のついた競争の始まりだ。
あなたの出生児の体重は、隣の赤ん坊よりも重かったか軽かったか? ミルクの飲みっぷりは将来を期待させる勢いを見せているか? 首が据わったり、立ち上がったり歩いたりは順調か?
そんな愛らしく無邪気な生育過程にすら、優劣がつき、順番がつき、「あの子はこういう子」と評価がついて、個人が形成されてくる。天上天下唯我独尊だなんて言い出さない(つまり、釈迦じゃない)普通の赤ん坊の人生は、他者評価を背負って滑り出す。万人に平等なゴール、すなわち肉体の死へと一直線に向かって。
でもそんな人生マラソンみたいなゲームに参加するって、そもそもワタシ同意署名しましたっけ?
■頑張らない生き方は許してもらえないのか
それが著者の言う、生まれたときにはすでに始まっている「理不尽なクソゲー」なのだ。子どもの数が多すぎて、幼少期から志望者を落とすための試験ばかりずっと受け続ける中で人格形成をし、競争が染みついた私自身にも「理不尽」の部分には大いに心当たりがある。
周りの、誠実に努力し続ける優れた人々を見回しても思う。
東大生の親の平均年収は実は高い、なんて調査がたくさんあって、昨今の日本じゃ「親ガチャ」という、そもそも生まれ落ちる時に引き当てた親のスペックで子どもの可能性がはじめから限定されているとの言説も有力だ。
そして私は、子育てのいわゆる「遺伝か環境か」議論に照らしても、「親ガチャ」は一定の真理であると頷かざるを得ない。心身のレシピである遺伝子を直接的に提供するのも親、間接的に生育環境を提供するのも、結局親(がダメならその親を救済する周辺の大人たち)だからだ。
■仏教は「新しいゲーム」である
それを言ってはおしまいよ、である。でも特に現代の若者たちはもう気づいてしまった。おかげで、「反出生主義」なんていうスタンスも生まれている。
息苦しい、生きづらい、生まれてこなければよかった。でも生まれてしまったからにはつらい競争には背を向けて、人生そのものに正面から参加すること、頑張ることを拒否する。社会にはろくに関わらず、子孫も残さず、家を守らず、したがって国を守らず、この惑星も守ろうとは考えない。
そこに、著者・ネルケ無方氏は「仏教という新しいゲーム」を提案する。
■日本文化紹介のイベントで座禅に出合う
仏教自体はもちろんインド発祥だが、著者は学生時代に体験した日本の文化紹介イベントで座禅に出合い、日本的な仏教への理解を深め、学ぶために来日したという。
昨今、世界中で影響力を持つに至ったアニメやコミックスなどのサブカルチャーが牽引する形で、日本文化への関心が高まり、高度な日本語を身につけて日本に定住する知識層の外国人が増えている。
カルチャー消費の段階を超えて「知りたい」「見たい」という気持ちが「行きたい」「学びたい」という行動に結びつき、この複雑で曖昧な日本語を驚愕の学習能力で習得して優秀な外国人の様々な才能が花開く著作やトークを、私はいつも満腔の敬意でもって目にし、耳にしている。
なぜなら、言語こそが文化精神性の凝縮、鏡だからだ。日本人が外国語を習得する過程にその国の習慣や精神性を理解するプロセスがあるのと同様、ハイレベルな日本語を習得してくれた人には、必ずその過程で日本に関するポジティブな感情だけではない、さまざまな気づき、戸惑いや疑問が生じている。ドナルド・キーンの例を引くまでもなく、その「なぜ」や驚きや戸惑い、場合によっては憤りを清濁併せて自分なりに納得し内面化してこそ、表層的な「日本大好きです」ではない、深い理解へと導かれるからだ。
■ドイツ人が語る仏教だから得られるものがある
「日本的なるもの」を外部から(しかも日本語で)著述する試みには、だからそういう実に私的な、なおかつ高度な葛藤が宿る。
つい先日も、英国人A・ウェイリー訳の『源氏物語』を日本語に逆翻訳した『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社)を読んでみて、日本人が源氏物語を現代語訳するのとはまったく違う新鮮な言語風景にハッとさせられた。
「エンペラー」「ランプ」「スクリーン」「コート」。
本書も同様、著者・ネルケ無方氏はさまざまな「説明しづらい日本仏教」を長年の精神鍛錬と研究で乗り越えていく。欧米のインテリ層には、近年、変化への反動として非科学性を増し原理化する一部のキリスト教に嫌気がさして、自然科学、量子論やカオス理論とすら相性が良い仏教を好む人が多いらしい。
■走りたくないなら、走らなくていい
そういった欧米の「頭でっかちなインテリ僧侶」である筆者は、たとえば一神教のキリスト教を当然とする生育背景からは不思議としか思えない「(唯一)神の不在」、仏教特有の「神々のインフレ(なんと八百万まで増殖)」の“理由”を理解し、さらに科学的かどうかで言えば多分そうでもなさそうな「輪廻転生」などを論理的に考察していく。
「一回や二回くらい生まれ変わったって構いませんが、それが永遠に続く輪廻転生を想像すると、やはり億劫としか言いようがない」などと、決していい子に収まらない結論に達しているのも面白い。
日本文化を背景に育った日本人僧侶が解説する仏教入門ではなく、キリスト教から仏教へと入ってきた外国人僧侶による仏教入門は、それ自体が俯瞰的であり、比較宗教論的で味わい深い。イラスト調の表紙から察するに、若い世代に向けた仏教入門として「クソゲー」なる言葉をタイトルに採用したかもしれないが、同時に知的好奇心の強い中高年が面白がることのできる一冊だ。
同書は、さらに続編も出ている。『人生というクソゲーを変えるための哲学と坐禅』。坐禅に救われたと述懐する著者が前作を踏まえ「ゲームを降りるゲームもやめて、遊びに出かけよう」と誘う。
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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。
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(コラムニスト 河崎 環)

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