藤原道長は3人の皇后の父親となり、摂関政治の絶頂期に出家する。なぜ権力の座から自ら降りることにしたのか。
平安文学研究者・山本淳子さんの著書『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』より、一部を紹介する――。(第1回/全3回)
■光源氏と道長の明白な共通点
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人は、藤原道長だろうと言われる。
確かに、〈栄華の人〉光源氏のあり方は道長によく似ている。光源氏は30歳を前に政治の実権を握ると、天皇の後見役を務めつつ、通常の貴族邸の四倍という大きさの豪邸・六条院に住み、風流を極めた暮らしを送った。その間には養女を梅壺女御として冷泉天皇に入内させ、実の娘の明石姫君を春宮妃とし、やがて二人をそれぞれ立后させた。
つまり、最終的に就いた「准太上天皇」という虚構の地位を除けば、彼には摂関期の権力者がとった典型的な行動パターンが詰め込まれている。そして摂関期の権力者の代表はと言えば、やはり道長なのだった。
紫式部が道長をなぞって光源氏を描いたかどうか、それは別として、道長の豪華な邸宅や、繰り広げられた天皇の行幸、四季の行事や荘厳な仏事、また娘を次々と入内させる後宮政策などを実際に目の当たりにしてこそ、リアルな源氏像が描けたことは間違いない。
光源氏は中年になっても色気があり、お茶目でよく冗談を言い、甘え上手で人に好かれた。一方、押しの強いところもあった。これらは道長の性格そのもののようにも思える。
■「人より抜きんでた男」が知った絶望
さて、光源氏ももちろん老いる。
そして人生の最晩年、彼は自分の〈光〉に絶望する。
いにしへより御身のありさま思し続くるに、「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく仏などのすすめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例(ためし)あらじとおぼゆる悲しさを見つるかな(後略)」(源氏の君は過去を振り返り自分の人生を思った。「自分は鏡に映る顔かたちからして人より抜きんでた男だった。だが幼いころからたくさんの人と死に別れ、人の命には限りがあるという悲しい真実を思い知らされてきた。それは私の身を通して仏がそう教えてくださっていたのだが、私はそれに気づかぬふりをして強気で生きてきた。しかしついに過去にも未来にも金輪際あるまいという悲しみに遭ってしまった……」)
(『源氏物語』「御法」)

■50代の道長に迫ってきた「闇」
光源氏の〈光〉とは、彼の美貌や高貴な血統、権力、富、恋愛力などの輝かしさを讃えたあだ名だった。しかしそんなものはすべて何の役にも立たないと、51歳のこの時、光源氏は思い知らされた。妻・紫上を亡くしたのである。その悲しみに彼は引きこもり、心は救いを求めてのたうちまわる。
『源氏物語』は人の世の普遍を描いた書であり、その意味では〈予言の書〉とも言える。ならば、〈光〉ならぬ〈幸ひ〉の人・藤原道長にも、同じ日は来るのか。彼がこれまでの幸運な人生を全否定するようなことが、やはりその最晩年にはあったのだろうか。

寛仁2(1018)年10月16日、53歳の道長は「望月の和歌」を詠んで、自分と息子を含めた政界の円満を、そして后の席を満たした娘たちの達成を喜んだ。だが実はその時すでに、彼はかなり目が見えなくなっていた。藤原実資が翌日の日記に道長自身の言葉を記している。
■胸病の発作に繰り返し襲われる
大殿、清談せらるる次(ついで)に目の見えざる由(よし)を命ず。「近くば則ち、汝の顔も殊に見えず」。申して云はく、「晩景と昼時とでは如何」。命じて云はく、「昏(くら)き時・白昼に因らず、ただ殊に見えざるなり」。(太閤・道長殿は、俗事を離れた話のついでに目が見えないとおっしゃった。「近寄ると、汝の顔も見分けられない」。私は尋ねた。「暗くなってからと昼時とでは、いかがですか」。太閤は答えられた。
「暗いか白昼かによらず、ただ見分けられないのだ」)
(『小右記』寛仁2年10月17日)

白内障の症状である。ここ数カ月、道長は自覚症状に気づきながら手当てを怠っていた。威子(いし)の立后で多忙を極めたためだろう。だがそれも一段落つき、ついに11月には陰陽師に祓いを始めさせたと記している(『御堂関白記』同年11月6日)。
これだけではない。この年閏四月、道長は何度も「胸病(きょうびょう)」の発作に襲われていた。胸の痛みを訴え「叫び給ふ声甚だ高く、邪気に似たり」というもので、食事も受け付けない。
邪気は次兄の故藤原道兼の怨霊らしいともされ、ならばもはや「おなじみ」の感すらあるが、今回は新たに前年崩御した三条院(976~1017)の怨霊との疑惑も加わった(『小右記』同月17日・20日・5月2日)。
■さらに親族を蝕んだ「飲水病」の症状も
確執は死によって終止符を打たれ、道長の勝利に終わったかと思いきや、敗北者はすぐに怨霊となってよみがえる。一体どちらが勝者なのか。
道長が栄華を手に入れる足跡とは、勝利によって己の〈心の鬼〉――罪悪感を増幅させ、疑心暗鬼による怨霊を次々生みだし、それらがますます己に襲い掛かる足跡でもあったのだ。医学博士の服部敏良氏によれば、この年の四月から六月末までに、道長の胸病の発作は実に約30回に及んでいるという。

他にも彼は、2年前の長和5(1016)年から、とにかく喉が渇き顔色が悪く気力が減退していた。
「飲水病(いんすいびょう)」――現在の生活習慣病(糖尿病)で、長兄・道隆、そして甥の伊周を死に追いやった宿痾(しゅくあ)――の典型的症状である。
この長和5年5月10日、道長家恒例の法華三十講に招かれた僧・頼秀は目ざとく道長の症状を見つけ、「死期が遠くないと思う」と実資に漏らした。なるほど、僧とはこのように権力者の機密を漏らす存在でもあったのだ。
しかし道長はこれを病魔と認めず、翌11日、心配する実資に語って「確かにこの3月から喉が渇き、大量に水を飲むようになったが、食事はしっかり摂っている。医者の見立てでは暑気あたりだ」と言っている。だが病魔は彼の中に居座り、確実に彼の体を蝕んでいた(『小右記』同月10日・11日)。
あちこちの不調、度重なる発作。「この度こそは限り」。そう道長は覚悟したと、『栄花物語』(巻十五)は言う。こうして辿り着いたのが、寛仁3(1019)年の出家と、同年に始まる阿弥陀堂――やがて大伽藍を整備して彼の心の聖地となる「法成寺」――の建立だった。
■「私ほどすべてを成し遂げた例は無い」
『栄花物語』には、出家にあたって道長が家族らに思いを述べる場面がある。

「さらに命惜しくも侍らず。さきざき世を知りまつりごち給へる人々多かるなかに、おのればかりすべき事どもしたる例はなくなんある(後略)」
(「命は全然惜しくない。これまでの多くの為政者のなかに、私ほどすべてを成し遂げた例は無いではないか」)(『栄花物語』巻十五)
そして語ったのは、孫である後一条天皇(1008~36)と春宮・敦良親王の存在、太皇太后・彰子(しょうし)、皇太后・妍子(けんし)、中宮・威子の三后と、「小一条院」敦明親王の女御で明子(めいし)腹長女の寛子(かんし)という娘たち、そして摂政・頼通や権中納言・教通など公卿に名を連ねる息子たちの存在だった【図表1】。
■「遁世型」と「往生型」のハイブリッド
道長にとって人生すごろくの〈あがり〉とは、何よりもこの家族のことだったのだ。特に后三人の父となったことは曽祖父・忠平にも祖父・師輔にも達成できなかったことだ。
もちろん自分のことも忘れてはいない。「自らは太政大臣にもなり、一般人ながら三后に准じた待遇も受けている。この二十余年、誰も並ぶものなく一人で数多の帝のお世話にあたり、大過なくやってきた」と並べ立て、「今年、私は五十四歳になる。死んでも恥ずかしくない歳だ。将来も、いまほどの成就を見ることはあるまい」――。わが人生への満足の思いをしみじみと語った。
この出家は一体、何なのだろうか。
出家には大方三つのパターンがあり、一つは大病や事件などをきっかけに世をはかなんで仏道にすがる「遁世(とんせい)型」、一つは臨終に際して浄土への転生を願う「往生型」、一つは老後を心静かな環境で送ろうという「ライフサイクル型」である。
道長の出家は病が理由なので、煩悩を捨てて仏にすがる「遁世型」であるべきだ。死を覚悟していたのだから「往生型」の側面もある。しかし彼の言葉は世俗の達成ばかりを自画自賛している。これで解脱ができるのだろうか。自らの〈罪障感〉を払拭して、迫りくる数々の怨霊から逃れられるのだろうか。
■出家後も権力欲を捨てられなかった
寛仁3(1019)年3月21日、道長は出家した(『小右記』同日)。すると、不思議にも彼の体は劇的に回復に向かう。怨霊たちは悔しがり怨嗟(えんさ)の声を上げたが、やがて消えゆき、道長には食欲が戻った(『栄花物語』巻十五)。出家したから大丈夫という安心感からだろう。薬と信じて飲めば何でも幾分かは効くという、いわゆる〈プラセボ効果〉が働いたとおぼしい。道長には、断念していた寿命が「おまけ」のように立ち現れた。
ここで彼の出家は、安らかな思いで晩年を過ごすための「ライフサイクル型」に転じた。だが道長のことである。安らかな思いとは結局、世俗時代の延長だった。歴史学者の上島享氏によれば、道長は出家して法成寺を建立するにあたって、ますます権力欲をあらわにした。宗派門流を超えて仏教界を掌握し、君臨を図ったというのである。
道長は、病の癒えた四カ月後には御堂の建立にとりかかった(『小右記』同年7月17日)。一丈六尺(丈六=約4.85m)の金色の阿弥陀如来を九体造らせて安置する計画である。大規模な建築作業の様子を、『栄花物語』は生き生きと記す。
■千人規模で賑やかに行われた御堂建立
堂の上を見上ぐれば、たくみども二三百人登りゐて、大きなる木どもには太き綱をつけて、声を合はせて、「えさまさ」と引き上げ騒ぐ。御堂の内を見れば、仏の御座造り耀かす。板敷を見れば、木賊(とくさ)、椋葉、桃の核などして、四五十人が手ごとに居並みて磨き拭ふ。檜皮葺、壁塗、瓦作なども数を尽くしたり。また年老いたる法師、翁などの、三尺ばかりの石を心にまかせて切りととのふるもあり。池を掘るとて四五百人おりたち、また山を畳むとて五六百人登りたち、また大路の方を見れば、力車にえもいはぬ大木どもを綱つけて叫びののしり引きもて上る。賀茂川の方を見れば、筏(いかだ)といふものに榑(くれ)、材木を入れて、棹さして、心地よげに謡ひののしりてもて上るめり。(堂の上を見上げれば、大工どもが200~300人登って、大きな木材には太い綱を巻いて、「えっさ、まっさ」と声を合わせて賑やかに引き上げる。御堂の中を見れば、仏像を置く台座を造り輝かせている。板敷を見れば、40~50人が手に手に木賊、椋の葉、桃の種などを持ち、並んで磨きたてている。檜皮葺き、壁塗り、瓦作りなども数え切れない。また老法師や翁など、力仕事は無理でも、三尺(約90cm)ほどの石を思い思いに切り調(ととの)える者もいる。池の掘削には400~500人が底に下り立ち、また築山の造作には500~600人が上に登り立つ。また大路の方を見れば、力車にとんでもない大木を何本も置き綱を巻き付け、大声で叫んでは引いてくる。賀茂川の方を見れば、筏というものに製材した板や材木を入れて、流れに棹をさし、心地よさそうに大声で歌いながら上ってくるのが見える)
(『栄花物語』巻十五)

■国家鎮護と万民救済を祈る大規模な寺に
仏を安置するための仏壇造りには、道長、頼通を筆頭に、公卿・殿上人から僧・下級官人・庶民までが力を合わせたとは、当時の実務官僚・源経頼が記すところである(『左経記』寛仁4〈1020〉年2月15日)。思えばこうしたパフォーマンスは、若い時から道長が得意とするところだった。
御堂はやがて無量寿院と名付けられたが、それでは終わらず講堂や金堂が次々と造営されて、治安2(1022)年には名が法成寺と改められた。無量寿院は道長の極楽往生を祈る阿弥陀仏の寺だったが、法成寺は金色の大日如来像を安置し国家鎮護と万民救済を祈る寺だった。これはもう、個人の寺ではない。
道長は一体どこまで手を広げれば気が済むのか。もともと信仰は篤(あつ)かったが、出家してからの道長は、まるで熱に浮かされでもしたように大掛かりな仏事にのめりこんだ。

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山本 淳子(やまもと・じゅんこ)

京都先端科学大学人文学部 教授

1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。各メディアで平安文学を解説。著書に『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)、『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日選書)などがある。

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(京都先端科学大学人文学部 教授 山本 淳子)
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