<コラム>武漢にある日本国領事館跡を訪ねて

<コラム>武漢にある日本国領事館跡を訪ねて
武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)は中国の要(かなめ)の位置にある。北京と広州を結ぶ南北直線と上海と重慶を結ぶ東西直線の交差点がちょうど武漢である。(Record China)
武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)は中国の要(かなめ)の位置にある。北京と広州を結ぶ南北直線と上海と重慶を結ぶ東西直線の交差点がちょうど武漢である。長江の支流は武漢に集まり、南京から上海に流れる大長江となる。中国四千年の歴史の中、政治・軍事面で「中京事あれば武漢の地先ず乱る」とか「之(武漢)を得る者は興り、之を失う者は亡ぶ」といわれた様に、あの辛亥革命(1911年10月10日)は武昌蜂起を発端とする。遠く三国時代に呉王「孫権」が武昌に都を移したのは、ここを制する者が中華(天下)を制するという考えであったからだ。

【その他の写真】

アヘン戦争後の南京条約(1842年)によって、上海・寧波・福州・アモイ・広州の5港が開港、天津条約(1858年)により内部の南京・漢口・鎮江・蕪湖を含む10港が開港するに至り、漢口は対岸の武昌に比べ漁村に過ぎない地域だったが、その後80万人が居住する大都会へ変貌して行く事になった。

漢口租界地は、英国が1861年に当時の清国に対し半永久的に土地割譲を実施したのに始まる。その後、独国が1895年(日清戦争後の三国干渉のお礼として清国が提供)、仏国・露国が1896年に、最後に1896年日清通商航海条約後の1898年に日本専管租界地の開設に至った。

漢口日本人租界地は諸国に遅れた事もあり、独国租界地の北に沿った低湿地で荒地であった(地図1)。東は長江、西は京漢鉄道までの長方形の領域である。1906年(明治39年)当時、邦人数は660名、1914年(大正3年)には1380名となり、他の4カ国に比べても最も多い外国人であった。遅れて発展した事もあり、主要銀行や商社などは英国租界地にあった(最初の日本国領事館は仏国租界地に設立)が、多くの日本式建屋が建設された。現在、中央部を走る勝利街の両側に多くの日本人が住んでいた建屋が確認できる。この付近には郵便局・マッチ工場・西本願寺・漢口神社・日本人学校などがあった。漢口より1年早く開設された杭州・蘇州の日本人租界地跡に行っても、日本人が住んでいたと言う痕跡が見られないが、ここ漢口にはレンガ造りの建屋や日本家屋・軍官宿舎跡など多くが現存しており、当時の街の風景を想像できる(写真1)。居留民増加の背景には、1906年には日本郵船による神戸⇔漢口定期航路が開設されたのもある。

あわせて読みたい

レコードチャイナの記事をもっと見る

トピックス

今日の主要ニュース 国内の主要ニュース 海外の主要ニュース 芸能の主要ニュース スポーツの主要ニュース トレンドの主要ニュース おもしろの主要ニュース コラムの主要ニュース 特集・インタビューの主要ニュース

中国ニュースアクセスランキング

中国ランキングをもっと見る

コメントランキング

コメントランキングをもっと見る
2019年7月18日の中国記事

キーワード一覧

このカテゴリーについて

中国の政治、経済、外交、事件などをお届け中。

通知(Web Push)について

Web Pushは、エキサイトニュースを開いていない状態でも、事件事故などの速報ニュースや読まれている芸能トピックなど、関心の高い話題をお届けする機能です。 登録方法や通知を解除する方法はこちら。