<コラム>日中戦争のひとつの悲劇、蘇州“呉門橋”の悲話

<コラム>日中戦争のひとつの悲劇、蘇州“呉門橋”の悲話
蘇州城の南西角に盤門があるが、その南にある呉門橋については、日中戦争時の辛い歴史がある。呉門橋は宋代元豊7年(西暦1084年)に創建され、当初は「新橋」とか「三条橋」とか呼ばれた。(Record China)
蘇州城の南西角に盤門があるが、その南にある呉門橋については、日中戦争時の辛い歴史がある。呉門橋は宋代元豊7年(西暦1084年)に創建され、当初は「新橋」とか「三条橋」とか呼ばれた。盤門の南に位置し、「呉国」への入り口となったので「呉門橋」となった。明・清時代に改修され、同治11年(西暦1872年)に単孔橋となり現在に至っている。盤門路に入るには、この橋を通るしかない(写真1)。かの文豪谷崎潤一郎も蘇州訪問時は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城内に入ったと日記にある。

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国立北京女子高等師範大学の学長であった無錫人、楊蔭楡(1884~1938年)は、日本の東京高等師範学校に留学、帰国後アメリカコロンビア大学へも留学した才女でもあった(写真2)。魯迅との論争に破れ故郷蘇州で学校設立、その跡は城内東北部の藕園内に残る。折しも日中戦争の折、蘇州に駐屯した日本軍は彼女の住む新橋巷(盤門の北)で婦女子に対する暴行を行う。楊女史は巧みな日本語で抗議を行うが認められず、1938年1月1日呉門橋に逃れる途中で日本軍の銃弾により落命した。良妻賢母を基本とする保守的な思想家ではあったが、1924年12月に中国で初めて女性の国立大学長に任命された功績は大きい。

橋ではないが、同じような女性の悲しみが聞こえるのが、蘇州城北東門になる「斉門」である。斉門は呉王「闔閭」(紀元前 514~496年在位)が最初に作った水陸8門の一つである。闔閭は北国の「斉」との戦いで勝利を治め、斉景公の王女を闔閭の長男“波(終累)”(夫差の兄)と結婚させた。王女は半ば人質同然の待遇であった。しかも呉都「姑蘇」は田舎臭く、王女は日夜悲泣したという。闔閭は王女のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めたが、ついに病気になり亡くなった。この北門の事をその後「望斉門」ともいうようになった。

太子“波”はこの王女をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子“波”も病気になり、一年後に後を追うが如く夭折した。そのため、太子は次男の「夫差」となった。現在、その高楼はない(写真3)。

筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

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