バンタム級のWBAスーパー王座とIBF王座を持つ井上尚弥(27=大橋)は10月31日(日本時間11月1日)、アメリカ ネバダ州ラスベガス・MGMグランドのカンファレンスセンター(通称「ザ・バブル」)で防衛戦に臨み、WBA2位、IBF4位、WBO1位のジェイソン・マロニー(29=オーストラリア)を7回2分59秒KOで一蹴、両王座を守った。ボクシングの聖地・ラスベガスでの初戦ともなったプロデビュー20戦目、世界戦15戦目を完勝で飾った井上尚弥の強さをボクシングライター・原功氏に解説いただいた。

(文=原功、写真=Getty Images)

見えない敵をも一蹴し“モンスター”ぶりを証明した井上

モンスターはやはり強かった――。

6回に左フックでダウンを奪い、7回にカウンターの右を決めてフィニッシュするという鮮烈で印象的な勝利だった。ボクシングの聖地で完璧なKO勝ちを収めた井上の評価と注目度は今後、さらに上昇することは間違いない。

節目のプロ20戦目を迎え世界戦15連勝(13KO)を収めた井上を、あらためて彼が奪ったダウンの数などデータで見てみよう。

6回終了時点のジャッジ三者の採点が60対53、59対54(二者)だったことでも分かるように、最初から井上が主導権を握る展開だった。

特に光ったのが左ジャブだ。4年前に対戦して6回TKO負けを喫した河野公平氏は「井上選手の左ジャブは他の人の右ストレートに匹敵する強さがある。

右は(常人の)3倍」と評したが、その左が挑戦者の堅いガードを破って再三ヒット。マロニーの顔は初回から赤く色づいたほどだ。

これでペースを握って圧力をかける展開に持ち込むと、6回に相手の左ジャブに合わせた左フックで鮮やかなダウンを奪った。圧巻は7回のフィニッシュ・ブローだ。相手の右よりも一瞬早く繰り出した右のショートカウンター。井上は「抜けるような感じだった」と話している。

このパンチを放つ際、体重を乗せた腕だけがスッと伸びていった。井上の肩はまったく動いていない。マロニーは察知することさえできなかったはずだ。着弾部分は急所のテンプルよりも内側の左目付近だったが、マロニーは甚大なダメージを受け、レフェリーのカウントが進んでも立ち上がることができなかった。

これら2度のダウンを奪ったパンチは「マロニー戦用に練習してきたパンチ」(井上)だという。戦前、井上は「今回は珍しく相手のことを事前にチェックした」と話していたが、その分析能力と実行力にも恐れ入るばかりだ。

そんな井上だが、試合前は懸念がなかったわけではない。1年たって傷が癒えたとはいえ昨年11月のノニト・ドネア(フィリピン/アメリカ)戦では右目上にアマチュアとプロを通じて初の裂傷を負い、右眼窩底と鼻の右下を骨折してもいた。ダメージを受けた試合から1年のブランク、乾燥の激しいラスベガスでの最終調整、隔離状態のすえに迎える初の無観客試合、加えて相手のマロニーが総合力の高い選手と、楽観できない要素はいくつも存在したのである。そうした見えざる敵をも井上は完璧に退けたといえる。

「井上はスペシャル」「完璧なパフォーマンス」海外識者も称賛

井上対マロニーを放送したESPNのアナリスト、元世界2階級制覇王者のティモシー・ブラッドリー氏(アメリカ)は「彼のことはスペシャルとしか言えないよ。そう、スペシャルな男だよ。スピード、正確さ、カウンターの能力――それは誰もが持っているものじゃないんだ。

彼は異次元だね」と手放しの高評価を与えている。

同じくESPNのスティーブ・キム記者も「完璧な右カウンター。狂いのない正確なパフォーマンスだった」と評している。

今回の試合を主催し、無観客にもかかわらず井上に100万ドル(約1億500万円)の報酬を用意したトップランク社のボブ・アラム プロモーターは「この数年で見たなかでは彼がベストだ。ものすごくセンセーショナルな男だよ。巧みなフットワーク、スピード、バンタム級とは思えないパンチ力など若いころのマニー・パッキャオ(フィリピン)を思い出させたよ。

試合も良かったし、やはり井上はスペシャルだね」と、6階級制覇のスーパースターの名前を出して井上を称賛した。

体重の壁を越えたボクサーの強さ指数ともいうべき「パウンド・フォー・パウンド」で、井上はアメリカの老舗専門誌「リング・マガジン」ではサウル・カネロ・アルバレス(メキシコ)に次いで2位にランクされている。そのアルバレスが30歳、3位のテレンス・クロフォード(米国)と4位のオレクサンドル・ウシク(ウクライナ)が33歳、5位のエロール・スペンス(米国)が30歳。井上には彼らよりも多くの時間があるわけで、強敵を相手に今回のようなパフォーマンスを続けていけば近い将来、1位に躍り出る可能性は十分にある。

世界戦15試合で計29度のダウンを奪取

2012年10月に19歳でプロデビューした井上にとって、今回の試合は節目の20戦目でもあった。これで戦績は20戦全勝(17KO)。85%のKO率は軽量級では驚異的といえる。

しかも奪ったKOのうち15度は世界戦(15勝13KO)なのだから中身が濃い。

特筆すべきは20試合のうちデビュー4戦目の田口良一(ワタナベ=のちの世界王者)戦を除く19試合でダウンを奪っている点であろう。

倒れると同時にレフェリーが試合終了したものを含め、井上が19試合で奪ったダウンの総数は35度。世界戦に限定してみると、15試合で計29度のダウンを奪っている。

ライト・フライ級王者時代は2度の世界戦で計3度、スーパー・フライ級王者時代に奪ったダウンは8試合で計17度となっている。

4度のダウンを喫して2回KO負けでWBO世界スーパー・フライ級王座を失ったオマール・ナルバエス(アルゼンチン)など、試合後に「(井上は)グローブに何か入れているのではないか」と陣営が訝しみ、チェックさせてくれと申し入れた逸話が残っているほどだ。最初のダウンはガードした上から受けた右で後方に弾かれたのだから、その驚きは尋常ならざるものだったのだろう。

井上は2018年にバンタム級に転向してから5試合で計9度のダウンを奪っているが、減量苦から解放されたこともあってパワーが増した印象を受ける。奪ったダウンの内訳は、WBA王座を獲得したジェイミー・マクドネル(英国)戦=2度、初防衛戦のファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)戦=1度、IBF王座を獲得したエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)との統一戦=3度、WBAスーパー王者だったドネア戦=1度、そして先のマロニー戦=2度だ。

ちなみにマクドネルは34戦目、パヤノは22戦目、ロドリゲスは20戦目、マロニーは23戦目、いずれもプロキャリアで初のKO(TKO)負けだった。

興味深いのは倒したパンチの種類が多岐にわたっていることだ。

外側から大きく振り回した左フックもあれば、一瞬の踏み込みから打ち抜いた右もある。顔面への左フック、ボディを抉(えぐ)る左フックもある。

これは井上が、「ゴッドレフト」の異名で知られた山中慎介氏のように左ストレートに特化した強打者とは異なる万能型のハードパンチャーであることを物語っている。

それでいて防御も巧みだ。前述の河野氏は「こちらが打とうとしたときにはパンチが届く位置にいなかった」と証言している。アマチュア、プロを通じて自身がダウンしたことは一度もなく、ピンチらしいピンチと出血もドネア戦だけだ。27歳の若者はすでに「打たせずに打つ」ボクシングの極意をマスターしている感さえある。

強い左ジャブで崩しにかかり、パワフルな右ストレートや左フックをタイミングよくヒットしてフィニッシュに持ち込む井上のボクシングは、大きなビルの鉄骨部分のネジや溶接部を丁寧に外し、要所にダイナマイトを仕掛けて爆破する崩壊作業に似ているかもしれない。

破壊の方程式を数多く持っているうえ仕事はスマートで合理的、かつ効率的だ。そんな井上のボクシングにはサイエンス(科学)とバイオレンス(暴力)のほどよい融合が感じられる。

次戦は来年3月か? 注目の対戦相手はカシメロが有力

「モンスター」として世界的な知名度を上げつつある井上は今後、どんな路線を歩むのだろうか。マロニー戦後、井上は「ドネアとウバーリ(WBC王者のノルディーヌ・ウバーリ=フランス)の勝者、カシメロ(WBO王者のジョンリエル・カシメロ=フィリピン)、タイミングの合うほうと戦いたい」と希望を口にした。手元にないWBCのベルトかWBOのベルトに興味を示しているのだ。マロニー戦の2カ月前には「こういう(コロナ禍)状況なので4団体の王座統一の興味は少しうせた」と話していたが、実際に試合ができる状態になってみると4つのベルト収集に再び意欲が湧いてきたのだろう。

これを受けアラムプロモーターはアメリカのメディアのインタビューに「井上の次戦は来年の2月か3月になる。カシメロが準備できているなら彼と戦う可能性が高い」と明かしている。

もともと井上とカシメロは今年4月25日にラスベガスで3団体の王座統一戦を行う予定だったがコロナ禍のため延期になり、その後、いったん白紙に戻った経緯がある。9月にデューク・マイカー(ガーナ)を豪快な3回TKOで下しているカシメロは34戦30勝(21KO)4敗の3階級制覇王者で、井上に匹敵する爆発力を持っている。井上も「カシメロは一発で倒すパンチ力がある」と警戒の色を見せている。

ウバーリ対ドネアのWBCタイトルマッチは12月12日(日本時間13日)にアメリカで行われるが、もしもカシメロが井上戦を見送った場合はWBC王者との統一戦の可能性も出てくる。井上の弟の拓真に勝っているウバーリとの対戦でも、ドネアとの再戦でも、どちらでも話題性十分のカードといえる。

このほかWBAのレギュラー王座に君臨する究極の技巧派、ギジェルモ・リゴンドー(キューバ)、IBF1位で指名挑戦権を持つマイケル・ダスマリナス(フィリピン)も井上との対戦を希望していると伝えられる。

ただ、リゴンドーは6年ほど前にトップランク社と袂(たもと)を分かっており、同社が興味を示すかどうかは微妙だ。ダスマリナスは知名度不足が大きなネックになりそうだ。

井上の近未来を占うとしたら、来春にカシメロ戦、これをクリアしたらWBC王者(ウバーリかドネア)との4団体統一戦の可能性が高いといえる。

試合ごとにスケール感と注目度を増す「モンスター」。ラスベガスでスタートした井上尚弥の第2章からますます目が離せなくなってきた。

<了>