時代の変化に対応できない中高年を待ち受ける末路とは。ノーベル賞作家クッツェーの最高傑作とされる『恥辱』は、モテ続けてきた52歳の白人大学教員が、教え子へのセクハラで告発されても謝罪を拒否し、一人娘の元に転がり込む。
すると一人娘に悲劇が襲った。文筆家の堀越英美さんが書いた『あなたのモヤモヤに効く世界文学』(筑摩書房)より、紹介しよう――。
■時代の空気に乗れた人ほど変化に苦しむ
<お悩み>

なんでもハラスメント扱いの現代にうんざり
ハラスメントになるのが怖くて、会社で若手と気軽に接することができません。

多様性、ルッキズム、人権、個人情報……

正直うんざりです。難しいことを考えずに済んだ昔に戻りたいです。

若いころ、時代の空気になじんで楽しく生きられた人ほど、時流の変化についていくのに苦労してしまうのかもしれません。とはいえ、流れが変わったように見えるその場所は、広い世界から見ればごく狭い領域にすぎない、という可能性もあります。
そこから一歩踏み出せば、ハラスメントの訴えなど通用しない弱肉強食の世界が広がっているのも、また現実の一面です。
ノーベル賞作家クッツェーの最高傑作とされる『恥辱』の舞台は、つい数年前までアパルトヘイト政策があり、差別が根強く残っていた90年代の南アフリカ共和国です。
主人公である52歳の白人男性デヴィッド・ラウリーにとって災難だったのは、彼の職場が時代の変化をもろに受ける首都圏の大学だったことでした。
■昔のモテが忘れられない52歳の大学教員
彼を襲った時代の変化の一つが、文学の失墜です。
大学組織の再編成により文学部が廃止され、詩人バイロンを愛するラウリーはコミュニケーション学部に配置転換されます。

以来、教職の仕事にやりがいを感じられません。
加齢も私生活に影を落とします。容姿に恵まれたラウリーにとって、バイロンよろしく多くの女性と情事を重ねることが、人生の「背骨」(バックボーン)だったのです。
ところがこちらも中年になると、昔のようにはいきません。
「ある日、すべてが終わりを告げた。なんの前ぶれもなく、その“力”が失せた」
魅力的な若い女性たちにとって、老いた彼はもはや恋愛対象ではなくなっていました。
自身の性的魅力や文学的美意識が若者にアピールしなくなっても、女遊びはやめられません。二度の離婚を経て独り身となったラウリーは、手近なところでのナンパや買春で当座の飢えを満たしています。
なかでも美しく従順なムスリムの娼婦ソラヤは、ラウリーの大のお気に入りでした。
しかしソラヤとの結婚を夢見るあまり、探偵を使って個人情報を入手して自宅に電話をかけたことで、決定的に嫌われてしまいます。
■親子ほど年の離れた教え子に「繁殖を望む」
週に一度のお楽しみを失ったラウリーの次のターゲットは、20歳の教え子メラニーです。道でばったり出会った彼女を自宅に招き入れて手料理をごちそうし「泊まっていきなさい。
今夜は一緒に過ごそう」と大胆に誘いをかけました。
素朴で幼いメラニーは、なぜそうしなければならないのかとたずねます。「いと美しきものに、われわれは繁殖を望む」とシェイクスピアのソネット1番の引用で返すラウリー。
親子ほど年の離れた教え子に「繁殖」を望むのはストレートすぎました。メラニーは顔色を変え、約束があるからと家を出ていきます。
ここでやめておけばよいものを、ラウリーは大学の事務室に忍び込み、(またしても)個人情報を入手して電話をかけます。
声からメラニーの不安と幼さを読み取り、「逃がしてやるべきか」と逡巡しつつ、何かに突き動かされるようにデートの約束をとりつけました。ドライブ、海沿いのレストラン、そしてお持ち帰り。
「塞いだ顔で外の海を眺めている」「終始、受け身」「うっすら顔をしかめている」「顔をそむけながら体を離し」といったメラニーの描写は、繰り返し強調される彼女の幼さも含めて、かなり不穏です。
しかしラウリーは浮かれるあまり、その後メラニーの家に強引に上がり込み、押し倒してしまうのです。
■セクハラで告発されるも謝罪拒否
小説は一貫してラウリーの心情を中心に書かれているので、メラニーが何を思っているのかは明示されません。
しかしラウリー視点の描写だけを見ても、(おそらく有色人種の)メラニーは「首にキツネの牙がせまっているウサギ」のように、権威ある白人中年男性に逆らうすべを知らないだけで、恋をしているようには見えません。

ラウリー自身も、レイプとは思わないものの、メラニーが性交を望んでいないことは知っています。
彼にとって口説きとは、女性の隙をついてその体を征服することであり、いわば狩猟のようなもの。モノにした女性の身体に、自分の内にある「女神のような原型」を投影し、文学的な気分に浸れればいいのです。幻想の入れものにすぎないのなら、意志はないほうがいい。
だからこそフェミニズムの影響が強そうな白人ではなく、立場の弱い有色人種を狙うのでしょう。
文学とセックスがもたらすロマンに至上の価値を見いだしてきたラウリーは、加齢と時代の変化によってそこから退場せざるをえないことを、理性ではわかっていても、本心では納得できません。
本当は、自分はまだイケてると思いたい。文学トークにまだ若者を酔わせる力があると信じたい。暴力をふるうわけでなし、少々強引にことを進めても、はっきり拒絶されなければ、それはロマンスの範疇にあるはずだと。
そしてその賭けは、失敗に終わりました。メラニーからセクハラで告発されたのです。大学側は、人権を侵害したと認め謝罪すれば、復帰も可能だと温情を示します。

しかしラウリーは自分の行動を「エロスの神のしもべとなった」と表現し、謝罪を拒否しました。本能に従ったからといって罰せられるのはおかしい。
そう信じるラウリーには、自分の行為を笑う学生たちや、うわべだけの謝罪を要求する大学人が、不自然なモラルを押し付ける滑稽な存在に思えたのです。
■一人娘を頼り、動物愛護活動の手伝い始める
居場所を失ったラウリーは、片田舎で共同経営者とともに小さな農園を営む一人娘のルーシーのもとに転がり込みました。インテリの都会人である両親に似ず、ルーシーは農業や作業犬の預かり業でたくましく生計を立てています。
自分を処分した大学を「毛沢東の中国」にたとえ、「いまは清教徒的な時代」と自らを時代の犠牲者として語るラウリーを、ルーシーは懐深く受け止めてくれました。そのうえで、動物愛護活動をしている知人女性ベヴ・ショウの手伝いをしてはどうかともちかけます。
ラウリーは動物愛護にまつわる「善意」が苦手です。「美しくあることに励まない」ベヴ・ショウと働くことも気が進みません。
もっとも、性的価値の低さでは今の自分も似たようなもの。そう思うとますます気持ちは沈みます。そもそも崇拝するバイロンですら、「熱愛における本物の歓び」は30歳が区切りだと書き、30代半ばで亡くなっているのに。

でも、今さら変われません。
わが心は、古くさくて役立たずで貧困でほかに行き場を失った考えの隠れ家だ。そういう考えは追いだして、家屋をきれいに掃除すべきなのだろう。だが、そんな気はない、さらさら無い。

尿のにおいが充満するクリニックでベヴ・ショウを手伝い始めたラウリーは、そこでの動物愛護活動が想像とは異なることに気づきました。
彼女のおもな仕事は、人間に見捨てられた動物を安楽死させることです。
誰もやりたがらないその仕事を、ベヴ・ショウは死にゆく動物たちに最後の愛を注ぎながら、日々淡々とこなしています。
■狩る側から狩られる側に落ちた男の涙
ある日、ルーシーの家に強盗団が押し入りました。ルーシーは輪姦され、ラウリーも激しい暴行を受けます。ルーシーはいくら説得されても、輪姦の件を警察に訴えようとはしません。
農園の共同経営者も、ルーシーと意見を同じくします。この種の暴力が日常茶飯事である地域では、法よりも人間関係のほうが大切なのです。

都会では良識派の市民を冷ややかに見ていたラウリーですが、田舎では良識的なスタンスを取らざるをえません。大学教授という身分を捨てた彼は、もはや「狩る」側ではなく、「狩られる」側の人間です。弱者として、人権侵害に立ち向かわなくてはいけないのです。
自分のすることは本能に基づく自然な行動だと理論武装できても、一人娘が輪姦されれば怒りにふるえます。動物愛護を偽善だと冷笑しても、自らの手で犬を死なせれば涙が止まりません。
ネガティブではありますが、それらは西洋的な観念をこねくりまわしていたときには味わえなかった本物の情熱でした。
ラウリーは最後まで反省ともアップデートとも無縁です。相変わらず女性を見れば品定めが始まりますし、性交チャンスには食らいつきます。それでも非近代的な世界を生きることで、これまで近代社会に守られていた生身の自分に向き合わざるをえなくなりました。
女性のモノ扱いや周囲への冷笑の裏には、時代から見捨てられつつあることへの傷つきがあったのかもしれません。
■町内会参加が新しい自分を見つける契機に
弱さを自覚したラウリーは、ルーシーが終盤でとる信じがたい決断を、理解できないながらも受け入れようとします。それからクリニックの近くに家を借り、見捨てられた犬たちの最後の尊厳を守るために働き続けることを選びました。
そんなラウリーのもとに、バイロンに見捨てられた愛人テレサのオペラのインスピレーションが降りてきました。彼は安楽死が決まっている三本足の子犬に、バンジョーで自作のオペラを聴かせるのです。
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロは、「地域を超える『横の旅行』ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要」だと言います(「東洋経済オンライン」2021年3月4日)
人権重視の社会にうんざりしたら、町内会などの地域コミュニティに参加するなどして、仕事以外の人間関係に力を入れてみるのはいかがでしょうか。
世界の広さを実感し、これまで眠っていた新しい自分が見つかるかもしれません。
『恥辱』
J・M・クッツェー

鴻巣友季子訳、ハヤカワepi文庫、2007年
J・M・クッツェー(1940―)は南アフリカ共和国の作家で、オランダ系白人(アフリカーナ)の父とイギリス人の母の間に生まれた。コンピュータ・サイエンス、言語学を学び、留学先の米テキサス大学で、サミュエル・ベケットの研究で博士号を取得。ニューヨーク州立大学で教えた後、71年に帰国。ケープタウン大学を拠点に米国の大学でも教壇に立ちながら、執筆を進める。74年の『ダスクランド』は長編第一作。『石の女』(1977)と『夷狄を待ちながら』(1980)で南アフリカのCNA賞、『マイケル・K』(1983)で英国のブッカー賞、フランスのフェミナ賞、『恥辱』(1999)で、史上初の二度目のブッカー賞を受賞。2003年にはノーベル文学賞を受賞している。(編集部)

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堀越 英美(ほりこし・ひでみ)

文筆家

1973年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。著書に『エモい古語辞典』(朝日出版社)、『女の子は本当にピンクが好きなのか』(河出文庫)、『不道徳お母さん講座』『モヤモヤしている女の子のための読書案内』(以上、河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、『紫式部は今日も憂鬱』(扶桑社)、『親切で世界を救えるか』(太田出版)、『ささる引用フレーズ辞典』(笠間書院)など、訳書に『世界は私たちのために作られていない』(東洋館出版社)、『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』(晶文社)などがある。

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(文筆家 堀越 英美)
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