※『Mondo Alfa』に掲載されている内容を一部改変して転載したものです。

“松山空港より50分(30km)JR松山駅より35分(18km)”。
施設側が発する些細な文字情報を頼りに、ブラインドコーナーが連続する山道をアルファ ロメオ ステルヴィオで駆け上がる。安藤忠雄氏が設計したという瀬戸内リトリート青凪は、意図なき者はまず訪れない海を見下ろす山の中に在った。
圧倒的非日常が楽しめる安藤忠雄建築のホテル『瀬戸内リトリート青凪』

瀬戸内海の自然と一体になりそうなスイートルーム

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約3500平米の敷地内で、北西に開いて建つ2つの棟の部屋数はわずかに7。その内の本館5階に設けられた最上級のシグネチャールーム『THE AONAGIスイート』に足を踏み入れたとき、人の対応はおそらく、息を飲み込み無言となるか、または言葉にならない感嘆符が口を突くかのどちらかだろう。まずは、高さ8メートルの規格外のウィンドウ。その先に広がるのは、東京スカイツリーの展望台と同等の海抜500メートルから臨む穏やかな瀬戸内海。この構成はもはや借景の域を逸脱し、自分が海を見下ろす山、または風や光といった自然物になったような錯覚すら起こす。
しかも2階分の高さと広さを占領しながら基本はツインルームなのだ。
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▲青凪スイート(昼)親しい相手以外の誰にも邪魔されることなく、広大な窓の向こうで動いていく時間に身も心も預けられるこの様を何と形容すべきか? ホテルが選んだ言葉はリトリート。“退去・避難”といった意味を持つ英単語だが、ここを訪れる人は、もはや使い古されたラグジュアリーとされる場所からも迷うことなくポジティブに、この隔絶的空間にリトリートしてくるのだろう。

意味を問われるような空間

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瀬戸内リトリート青凪の前身は、1998年に建てられた大王製紙の接待向け接待客用宿泊施設兼美術館だった。設計したのは日本建築界の巨匠、安藤忠雄氏だ。5階建て本館と4階建て別館の2棟を有しながら、いずれも100平米を超える7つのスイートルームしかないのは、賓客に贅を尽く意図によるものだろう。それが一企業の私的建造物だったからか、この建物は安藤氏の全集に掲載されておらず、安藤ファンの間でも長く未知の存在だったらしい。
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2015年に改装されホテルに生まれ変わった瀬戸内リトリート青凪をどこまで説明すれば正しく紹介できるかは実に悩ましい。いずれにせよ泊まれる安藤建築というだけでも希少価値が高く、たとえば建築の観点だけでもこの空間設計の特別さは十二分に感じ取れる。
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元が美術館と言われれば納得できなくもないが、ホテルとしてはあまりにシンプルすぎる玄関をくぐると、打ちっぱなしの壁伝いに回廊が続き、明りの下に地元愛媛出身のアーティストが手掛けた心象風景的な庭が現れる。その右手には、出口と思しき場所に窓を備えた長方形のスペース。かつては壁に絵画を展示していたそうだが、その日は入り口から遠い場所に2脚の椅子が置かれていて、ひっそりとした空気が漂う空間の意味を問われているような心持ちになった。
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先に触れた『THE AONAGIスイート』を含み、全7部屋はいずれも海側に窓が設けられている。
別館の1階から4階まではいずれも温泉を引いた半露天風呂が備わり、中でも4階の『半露天スイート』は窓が開かない(他の部屋は広大な窓が電動で開閉可能)つくりなので、小さな子供がいる家族に人気が高いという。
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▲半露天スイート
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▲半露天スイート

ミシュランガイド掲載と国際アワード3冠

客室以外も規格外に満ちている。特筆すべきは2つのプールだろうか。一つは本館2階の屋外に設置された全長30メートルのインフィニティプール『THE BLUE』。ここは宿泊棟より西に向けられ、9月の初旬あたりはプールの先に沈んでいく夕日が見られるそうだ。
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▲THE BLUEもう一つは、『THE CAVE』と命名された本館地下1階の温水プール。貸し切り利用のプライベート制で、同じフロアには北欧から取り寄せた材を用いたサウナもある。
水回り関連には地元ブランドの今治タオルが具えられている。
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▲THE CAVE
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▲サウナ食事は、和食歴40年超の料理長による地元の豊かな食材をふんだんにつかった料理が楽しめる。夕食の名称は『瀬戸内旅懐石』。瀬戸内を代表する情景を一皿ずつ表現し、コースが終わる頃には瀬戸内をめぐる旅をしたような爽快感も味わってほしいという創作和懐石だ。ペアリングで用意されるお酒には、他ではあまり飲めない愛媛の日本酒のコースもある。
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▲瀬戸内旅懐石地下1階から地上1階の天井まで吹き抜けた、噴水が上がる池を目の前にしたメインダイニングで供された朝食もまた、地の旬を生かした和食セット。
それもまた、瀬戸内の食彩の鮮やかさに心が躍る内容だ。
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▲朝食このホテルの魅力として言えるのは、“静”と“動”のコントラストが存外に顕著ということだ。まず、建物自体に“静”が満ちている。それはとりもなおさず私的賓客をもてなすという安藤忠雄氏の設計コンセプトが今も寸分違わず生きている証だろう。サービスにおいても建物の品格を尊重する心掛けが感じられる。スタッフは完全に黒子。
食事等のシチュエーション以外でその姿を現すことはない。ラウンジのドリンクすら基本的にセルフサービスだ。
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ただし、客室内はもちろん全館を通じてアメニティの具えは充実という他にない。強いて挙げれば各部屋には、アルファ ロメオでも採用しているハーマンカードンのBluetoothスピーカーやダイソンのドライヤー、あるいは先に触れた今治タオルが然るべき場所に正しくセットされている。 そんな完璧な“静”が建物に宿っているからこそ体感できるのが、自然が見せる“動”だ。もちろん、元より穏やかな瀬戸内海に目を見張るような躍動はない。だが、冒頭で紹介した『THE AONAGIスイート』の昼と夕はどうだ。同じ空間にいながらもこの世界は、時間の経過によってまるで異なる表情をつくりだす。屋外のインフィニティプールも同様。遠くの海上に浮かぶのと同じ色の移ろいをその水面に映し出すのである。それらここにしかない“静”と“動”のコントラストに身を預ける贅沢を知る者だけがわざわざ訪れる。このホテルはそういう場所だと思えた。
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▲青凪スイート(夕暮れ)そうした瀬戸内リトリート青凪の特徴は、言うまでもなく断片的ではなく、安藤建築の中で絶えず連続・連携しながら展開している。それを証明する事例となるのが、数々の受賞経歴だ。2018年8月に発売された『ミシュランガイド広島・愛媛2018 特別版』では5パビリオンの最高級ホテルとして紹介された。さらに2019年は、『オートグランドール・グローバルホテルアワード』で7部門。『ワールドラグジュアリーホテルアワード2019』の『ラグジュアリースモールホテル』部門。『ブティックホテルアワード』の『インスパイアド・デザインホテル』部門といったいずれも権威ある国際ホテル業界アワードで受賞を果たした。
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それら海外で行われた授賞式に出席した総支配人の吉成太一氏は、意外なことを口にした。「ここまで決して順風満帆だったわけじゃないです」

掲げる目標は“日本で一番いいホテル”

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▲瀬戸内リトリート青凪 総支配人・吉成太一氏前職は栃木県の宿泊施設のレセプショニスト。さらにさかのぼればコンサルタントの経験を持つ吉成氏が瀬戸内リトリート青凪にやって来たのは、ホテル開業と同時の2015年だった。現総支配人が掲げる目標は“日本で一番いいホテル”。国際アワード3冠に輝いた実績を鑑みれば、もはやその地位を手に入れたも同然に思えるが、当人は自ら掲げた目標が漠としていることを前提に「まだまだ」と謙遜する。「そもそも私が現職に就いた経緯が異常でしたから、油断などできません」その経緯について吉成氏は、持ち前の論理的かつユニークな口調で語ってくれたが、吉成氏がもっとも大変だったと語ったのは、2017年の夏、この施設の特質からくる経営の難しさを理由に然るべき立場の人間が離脱したときだという。そのタイミングで吉成氏は総支配人に任命されたそうだ。
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「箱が首を絞めたんです。客室が7部屋しかない安藤建築による宿泊施設でしたから、最初から高級路線に向かうしかなった。それで以前は部屋を売ることに必死で、結局上手くいきませんでした。そんな中でも私は、瀬戸内リトリート青凪にしかないものにお客様が感動してくださっていることを知っていたので、改善すれば必ずチャンスは訪れると思っていたのです」
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密かに温めていたアイデアの数々を吉成氏は、総支配人となった権限で次々に実践していく。大きく分けると4つ。まずは、コスト高で敬遠していた地元の企業や生産者に対して各種イベントを主催し、新たな経営方針の理解を深めた。これは県内利用客の獲得に効果を発揮していく。瀬戸内周辺に向けた思いは、地元商品のホテルサービス積極導入や、地元企業とのオリジナル商品コラボ企画に結実する。施設が建つ場所との交流は、瀬戸内らしさを求めて訪れる宿泊客にも喜ばれるものへと発展していった。さらに2019年10月には、“岡山・香川で開催されている瀬戸内国際芸術祭を愛媛でも!”というスローガンのもと『瀬戸内リトリート青凪 文化音楽芸術祭』を開催。その名の通り、瀬戸内リトリート青凪がコミュニケーション拠点の役目を果たせる事実知らしめることとなった。
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▲瀬戸内ならではの商品や地元の企業とのコラボアイテムが並ぶホテルショップ二つ目は情報発信量を増やすメディア戦略。功を奏したのは、ユーチューバーのヒカキンを招き施設紹介を託した作戦だった。2018年3月に公開され注目を集めた動画がお忍び調査で有名なグルメアワードの目に留まったのか、その年の夏にミシュランの掲載が叶った。それを機に翌年は賞獲りを宣言し、積極的な活動によって3冠を手に入れたのが3つ目の方策だ。
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リトリートにふさわしい非日常的空間

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「もっとも大切なのはスタッフ。人です。育成に関しては私が主導し、マニュアル化でスピード感を重視しました。ホテルとして重要なおもてなし部分はカチカチとマニュアルで詰めて、イベントなど自由な発想に任せる部分はユルユルやっていいという二面性を共存させながら。イベントに関しては、この空間を利用したものならほとんどOKを出しました。すると自主性が育つんです。地産地消のマーケットとか、コーヒー好きがやるカフェやフェスなど、誰もがワクワクしながら企画を立てる。彼らをいかに働かせるかではなく、彼らが自らいかに働くか。その点を考えるホスピタリティにおいて私の客はスタッフです。しかもスタッフの9割は宿泊業経験ゼロ。地元の飲食店でスカウトした人間もいます。ミシュランを素人が回してるって、おもしろいでしょ」
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そう言って吉成氏は口角を緩めた。その笑顔には、総支配人に就任してから39カ月連続増収を果たしてきた自信が潜んでいるのだろう。では、日本で一番いいホテルになるための鍵とは何だろうか?
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「やはり人を第一にしたソフトで差別化を図ることです。ここの大きな特徴は建物というハードにありますが、それでも安藤建築だけではホテルとしての差別化はできません。私たちは部屋を売るという考えを捨てました。売るべきはハードを最大限活用した他のどこにもないソフト。それで圧倒的非日常を提供していきます」断っておくが、ホテルマンとして語ってくれた吉成氏の日常的努力は、館内のどこにも目に見える形で現れていない。なぜならそれは彼らによってリトリートにふさわしい非日常的空間と化しているからだ。そしてまた、日単位の時間軸で人間の感情をこれほど揺さぶる空間が整えられている場所も、少なくとも国内では稀有だと思った。建築という無機と自然という有機。あるいは“静”と“動”。その対比を楽しんでもらうため静謐さに徹底したサービス。瀬戸内リトリート青凪が誘うのは、非日常への甘美な避難である。
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Text:田村十七男Photos:大石隼土

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