■東京屈指の大寺院、増上寺の秘仏
戦国最後の覇者、徳川家康。しかしその生涯は、幼いころからの不遇や挫折に加え、手痛い敗北あり、危うく命を落としかねないピンチありと、紆余曲折の連続でした。
そんな家康には、生涯崇敬のまことを捧げた守り本尊(守護仏)がありました。通称・黒本尊。増上寺安国殿の本尊、阿弥陀如来の立像です。
お江戸・東京を代表する大寺院のひとつ増上寺。港区芝のランドマークとして知られる三門(三解脱門、現在は工事中)をくぐれば、東京タワーや麻布台ヒルズをバックに従えた本堂(大殿)がドンとあらわれます。
お寺によれば、三解脱門から大殿へのアプローチは、穢土(この世)から極楽浄土にいたる道とのことですが、その大殿の向かって右脇の安国殿に、世に知られたもうひとつの秘仏本尊が奉安されています。
「黒本尊」なる異称にはどこかモノモノしい響きがありますが、この“黒”は、祈祷のさいの薫香に燻されて黒ずんでしまったことによるとも、人々の悪事や災難を一心に受け止めたことで黒くなったからともいわれています。
このほか、もとは源義経こと九郎判官の守り本尊で、「九郎本尊」が黒本尊に転訛したともいわれていたり、本像とは別に「白本尊」も実在している(静岡市・宝台院蔵)という話もあったりしますが、まずは話を進めましょう。
■縁の始まりは三河一向一揆
家康と黒本尊との奇縁は、「家康三大危機」の最初のひとつ、三河一向一揆(1563~64年)のときにさかのぼります。
当時、家康は20歳そこそこ。三河国(愛知県東部)岡崎城の若き殿様でしたが、この地で勢力を拡大した一向宗(浄土真宗)の門徒が一斉に蜂起。のみならず、家臣のなかからも一揆側に寝返る者も続出し、組織崩壊のリスクに直面します。
■寺から譲り受け、戦の陣中にも帯同
そんななか、一揆勢に追い詰められた家康は、難を逃れるために身を寄せた明眼寺(現在は妙源寺)で、一揆の平定を一心に祈願しました。
結果として、泥沼化していた一揆側との和睦に成功。家康は、東三河のリーダーとしての地位を確立し、最強と評される武士団を率いて天下統一への道を歩むことになります。まさにピンチをチャンスに変えた出来事だったわけですが、この明眼寺の本尊が、のちに黒本尊と呼ばれることになる阿弥陀如来立像でした。
もちろん、家康も祈っていただけではなく、一揆側に提示した和議の条件を一転して反故にするなど、ぎりぎりの対応の連続だったようです。
しかし終わってみれば、手強い宗教勢力の影響力を排除することに成功し、岡崎城下において失われた求心力を回復しています。まことに見事な危機対応というべきで、家康の巧みな政治力を物語っていますが、当の家康は、みずからの窮地を救ってくれた明眼寺の本尊(黒本尊)に深い帰依の念を抱いたといわれています。
そして、明眼寺の住職に一筆をしたため、寺領を寄進するとともに本尊像の譲渡を懇望。ついに本像は家康の元に渡ることになります。
■武田の刺客による暗殺を寸前で防ぐ?
こんな伝説が残っています。
宿敵・武田勝頼が、配下の小童(少年)を刺客として家康のもとに潜入させたときのこと。ある夜、家康が寝所でまどろんでいたところ、黒本尊が枕元に立ち、「なぜ日課の勤行を欠いてしまったか。今宵危急の難があるからすぐにわれの前に来て念仏せよ」と家康に告げました。
家康ははっと飛び起きて仏間に入り、数珠をつまぐり低い声で念仏を唱えていると、何者かが家康の寝床で刀を抜き、布団にまたがって渾身の力で刀を突き立てました。しかし手ごたえはなく、刺客が周囲をうかがっていると、家康の声を聞いた宿直が駆け込んできて小童を捕縛しました。ところが神君(家康)は、主君のために命を賭した小童の志を讃え、斬り捨てることなく少年を勝頼のもとに帰すよう命じたのでした。
みずからの命を救ってくれたのが阿弥陀仏であればこそ、家康はその仏恩と引き換えに少年の命を差し出すことはできなかったのでしょう。
■汗をかいた仏様の背中に鉄砲の弾痕?
阿弥陀仏が盾になって家康を守ったと思(おぼ)しき伝説もあります。
戦国時代最後の戦となった大坂冬の陣では、大阪城の南、茶臼山に陣を構えた徳川方の陣前で交戦が勃発しました。
そんななか、味方の陣中より黒糸威(くろいとおどし)の鎧を着た“法師武者”があらわれ、飛ぶ鳥のごとく群がる敵中へ駆け入り、予測不能にして獅子奮迅のはたらきをなし、またたく間に徳川方を勝利に導いたといわれています。
「まことに人間わざではございませんでした」そんな戦況報告を聞いた家康は、おもむろに黒本尊の御厨子の扉を開き、中をあらためたところ、不思議なことに尊像の全身が発熱して汗が流れ、御背中には鉄砲の痕がついていた……とのこと。
なんということでしょう。相対した真田方の攻勢に、味方(徳川方)危うしと、黒本尊が加勢してくれたのでしょうか。伝説では、「感涙した家康は、総毛が立つ思いでますます黒本尊を尊び、仏恩のありがたさを思い知った」と結んでいます(『黒本尊縁起』、『遊歴雑記』巻之下、第三十二)。
■戦国乱世の覇者を支えた確信
伝説はいわば“後づけの説明”です。無数にありえたシナリオのなかから、なぜその結論に導かれていったのか。実際は偶然や運が左右するなか、だれもが納得するのは、“神仏の奇跡譚”だったのかもしれません。
ともあれ、徳川家康が、戦国乱世の日本をひとつにまとめ、約260年続く「パックス・トクガワーナ」(徳川の平和)をもたらした徳川将軍家の祖だったのはまぎれもない事実です。
その生涯において、不遇や挫折を何度も経験し、命を危うくするピンチに見舞われたことも一度や二度ではありませんでした。その軌跡を見ていくと、状況判断や危機回避において、まさにこれしかありえなかったと思える判断と選択の連続だったことがわかります。
黒本尊は、そんな家康が常に身近に安置して祈りを凝らした守り本尊でした。
それがどれほどの助けになったのかはもはや家康本人にしかわかりませんが、ときに戦友のようなパートナーとなり、ときにみずからを導く師になり、心が崩れそうなときは自身を守ってくれる精神的支柱でもあったでしょう。そしてそのことは、危機を乗り越えるほどに確信へと変わっていったと想像できます。
逆にいえば、その支え(確信)があったからこそ、正しい判断や選択が可能となり、結果として戦国乱世の覇者たりえたといえるかもしれません。
■ご利益は納得の「勝運」
そんな黒本尊の功徳(ご利益)をひと言でいうなら、「勝運」の二文字につきます。徳川家康といういわば“究極の勝ち上がり”の守護者ですから、これ以上に頼もしい存在はいないでしょう。
勝負ごとは、人生のさまざまな場面につきものです。出世争いはもとより、さまざまな競争相手としのぎを削る日々を送る人も多いことでしょう。事業や営業、プレゼンやコンペの勝利、試験の合格もしかり。ときには己との戦いに勝つことも重要になってきます。
ただし、黒本尊の功徳(ご利益)は、たんに勝負の勝ち負けだけではないようです。増上寺のHPを読めば、黒本尊の「物事が勝(すぐ)れた方へ向かう」功徳が強調されています。これはどういうことでしょう。
「勝れた方に向かう」とは、もちろん「勝利に向かう」イコール「勝運・強運」を意味しますが、どちらかといえば、最終的な勝利、より良い成功といったニュアンスを思わせます。つまり、短期的な勝ち負けではなく、長期的なスパンで目標を成就させるご利益といっていいでしょう。
その根拠は、いうまでもなく長く続いた戦国乱世を終わらせ、長くつづく平和をもたらした神君家康公の事跡にあります。
また、勝れた方に向かうためには、キャリアの転換点や迷いが生じやすい場面で情に流されず、ときに厳しく、ときに寛容さを忘れず、チームや組織にとって「勝れた」(最良の)方向を選択できる冷静さと判断力が必要でしょう。先の三河一向一揆の場面は、黒本尊の功徳を物語る最良のケーススタディといえるかもしれません。
■戦う仏でなく、許す仏に帰依した
もうひとつ、筆者なりのポイントをあげるとすれば、家康公の守り本尊が阿弥陀仏だったということです。
たとえば、武田信玄にとっての不動明王や、上杉謙信にとっての毘沙門天、あるいは両者が崇めたといわれる飯縄権現をはじめ、多くの戦国武将がすがった“武神”は、いずれも怨敵降伏の呪術祈祷の本尊でした。いわば戦いの勝利に特化した神仏です。
しかし阿弥陀仏はちがいます。家康は「三河一向一揆」で相手側に寝返った家臣たちに、こう語りかけたといいます。
「現世は仮の世であり、来世は長い(永遠である)。われら(為政者)は仮の主人で、阿弥陀仏こそ永遠の主と思うべきである」「私(家康)も一向宗の皆も、ともに阿弥陀仏に導かれる存在であり、ともに許しをいただける存在であるから、皆もこれまで同様、本心に立ち返ろうではないか」(『東照宮御実紀附録 巻十七』より意訳)
■信仰によって育まれた人生哲学
こうして家康は、信仰と忠義とのあいだで揺れ動く家臣らを説得し、武士団の再統合を果たしたといわれています。
なお、黒本尊との絶好の結縁(けちえん)(前回記事「なぜ東京の超一等地に「最恐の怨霊」がいるのか…徳川家康を天下人に導いた"日本史上最強の武神"の正体」参照)のタイミングは、1月、5月、9月(正五九)の各15日。この年3日のみ、秘仏・黒本尊が御開帳になり、「黒本尊祈願会」が修されます。この機会に勝運、厄除け、商売繁盛、家内安全などの祈願の申し込みをするのが、黒本尊と出会う最大のチャンスといえそうです。
ちなみに、増上寺で頒布されている黒本尊の“端末”(御札や御守)には、「正五九」の祈願会のときに申し込みができる「特別祈祷の御札」をはじめ、「勝運御札」(紙札)、「勝運御守」(各種あり)などがあります。ぜひ大本山増上寺公式サイトでご確認されたし、なのです。
DATA:
三縁山広度院 増上寺
【宗旨・寺格】浄土宗 大本山
【本尊】阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
【宝物・文化財】
木造阿弥陀如来坐像(伝室町時代、都指定文化財。本堂に安置)
秘仏 本尊阿弥陀如来立像(黒本尊)(伝源信作。安国殿に安置)
紙本着色法然上人伝(国指定重要文化財)
ほか
【ご由緒】
明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、武蔵国豊島郷貝塚にて開山。天正十八年(1590年)、徳川家の菩提寺に。慶長三年(1598年)、現在の芝に移転。二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられている。
【授与品】
「勝運黒本尊祈願札」、各種お守り(「勝運」「学業成就」「病気平癒」「旅行安全」ほか)など
【鎮座地/交通】
東京都港区芝公園4丁目7番35号
JR線、東京モノレール「浜松町」駅から徒歩10分。
都営地下鉄三田線「御成門」駅、「芝公園」駅から徒歩3分。
都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」駅から徒歩5分、大江戸線「赤羽橋」駅から徒歩7分。
東京メトロ日比谷線「神谷町駅」から徒歩10分。
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本田 不二雄(ほんだ・ふじお)
ノンフィクションライター、編集者
1963年熊本県生まれ。学研発行の一般向け宗教概説書の編集・制作に長く関わり、仏像や神社、神仏信仰をテーマに執筆制作した書籍(雑誌、ムック含む)は多数にのぼる。単著では『弘法大師空海読本』(原書房)、『ミステリーな仏像』『神木探偵』『異界神社』『東京異界めぐり』(いずれも駒草出版)、『日本の凄い神木』(学研・地球の歩き方)、『神社ご利益大全』(KADOKAWA)ほか。
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(ノンフィクションライター、編集者 本田 不二雄)

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