高度進行がんになったらどう過ごすべきか。長年、消化器外科医やホスピス医として勤務し多くのがん患者を看取った小野寺時夫さんは「抗がん剤治療や手術など苦痛な思いをする必要が本当にあるのか」という。
小野寺さんの同名書籍を新装復刊した『私はがんで死にたい』(幻冬舎新書)より紹介する――。(第2回)
■苦痛に耐えながらがん治療に費やす人たち
人生最後の数カ月から半年という短い期間を苦痛に耐えながら手術、抗がん剤治療、あるいは民間医療や免疫療法に費やしてしまい、死に近づいてからホスピスに入院してくる患者さんが大勢います。
私は、治療の連続で苦しんだうえに短い貴重な時間を失った人に出会うたび、治療を受け入れたのは自己責任だとはいえ、同情に堪えない気持ちになります。
多発転移がある場合は、治療で延命できることが皆無ではないかもしれませんが、延命効果を期待できないことがほとんどです。治療による苦痛を免れることはできず、最終的には助かることはなく、奇跡が起こることもありません。
人は、大きな宇宙からすれば「超ミクロ」の惑星である地球上に、さらに「超ミクロ」の生命体としてほんの束の間の生を享受しているだけで、例外なく元の宇宙の物質に戻らなければならないという大自然の摂理に支配されています。
■がん治療をやり過ぎることの危険性
その昔、日本人の死因の第1位だった結核が治るようになり、死亡率の高かった心筋梗塞もステント治療やバイパス手術で長生きできるようになったのに、「がんを治せないとは情けない。早くがんを治す薬ができないか」と悔しさを滲ませて嘆く人も時々います。
しかし、「がん」の本態をよくよく考えると、人があまり長生きしないための自然の摂理の一現象とも考えられるのです。その意味では、高度進行がんを治療しようとするのは、自然現象に逆らうことかもしれません。
誰もがこの素晴らしい世界から永久に消え去ることが残念でならず、延命の可能性が少しでもあるなら苦しい治療も我慢して受けようとするのが自然な気持ちでしょう。
それでも、外科医、ホスピス医として多くの人の死に立ち会ってきた私からすると、がんになってどういう経過を辿って死に至るかは、ほとんどは人の力の及ばない運命によって決まるとしか思えません。

発見したときにはすでに高度進行がんで、何もできないまま坂を転げるように亡くなる人がいる一方で、乳がんや前立腺がんで骨転移して死を免れ得ないとわかってから5年も10年も生きる人もいるのです。
やり過ぎの手術は苦しみや危険を伴い、抗がん剤治療は苦しい副作用に耐えなくてはならず、残された貴重な人生を苦しんで過ごすことになる可能性が高いのです。がん患者さんが苛酷な治療に耐えたという報道を聞くことがありますが、私は効果のない無益な治療を苦しみながら受けたに過ぎないと、気の毒に思うことがしばしばあります。
■人生の価値は長さではない
人生の価値は長さではなく、本人にとって豊かな生き方が重要であるといわれるように、特にがんで余命の限られた人にとっては、生き長らえようと苦しみながら治療にこだわるよりも、元気なうちにできるだけ豊かに生きるほうがいいのではないでしょうか。
がんになった著名人が最後まで仕事に没頭し続けたというエピソードを賞賛とともにマスコミは報道しますが、私が診てきた「名もない庶民」にも人生の最終を自分の仕事や責務に打ち込み、立派にやり遂げた方がたくさんいます。なかには、ためらわずに仕事を辞めて趣味に徹して生きる人もいます。
どちらがより価値が高いなどということはなく、自分にとってよければそれでいいと思います。いずれにしても、肝心なのは、余命が長くないと知ったら自分のやりたいことをするのが最良なのです。
■亡くなる1週間前まで仕事に没頭する会社役員の男性
肺がんで手術を受けて2年後に再発した会社役員Kさん(63歳)が絶えず呼吸苦に悩むようになりました。奥さんは、いつも「ゼイゼイ」して苦しそうなのにそれでも会社に行くのは見るに堪えないので、早く入院してほしいと思っていました。ホスピス外来にKさんについて来た奥さんから、入院するよう私からも説得してほしいと頼まれましたが、Kさんは会社に出ているほうが呼吸も楽で咳も少なく調子がいいというのです。
私はKさんの望み通りに勤務することに賛成し、モルヒネなどの薬剤を2週間ごとに増量し、呼吸苦の緩和に努めました。
それから2カ月間勤務を続け、最後は呼吸困難で緊急入院し、1週間後に亡くなりました。奥さんも「夫にとって最良の生き方だったと思います」と話してくれました。
■残された時間で海外旅行を楽しむ夫婦
胆のうがんの女性Fさん(63歳)は抗がん剤治療を勧められて迷っていましたが、最終的にはホスピスで過ごしたいと思ってご主人と外来に来ました。私が抗がん剤治療の効果について詳しく説明し、「私なら受けないでしょう」と話すと夫婦ともに納得しました。
Fさんと夫は「担当医は『治療優先』で、バルト三国の旅行の計画は無視されました」と残念そうに話しました。夫婦とも教員で子育てが済んだころから夫婦での海外旅行を楽しんできており、次回はバルト三国を予定していたそうです。
私はすぐにバルト三国に行くことを勧めました。「私なら、万々一、行き先で亡くなってしまうようなことになっても、寝て死を待つよりは旅行します」とまで話しました。非常時の対応として、現地病院宛には紹介状を、事故・病気保険会社宛には、旅行が問題なくできることを認めた証明書を書きました。緊急用の薬と、いつでも連絡できるように国際携帯電話を持たせて送り出しました。10日間電話もなく、無事に旅行を楽しむことができました。その後、夫婦でアラスカにも行き、帰国後間もなく急変して、ホスピスに来ることなく近所の救急病院に緊急入院して翌日亡くなりました。
両親が私に感謝していたからと、娘さんがホスピスにボランティアで来るようになりました。
■元気で生きている間にやりたいことをやる
私は、患者さんの望み通りの生き方を最後まで叶えられるようにしています。これは私の死生観でもあるからです。
入院患者さんにも、ある程度元気な人には何かをするよう私は仕向けています。油絵が趣味の元外科医に病室で描くことを私が勧め、描いた絵を私が批評するので、先生(65歳)は直腸がん局所再発で座ることができないため床に這いつくばって2カ月間毎日描き続けました。
食道がんの男性Sさん(67歳)は、手品が趣味とわかったので、入院患者さんのためのお茶会で披露するようお願いし、それから毎週披露することになりました。Sさんは約2カ月間毎日練習に明け暮れました。
私は57歳のときに咽頭がんと診断されました。がん専門病院の病理科医2人にがんと診断されたのです。私自身は「ウイルス感染によるポリープ」と思ったのですが、医師の勧める通りに手術と放射線治療を受けました。耳鼻科医と放射線科医から再発率は50%といわれました。
それまでは、日曜、祝日、夏休み、正月休みもなく病院に詰め、「仕事漬けの生活」でした。
家庭も無視したような生活でしたが、管理職になって入院患者さんを直接には受け持たなくなったこともあり、元気で生きている間にやりたいことをやりたいという気持ちに変わりました。
■最高の楽しみを見つける
私の望みはたくさんありました。山歩きをすること、自然に浸った生活をすること、野菜作りをすること、高校の文化祭で聴いた大学生の弦楽四重奏の幻想的な音色に魅せられてから時々弦楽器主体のコンサートを聴いていたので、生きているうちにヴァイオリンを弾く真似をすることなどでした。
私は、山歩きがもともと大好きなのに、週末も患者さんから離れることができず思うように行けませんでした。管理職になって入院患者さんを直接には受け持たず週末は自由の身になったので、病院の看護師と医師に声をかけて泊まりがけの山歩きを始めました。
これが好評で、職場の人間関係の円滑化に一役買ったこともあり、次第に他科の職員も加わりハイク・サークル「かたくり」が誕生しました。「かたくり」の名は、戸隠(現在の長野市、かつての長野県上水内郡)ハイクでかたくりの群生を見たころに自然とつきました。
病院の職員に加え、その配偶者、その友人も参加するようになり、職種も、上下関係も、新参古参も分け隔てなく山歩き好きの共通の趣味で集まっているので心が通じ合っています。
発足から30年近く経っているので、ほとんどのメンバーは仕事をリタイアしており、平均年齢は70歳に近いのです。20年ほど前、仏モンブラン山群を周ってからは海外の山歩きに味を占め、毎年の定例となって25人前後が参加しており、2012年のチロル・ドロミテは第20回目です。海外まで行って疲れる山歩きをするのが理解できないという人もいますが、私たちにとっては生きている最高の楽しみなのです。
■「患者対医師」ではなく「人生の友」として接する
私は、自然に浸った生活が大好きで、60歳のときには八ヶ岳の麓に半分自力で丸太小屋を作る一方で、ホスピスの近くの、無償で借りた120坪の畑で野菜を作りだしました。

ヴァイオリンは、65歳から子どもたちに交ざってレッスンに10年ほど通いました。プロの名演奏を聴くたびに、高齢になって始めたことを後悔するのですが、ホスピスのお茶会に出席するよう患者さんに勧めると、「ヴァイオリンがあるなら出る」という人が時々いるので、朝な夕な、そして暇があるとヴァイオリンもどきの練習をしなければならず、私は退屈する暇がないのです。やりたいと思ったことはほとんどやったことになります。
それでも、もう死んでもよいと思っているわけではなく、まだ生きていたいのが本心です。ですから、不運にも私よりも先にこの世を去らなければならない人には、やりたいことをできるだけ最後まで続けるように勧め、苦しい思いをさせないよう最善の努力をしているのです。
その人の輝いているときの話や、死後の心配事をあえて話題にし、「患者対医師」というよりもこの世に束の間の生を享けた「人生の友」として、敬虔な気持ちで接しています。

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小野寺 時夫(おのでら・ときお)

ホスピス医

1930年生まれ。東北大学医学部卒業、同大学院修了。消化器がん外科専門医、ホスピス医。1968年、東北大学医学部第二外科専任講師時代に日本で最初に中心静脈栄養法に着手し、これが全国に普及。米コロラド大学病院で、当時最先端の肝臓移植に携わったあと、1975年から都立駒込病院に勤務。のち同病院副院長、都立府中病院(現・都立多摩総合医療センター)院長を務め35年以上にわたって消化器がんの外科治療に携わる。
その後、多摩がん検診センター(のちに都立多摩総合医療センターと統合)所長、日の出ヶ丘病院ホスピス科医師兼ホスピスコーディネーターなどを歴任、緩和ケアに携わる。外科医時代を含めて5000人以上にがん治療をし、3000人の末期がん患者の最期に立ち会った。2019年10月、がんで逝去。享年89。著書に『治る医療、殺される医療』『がんのウソと真実』『がんと闘わない生き方』など。

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(ホスピス医 小野寺 時夫)
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