なぜ人は誠実に生きることが重要なのか。スウェーデン出身でタイで僧侶となったビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんは、「たとえ誰も見ていなくても、その悪い行いをしたことを自分自身はずっと覚えている。
それは今後の人生にとても重荷になる」という――。
※本稿は、ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)の一部を編集したものです。
■心を動かされたタイの僧院長の講話
私のタイでの初めての僧院長、アジャーン・パサーノはスピーチの才能に恵まれていなかった。彼は僧侶や信徒に講話をするのがまったく好きではなかった。講話をしていたのは、立場上そうすることが求められていたからだ。
けれども、パサーノの日頃の行動はとても素晴らしいものだった。彼は自分のところに来る人たちのために時間をつくり、一人ひとりの話に辛抱強く耳を傾けていた。
訪問者の中にはかなり傲慢な人もいて、自らが精神的な高みに達した(本人の基準によれば)ということや、社会的に成功したことを自慢したがっていた。相当に不愉快な人間もいた。
しかしパサーノは誰に対しても親切かつ公平に接していた。僧院の長を務め、かつ僧侶全員の手本になるような言動を取るのは、簡単なことではない。
けれども私にとって、彼はまさにお手本となる人物だった。
彼は自分が弟子に説いた通りのことを自ら実践し、すべての教えを身をもって示していた。パサーノの心はいつも正しい場所にあった。
■「誰も見ていない」と酒を勧められた時…
ある夜、お茶を飲んでいるとき、パサーノは私たちに向かって哲学を語り始めた。それは僧院を訪れていた私の母が彼に「僧侶になって、どれくらいしてから故郷に里帰りしましたか?」と尋ねたのと同じ日だった。
おそらくその会話がきっかけになって、記憶が呼び覚まされたのだろう。パサーノは16年ぶりに故郷に帰ったときのことを語り始めた。
それはクリスマスの時期で、彼は実家にいた。家族や親戚がクリスマス休暇を一緒に過ごすために集まっていた。ある夜遅く、パサーノは従兄弟とテーブルを囲んでいた。しばらくして、ウイスキーを飲んでいた従兄弟が、別のグラスに酒を注ぎ、パサーノの前に置いた。
「飲まないか?」

「いや、結構。森林派では、酒は厳禁だから」
「おい、堅いこと言うなよ」従兄弟はそれでも酒を勧めてきた。
「誰も見ちゃいないさ」
パサーノは彼を見上げ、静かに正直に答えた。
「僕が見ている」
■「なぜ誠実に生きることが大切なのか」への気づき
私はパサーノがそう言ったとき、首の後ろの毛が逆立つようなゾクッとした感じがした。信頼し、尊敬する人からのメッセージは、ときに特別な重みがある。そうした人たちの言葉には、たとえそれが単純であっても、心を深く突かれることが多い。
アジャーン・パサーノは、私にとってまさにそのような人だった。私はこの逸話に感銘を受けた。それは誠実に生きることがなぜ大切なのかについて、これ以上ないほど美しい気づきを与えてくれた。
私の目指す倫理観もまさにこれだ。“誰も見ていなくても、自分が見ている”という意識で、自分の言動に責任を持ちたい。
私が背筋を伸ばし、健全な道徳観に従って生きたいと思うのは、それがどこかの本に書いてあったからではない。古臭い宗教的な教義がそう教えているからでも、他人に立派な人間だと思われたいからでも、雲の上に鎮座する白髪の老人に行いを観察されているからでもない。
私自身が、自分の言動を覚えているからだ。

■自分の言動に責任を持つのは何よりも自分のため
自分が何か悪いことをしたとわかっているとき、私たちはそれを恥ずかしく感じ、人に知られるのを恐れる。それは人生の重い荷物になる。それを引きずって歩くのはとても大変だ。
その代わりに、自分の後ろめたい行いを頻繁に思い出して罪悪感を覚えたりすることなく、身軽に人生を旅することができたらどうだろうか。
だからこそ、自分の利益のために他人を欺いたり、その場の目的のために相手を傷つけたり、そのほうが便利だからといって真実を捻じ曲げたりしないことが大切なのだ。
こうした悪しき行為は人間の本性から生じるものであり、ゆえに人は簡単にそのような行為をしてしまう。
だが、自分の言動に責任を持つことを選べば、美しいことが起こり始める。心の負担が軽くなる。言動に責任を持つのは、相手のためだけではない。むしろそれは、自分自身のためなのだ。
■自らの善行は他人に宣伝する必要はない
タイには、「仏陀の背に金箔を貼る」という素敵な表現がある。これは金箔とロウソクと線香を持って寺院を訪れ、しばらく瞑想してから、仏陀への敬意を示すためにそれらの贈り物を寺院に手渡すという伝統に関連した言葉だ。

タイの仏像はたいてい金箔で覆われている。仏陀の背に金箔を貼るとは、自らの善行を宣伝する必要はないという意味だ。
誰にも見られることのない仏像の背中に金箔を貼るという考えには、少なくとも比喩的には何か楽しいものがある。他人に知られたかどうかは重要ではない。あなたが知っていることが重要なのだ。そしてその事実とは、一生一緒に生きていかなければならない。
私たちの行動や記憶は、お風呂のお湯のようなものだ。それがきれいか汚いかは、自分次第だ。
倫理的、道徳的に何が正しいかについては際限なく議論ができる。哲学者は何千年にもわたって、そのことを熟考してきた。
しかし私にとって、それは1つの単純な事実に集約される。それは、“私には良心があり、自分の行いや発言を覚えている”ということだ。
それらは私の人生の荷物になる。私は、何を荷物にするかを自分で選ぶことができる。
■衝動に駆られても、行動に移さないことが大切
では、私たちは倫理的な領域において何に責任を持つべきなのだろう? 責任を持つべきは、行動のもとになった衝動そのものではない。誰もがときにおかしな衝動に駆られることはある。
そうした衝動に駆られたことがないふりをするのは難しい。パサーノはそのことをよく表す、1970年代のアメリカ大統領選挙中の出来事を話してくれた。
当時、有力な大統領候補だったジミー・カーターは、あるインタビューでジャーナリストに「あなたは不倫をしたことがありますか?」と尋ねられ、「肉体的にはしていないが、想像の中では何度も」と答えた。世間の彼への信頼は急落した。
だがパサーノが述べたように、もしそのインタビューがもっと進んだ文化の中で行われていたら、カーターへの信頼はむしろ高まっていただろう。これ以上、人間らしい答えがあるだろうか? 誰もが共感できるはずだ。衝動は本能的なものであり、心の中で衝動を抱くことに私たちは責任を負う必要はない。
その意味で、どの衝動に基づいて行動し、どの衝動を手放すかを選択できる、成熟した人はたしかに素晴らしい。

仏陀もそのことをよく表現している。「自分の行動や言葉に責任を持ち、真実を貫き、規則を重んじ、故意に他人を傷つけない人は、熱帯夜の満月のように、雲の向こうからゆっくりと姿を現し、辺り一帯を照らす」
若い頃、『小さな巨人』という西部劇を見たことがある。この映画には、オールド・ロッジ・スキンズというインディアンの長老が登場する。
彼は厳しい生活を送っていたが、ある朝、彼はティピーと呼ばれる可動式住居から出てきて、「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と宣言する。
私も、そんなふうに死を迎えたい。友人のように。死よ、ようこそ。君が「すべてはいつか終わる。後悔を残さないように」と私の耳元でささやいてくれることで、私は人生を俯瞰し、バランスを取ることができる。
■自分の内面を美しくするために他人を変える必要はない
人生は突然に終わる。だからこそ、どう生きることを選んだかが問題になる。因果応報(カルマ)のような考えを信じているかどうかにかかわらず、過去に起きたことや現在のこと、これから待ち受けているかもしれないことについてどんなふうに考えているかは、私たちの日々の感情に影響を与えている。
世界のあらゆる宗教が、“人はいつか死ぬことを忘れないように”という教えを重視しているのは偶然ではない。人生の大きな選択をするときには、この教えを覚えておこう。
私たちは、自分の中にある美しいものを引き出すような行動を選択できる。昨日よりも今日、今日より明日、より良い自分になるための行いができる。
人生は短い。そのことを理解したとき、そして周りの人の存在や自分が手にしているものを当たり前だと思うのをやめたとき、それまでとは違った形で人生を歩んでいけるようになる。
私たちは、起こり得るすべての結果に影響を与えることはできないし、あらゆる物事を思い通りにすることもできない。
しかし、良い行いをしようと思って、実際にその通りに行動しようとすることはできる。
道徳的に振る舞うことに責任を持つ。それは決して小さなことではない。とても重要なことだ。そして、それは誰にでもできる。自分の内面を美しくするために、他の誰かを変える必要はない。これはとてもシンプルなことだ。
■目の前の小さな一つひとつに道徳的に生きる
10歳の子どもでも、多かれ少なかれ、人間の心の美しさとは何かを知っているだろう。忍耐力や寛大さ、親切さ、正直さ、今この瞬間を大切にすること、許す力、他人の立場になって考える力、共感力、傾聴、思いやり、理解力、思慮深さなどだ。
これらの資質を挙げるのは難しいことではない。
とはいえ私は、現代社会では、こうした資質を表現することが必ずしも求められていないような気がする。
だからこそ、私はこれらの価値を訴えたい。背筋を伸ばして、自分の中にある最も美しい特性を引き出すことを意識して生きる。
今、世界がこれ以上必要としているものがあるだろうか?
これは全人類の行動を正し、地球規模の問題をすべて解決しなければならないということだろうか? 誰もが、グレタ・トゥーンベリやガンジーのような人間にならなければならないのか?
そんなことはない。もちろん、ごく少数だが、そのような考えで行動しようとしている人もいる。彼らは壮大なスケールで物事を考え、行動するのが好きなのだ。それは素晴らしいことだ。
しかし、目の前の小さな現実の中で道徳的に行動することも、同じように価値がある。日常の仕草に、心を配る。小さなことの中に、奇跡を見出す。自分の利益を優先せず、忍耐強く、寛容で、正直で、協力的な行動を選択する。
人生は、ごく小さなことの積み重ねだ。それらをまとめるとき、大きな意味や価値が生まれるのだ。

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ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド
スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶

大学で経済を学び、エリートビジネスパーソンとして輝かしいキャリアを歩んでいたが、物質的な豊かさを重視する生き方に疑問を持ち、20代半ばで仕事を辞め、タイのジャングルで森林派の仏教僧侶としての生活を始める。「知恵の中で成長する者」という意味のナッティコという僧名を与えられ、17年間、タイやヨーロッパの僧院などで生活したのち、僧衣を脱ぎ、母国スウェーデンで生活を始める。社会復帰しようとするも、厳しい現実に直面し、うつ状態に陥るなど苦労を重ねるが、妻や家族の支えで次第に生きる道を見つけていく。2018年に難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、闘病後、2022年1月に帰らぬ人となった。2020年に刊行された本書『I MAY BE WRONG』はスウェーデンで瞬く間にベストセラーとなり、2020年で最も売れたノンフィクション本となる。現在33カ国で翻訳が決定しており、韓国や台湾、イギリスをはじめ、世界中でベストセラーとなっている。

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(スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド)
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