元SMAP全員が尊敬した、伝説のグループがいた。男闘呼組だ。

成田昭次高橋一也(現:和也)、岡本健一前田耕陽の4人は、少年隊光GENJIの人気の端境期に誕生したロックバンド。硬派で高い音楽スキルは、アイドルの概念を覆した。

 前身であるスケートボーイズをもとにSMAPが結成された88年、『DAYBREAK』でデビューすると、オリコン週間ランキングで初登場1位をゲット。その年の“白歌合戦”(NHK総合)に初出場して、スターへの階段を駆け上がった。そんな4人組のなかでも、特に岡本に強いあこがれを抱いていたのが、木村拓哉だ。

 かつて出演したテレビ番組では、「はてしなく一緒に遊んでもらった。
1週間のうち7日、少なくとも5日はごはんに誘ってくれた」と振り返ったことがある。元モデルの妻と離婚した現在は、愛息子のHey!Say!JUMP・岡本人と2人暮らし。その圭人でさえ父親のカッコ良さを自慢するほど、健一は20代から変わらずイイ男のようだ。

 木村がまだジャニーズJr.の一員として、先輩のバックダンサーを務めていたころ、「最近欲しい服とかないの?」と話しかけては、「今から行くから一緒に行こうぜ」とショッピングに連れだしてくれたのが、岡本だ。

 距離がいっそう縮まったのは、89年。男闘呼組が2回目の“紅白”出場をはたした年だ。
ジャニー喜多川社長は、岡本のセクシーで怪しげな雰囲気にかねてから惚れており、ジャニーズタレントで初めて外部の舞台に挑戦させた。大親友の演出家・蜷川幸雄(故人)さんが手がけた『唐版 滝の白糸』だった。そのあと、蜷川作品への出演チャンスを与えられたのが、弱冠17歳の木村。舞台『盲導犬』に抜てきされた。想像を絶する難役で、何度も心が折れながらも演じきったことで、この先も芸能界で生きていこうと決めた、木村の分岐点となった作品だ。

 同作で、木村の才能を確信した岡本は、3歳年下の後輩にいっそうシンパシーを抱いた。
ギターや洋服をあげては、しょっちゅう食事に誘った。木村の頭の先から足の先までが岡本のフルコーディネートという日も珍しくなかった。

 かつて、アイドル雑誌『明星』(現:Myojo)の取材でSMAPが初めて富士山に行った際、ロケ車で男闘呼組の楽曲がかかっていたという。また、初めてハワイに行ったときも、『DAYBREAK』をヘビロテで聴いていた。

 元SMAPにとってのアイドル、それが男闘呼組。SMAPと同じく、最後まで解散の真相が本人の口から語られなかったのは、単なる偶然か…。