■筑紫哲也が怒りに燃えた瞬間
当時、沖縄は燃えていた。これから記す米兵による沖縄少女暴行事件(1995年9月4日発生)後、反基地の島ぐるみ闘争が燃えさかっていたのだ。そしてこれに関連して、『筑紫23』の積み重ねのなかで、普段は温厚な筑紫さんが烈火のごとく怒りをあらわにしたレアケースがあったのだ。
1995年9月11日のオンエア本番前、だから夜の10時過ぎのことだった。通常、『筑紫23』では、報道局の大部屋のセンターテーブルにキャスターたちが陣取って、原稿のチェックと特集のプレビューなどを行う。
そういう時は大体、机の脇に2台置かれていたテレビモニターのひとつは『ニュースステーション』(以下NSと記す)にチャンネルがあわせられていた。久米宏さんがキャスターをつとめていたNSは、さまざまな意味で僕ら『筑紫23』のライバル番組だった。
その日のNSのトップニュースこそが、沖縄の米兵による少女暴行事件だったのだ。僕らの局は夕方までのニュースで全く扱っていなかったばかりか、地元局のRBCからのネタ申告さえなかった。筑紫さんは声を荒らげた。
「おい、こんな大事なニュース、どうして僕らはやってないんだ? 一体どうなってるんだ?」
■ライバル番組より1週間も遅れた理由
僕はその日は夏休みをとっていてスペインにいたと古い日記にあった。
以降、『23』はこの出来事に徹底的にこだわったが、大展開できたのは何とNSに遅れること1週間、9月19日になってからだった。僕自身も沖縄に出向いて取材を続けたのだが、その結果、どうしても不可解なことが心に残った。
それは、これほどの酷い事件であったにもかかわらず、県警の発表が「貼り出し」(県警広報が記者たちを招集して発表するのではなく、広報ボードに紙を貼り出しておく形式。通常は軽微な事件の扱いの場合に便宜的にとられる方法)だったことだ。それゆえか地元紙の第一報記事が小さな扱いであったこと等を知り、どう考えても僕は腑(ふ)に落ちなかったのだ。
■発生は9月4日、第一報は7日夕刊
地元紙では、琉球新報の第一報が9月7日付夕刊で2段の扱い、沖縄タイムスの第一報は、それより半日遅れだったが8日付朝刊で社会面トップ記事だった。全国紙はもっと遅く、9月9日付朝刊(朝日、読売ともに)でとても小さな扱いの記事だった。
この事件が地元の新聞・テレビで大々的に報じられることになったのは、那覇市議(当時)の高里鈴代さんらが北京で行われていた世界女性会議から帰国して急遽、記者会見を開いた9月11日の午後以降である。
僕にはこの第一報の「時差」の事情が長い間ナゾだった。なぜ、このような一報の遅れがあったのか、と。そして、この本のために多くの関係者から話を聞く旅に出たなかで、20年目にしてようやくその事情がわかった。このことを記すのは古傷の瘡蓋(かさぶた)を剝がすためではない。「歴史の記憶」を事実としてとどめておくことの大切さを熟考したうえのことである。
■地元紙の小さな記事を見逃さなかった
NSは9月8日にいち早く全国ネットのニュースとしてこの出来事を報じていた。なぜか。それは次のような事情による。
テレビ朝日系列の地元局QAB(琉球朝日放送)は、この事件当時、翌月に開局・放送開始を控えて最後の準備段階に入っていた。そのいわば「助走」作業として、テレ朝は那覇臨時支局をおいて、ネタ申告を毎日のルーティーンとして東京のデスクあてに送らせていた。
当時のNSの統括デスクは、川村晃司氏(執筆当時はテレビ朝日コメンテーター〈2023年3月死去〉)だったが、氏は那覇から送られてきたネタ申告のなかに地元紙の小さな記事(おそらく琉球新報の第一報)が添付されていたのを見逃さなかった。
「東京からみるとこれは大変なことだと思ったので、直ちに取材にかかるように沖縄に指示を出しました」(川村氏)
■「こういうのは沖縄ではよくあること」
氏によれば、沖縄からの反応は当初必ずしも積極的に報道しようという姿勢ではなかったという。
「あんまり関わりたくない。こういうのは沖縄ではよくあることなんですよ、と乗り気ではなかったですね」
それでも川村氏は地元紙の小さな記事にこだわった。結果、9月11日には、トップニュースで大展開した。それを僕ら『筑紫23』は放送直前に目の当たりにしたのである。沖縄への想いの深い筑紫さんにとっては、心穏やかではなかったのは想像に難くない。
だが、それにしても沖縄の地元紙を含めた第一報の「時差」は腑に落ちない点が残る。
当時、一体何があったのか? この間の事情をある人物が証言してくれた。大田昌秀知事の下で副知事を4年にわたって(1993~97年)つとめた吉元政矩氏(2025年1月死去)だ。こういう事情をメディアの人間に話すのは初めてだという。
■メディアに「お願いをした」副知事の迷い
吉元氏によれば、事件発生の第一報を受けて、まず考えたのは被害に遭った少女を徹底的に保護することだった。少女の将来を考えて「外部」からまもること、これを何よりも優先して考えたという。応急的なケアの時間も絶対的に必要だ。
そのため吉元氏は、ここには記すことができないが、センシティブな、かつ具体的な動きをした。その上で、吉元氏は当時の地元メディアの上層部に、被害者の将来のことを考えて慎重な報道をするように「お願いをした」という。
「被害者がこどもの場合、家族だけでは対応しきれないんですよ。つらい仕事でした」
それで納得がいった。吉元氏は、僕の前で大きく息を吐きながらこんなふうに述べた。
「私の対応が、結果的によかったのかどうか、わからないです。でも、あの子の将来のことを考えるとね……。この種の問題は沖縄では実は本当にたくさんあるんですよ」
■基地問題は30年たっても解決していない
吉元氏は、当時、北京から帰国して急遽、怒りの記者会見を開いた高里さんとは一切話をしていなかったという。念のために確認しておくが、高里さんたちも、被害に遭った少女の保護については、長期にわたる実質的な支援を行い、メディアに対しても鋭い問いかけを行っていた。被害に遭われた方の回復・安寧を心から願わずにはいられない。
この事件は、日本全体に大きな衝撃を与え、沖縄では反基地感情が空前の高まりをみせた。
その普天間基地を同じ沖縄の地に移すなどとは当時一体誰が想像していたことか。さらには、日米地位協定の根本的な改定は今に至るまで行われていない。筑紫さんが生きていたならば、今の沖縄の風景をどのようにみるだろうか。
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金平 茂紀(かねひら・しげのり)
ジャーナリスト
早稲田大学大学院客員教授。沖縄国際大学非常勤講師。1953年北海道旭川市生まれ。1977年TBS入社。以降同局でモスクワ支局長、ワシントン支局長「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長などを歴任。
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(ジャーナリスト 金平 茂紀)

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