※本稿は、佐藤優『トランプの世界戦略』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
■トランプ関税が自由貿易を破壊する?
2025年4月2日、トランプが関税政策を断行したことで、世界は一時的な大混乱に陥ることになった。自由貿易の国際的原則が破壊され、自国中心主義の風潮が各国で勢いを増すのではないかという懸念が、多くの報道機関から示され、また、アメリカ・ファーストを掲げるこの政策に対しては、内外から強い批判が怒濤のごとく寄せられた。
トランプ政権第一期の首席補佐官を務めたジョン・ボルトンも、「関税の導入は非常に破壊的なものとなる」と述べている。
しかし、私はこれらの見方とは異なる意見を持っている。
エマニュエル・トッドは、2019年時点でアメリカの高学歴層に占めるエンジニアの割合がわずか7.2%に過ぎないということを指摘し、これがアメリカの生産力低下の一因であり、今後もこの傾向を根本的に改善するのは難しいと語っている。
■優秀なエンジニアは海外からやってくる
確かに、国内で急激にエンジニアの数を増やすことは困難である。しかし、中国やインド、さらには日本のエンジニアをアメリカに呼び込むことは現実的には可能である。熟練労働者が不足しているからといって、自国民のみを育成する必要があるとは限らない。アメリカ政府も企業も潤沢な資金を有しており、環境を整えさえすれば優秀な人材が移住する可能性は高い。
現在のアメリカ国内を見れば、そのエンジニアを惹きつける魅力を持っていることは明白である。
このような状況下で、20代の日本人が1年間アメリカで働けば、500万~600万円の貯蓄は十分に可能だろう。5年間働けば、3000万円近い貯金を手にすることができる。また、その間に英語能力も飛躍的に向上するという副次的なメリットも得られるのだ。
■労働環境や雇用のありかたが変わる
こうした点を踏まえれば、エンジニアが海を渡り、一定期間アメリカで働くという選択肢は十分に現実的である。これは日本人に限らず、中国人であれば、さらに高い確率で現実化するだろう。
現代は、飛行機で容易に移動できる時代である。技術者やエンジニアが、よりよい労働環境を求めて国と国とを移動するという発想はごく自然なものである。トヨタの期間工がアメリカで組立ラインに入ることもあり得るし、高度な設計エンジニアがアメリカで働けば、より高い報酬を得ることができる。
人の移動が容易になった現代において、トランプの言っている政策には、大きな意味がある。そして、このような労働環境の変化は、アメリカにとっても、日本の労働者にとっても、相応の利益をもたらす可能性がある。
■あらゆる製品を「メイド・イン・USA」に
トランプ関税には二つの目的があると私は考えている。
一つは貿易赤字の是正である。これは過去の日米貿易摩擦のときと同じで、解決のためにはアメリカの製品を日本などにもっと買わせればよいだけの話である。
重要なのはもう一つの目的のほうであり、トランプはアメリカの産業構造の転換を目指していると私は考える。戦車、戦闘機、軍艦といった兵器から弾薬までの軍事製品のみならず、自動車、白物家電の冷蔵庫、洗濯機、掃除機に至るまで、アメリカで完全に製造できるようにするという目標を彼が掲げているのは間違いない。
だからこそ、トランプは中国に対してのみならず、世界各国に関税措置を課すと宣言したのである。
イギリスの古典派経済学者であるアダム・スミスやデヴィッド・リカードは、国家の介入や干渉を排する自由貿易を擁護した。しかし、フリードリッヒ・リストはこの自由貿易化の議論に真っ向から異議を唱えた。彼は自国の産業を育成・発展させるためには、競争的に優位に立つ他国には関税をかけるべきだと主張したのである。
■ロシアは「閉鎖経済」で成功している
実は第二次世界大戦が終わるまで、このリストの考え方のほうが世界的な潮流だった。第二次世界大戦後も、EUなどは域内では相互に関税を廃止する一方、域外の諸国に対しては共通の関税を課していたのだから、この点から見ても、リストの考え方は生き続けていたと言える。
1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結して以降、グローバリゼーションが肯定されるようになったが、それはここ30年ほどの現象に過ぎない。トランプは国家運営に、再びリスト的な視座を持ち込もうとしていると見るべきであろう。
トランプがリストのこの考えを採用するようになったのは、アメリカをはじめとする西側諸国がウクライナ戦争で敗北しつつある現実が背景にある。
開戦当初、ウクライナ戦争が長引けばロシア経済は崩壊するという声が多く聞かれた。しかし、蓋を開けてみれば、実際にはそうはならなかった。ロシアは、外国との金融・貿易取引を必要としない「閉鎖経済」への転換に成功したのである。
今やロシアは経済崩壊に進むどころか、軍需産業はむしろ強靱さを増している。トランプは、そうしたロシアの政策に積極的に学ぼうとしているように見受けられる。
■グローバリゼーションという幻想の終焉
では、日本は今後どうすべきなのか。すでに決定的なパラダイムシフトが起きてしまったと認識したうえで、日本も早急に自国でモノを作れる産業構造への転換を目指すべきである。
コロナ禍で大幅に不足したマスクを例に挙げよう。今でこそ国内メーカーがマスクを大量に生産するようになったが、コロナ禍当時は世界的にマスク需要が高まり、海外からの輸入がストップしたことで国内需要にまったく対応できない状態に陥った。
これは、国内においてもモノの生産が可能であるという好例である。
トランプの政策は、モノの生産の重要性を再認識させたという点で意義がある。日本もそろそろ、グローバリゼーションという幻想から目を覚ますべきときである。
安価で農薬まみれの農作物を食べるのではなく、価格は高くとも、安全な国産品を選ぶ。そうやって日本国内でお金を循環させることが望ましい。こうした考えを国民全体に定着させることができれば、日本経済の発展も夢物語ではなくなる可能性が高いのである。
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佐藤 優(さとう・まさる)
作家・元外務省主任分析官
1960年、東京都生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で国策捜査の裏側を綴り、第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『獄中記』(岩波書店)、『交渉術』(文藝春秋)など著書多数。
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(作家・元外務省主任分析官 佐藤 優)