平成が始まった1989年は、バラエティ番組も大きな転換期を迎えていた。昭和の名物番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)が、新時代の幕開けとともに終了。
そして、“お笑い第3世代”と呼ばれる芸人たちがテレビ界を牽引していった。

 “お笑い第3世代”は、とんねるずダウンタウンウッチャンナンチャンらが主な面々。中でも、1989(平成元)年からスタートした『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』(日本テレビ系)は、ダウンタウンの初冠番組としてその名を全国区に知らしめた。

 今でこそ、お笑い界の大御所の座に君臨しているダウンタウンだが、若いころは血気盛んだった。そのダウンタウンと“犬猿の仲”と言われた大物芸人たちとの“いざこざ”を振り返ってみたい。

 まずは、次世代のナインティナイン
同じ吉本興業の後輩に当たる。

 「かつて松本人志が自著でナイナイのことを『ダウンタウンのチンカス』『オレたちのパクリ』と名指しで批判し、“天然素材メンバー”はつまらないとキレていたそうだ。その後、岡村に遭遇した松本は『(岡村が)ビビッていた』と冷やかし、浜田は『ナイナイはダウンタウンのチンカスって言ってるから』と指摘したそうだ。『チンカス』発言が両者の関係を悪化させたと自覚している浜田だが、以降、岡村は萎縮してしまい、いまだに“ねじれ”は解消されていないようだ」(芸能関係者)

 次に、“辛口”で知られる爆笑問題太田光である。

 「アディダスジャージを愛用していた松本に“広告塔”と太田が揶揄し、後日『土下座するか、パイプ椅子で殴られるかどっちや!』と威圧したという。以降、両者は“共演NG”とされたが、『笑っていいとも!グランドフィナーレ』で共演を果たした。
ところがその後、生放送で松本との共演を提案された太田は、『勘弁してくださいよ。なんで俺がそんな目に遭わなきゃなんないの?』と嘆き『松本人志、嫌いなの?』とからかわれると『大っ嫌い』と即答。今回は、松本の“大人の対応”で惨事は免れたが、太田の“減らず口”は多く、他にも笑えないエピソードが盛りだくさんのようだ」(芸能ライター)

 後輩のみならず、明石家さんまのような大御所を怒らせた逸話もある。

 「フジテレビの『27時間テレビ』で総合司会を務めたさんまは、番組内の現場移動の際に『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』のスタジオに乗り込んだ。不眠不休で声が出ないさんまに、浜田は『何をしてますの?はよ、しゃべりなはれや!』と頭を叩き、驚きながらもさんまも応戦したようだ。疲労困憊の末、その場に座り込むが、浜田の罵声は止まらなかったという。
すると、さんまは『お前、先輩に対してなんちゅう口の利き方や!ええ加減にせえよ!』と激高。浜田は『ホント、すいません』と真顔で謝ったそうだ。それでも浜田は再びさんまに“ムチ”を打ち、レアな“コント”として笑いを誘った。しかし心底ご立腹のさんまに内心は怯えていたという」(番組関係者)

 さらには、長寿番組『笑っていいとも!』(同)で共演していたタモリともひと悶着があったようだ。

 「松本は自著で、せっかくボケているのに、必要以上に観客が騒いで分かりづらくなるのを嫌い、番組を降板したことを明かしているようだ。要は、タモリの仕切りの悪さを非難し、両者の間に確執があったと告白したのです。
番組降板後に松本は、『タモリさんはいつも(収録)ギリギリに入る自分のことがあまり好きじゃなかったんじゃないかな』と漏らしていたという」(番組関係者)

 第一線を走り続けるダウンタウンは、「平成」を制したお笑い芸人といっても過言ではないだろう。「令和」では、どんなスタンスの芸人が時代を席巻していくのか楽しみである。