実写邦画歴代1位の興収173億円超を記録した李相日監督「国宝」が香港で11月13日から上映が続けられている。「悪魔と取引してたんや」という衝撃的なせりふから読み解く「鬼滅の刃」との共鳴、「覇王別姫」から続くアジア映画の系譜、そして雪のラストシーンが示す芸による救済まで、数字を超えた現象を深読みする。
「国宝」の興行収入が実写邦画歴代1位に
第98回アカデミー賞の国際長編映画賞部門に向けて、世界86の国と地域から提出された候補作リストが11月21日に発表され、日本からは李相日監督「国宝」が公式エントリーとして名を連ねた。同作は国内で興行収入173億円超を記録し、実写邦画歴代1位に躍り出たばかりだが、香港で11月13日に「國寶(KOKUHO)」のタイトルで上映が始まったことで、中華圏でも注目を集め始めている。ここでは、オスカーや興行といった数字の話にとどまらず、「悪魔と取引してたんや」という背筋の凍る一言から、雪のラストシーン、さらには「鬼滅の刃」「さらば、わが愛/覇王別姫」「北京ヴァイオリン」との接点についても見ていきたい。
香港公開で中華圏にも存在アピール
まず事実関係から確認しておきたい。日本映画製作者連盟は申請9作品の中から「国宝」を第98回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表として選出したと発表した。
第98回アカデミー賞の国際長編映画賞部門に向けて、92の国と地域が出品した作品のうち、86本が審査対象作品としてリストアップされたことが11月21日に発表された。
その上で、2025年12月16日にショートリスト(上位15作品)、26年1月22日に最終ノミネート、同3月15日に授賞式が行われる予定だ。
一方、興行面では、日本公開から約半年で観客動員1200万人超、興収173億7739万円に達し、22年ぶりに実写邦画歴代1位の座を更新した。
そして11月13日、香港でも「國宝(Kokuho)」として一般公開が始まり、現地の興行チェーンや華文メディアは「歌舞伎の迫力と日本の血脈の物語」として大きく取り上げている。
興行収入と制作陣、数字を超える現象
作品そのものは、任侠一家に生まれた少年・喜久雄が、抗争で父を失い、歌舞伎の名門・花井半二郎に引き取られ、やがて「人間国宝」と呼ばれる女形へと上り詰めるまでの人間ドラマだ。原作は吉田修一の長編小説「国宝」で、17~18年に朝日新聞で連載された後に単行本化された。
メガホンを取ったのは「悪人」「怒り」に続いて吉田作品を手がける李相日監督で、脚本は奥寺佐渡子、歌舞伎指導には四代目中村鴈治郎が当たった。多くの名優を布陣に置き、およそ3時間の長尺に仕上げられている。
主演の吉沢亮と横浜流星は撮影前から長期の所作指導を受け、舞台シーンは基本的に吹き替えなしで撮影されたという。カメラはときに舞台全体を俯瞰で捉え、ときに目線や指先の震えをクローズアップで追い、観客に「舞台の客席から見た歌舞伎」と「舞台袖から覗き込む歌舞伎」の両方を体験させる構図になっている。
興行収入の実績や来年のオスカーに向けた話題が先行しているが、「歌舞伎の世界の残酷さ」と「そこに身を投じる人間の美しさ」について観客同士が語り合い続けていることが、リピーター客を続出させる現象を生む原動力となっている。
「悪魔と取引してたんや」が映す鬼滅的モチーフ
さて、映画の中盤に主人公の喜久雄が祇園の芸妓との間に生まれた幼い娘・綾乃を連れて小さな稲荷社に参拝するシーンがある。綾乃が「何お願いしたん?」と尋ねると、喜久雄はこう答える。
「神様と話してたんとちゃうで。悪魔と取引してたんや」
この一言は喜久雄が自らの人生をどう捉えているかを象徴的に示す。喜久雄は「日本一の歌舞伎役者にしてください。その代わり他のもんは何にもいりません」と心の中で悪魔に願ったと解釈されており、芸のために体も家庭も人間としての安らぎも差し出してきた自覚がにじむ。
ここで連想されるのが、「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」に登場する上弦の参・猗窩座だ。人間時代に圧倒的な強さを求めるあまり生きる意味を失った瞬間に鬼のラスボス、舞辻無惨の血を受け入れることで、人間性と引き換えに鬼としての力を得る。
「国宝」にはもちろんそんな超自然的なアイコンが登場することはない。しかし「芸のためなら人間としての幸福を捨てる」という認識は、「強さのために人間性を差し出した猗窩座」の構図と見事に重なる。悪魔(鬼)との取引というモチーフを介して、大衆的なアニメと文芸大作が静かに接続されているように見えてくる。
「覇王別姫」「北京ヴァイオリン」との共鳴
「国宝」を語る際、観客や批評家の間で繰り返し引き合いに出されるのが、中国語映画として初めてカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993年)だ。京劇の舞台に生きる2人の役者の半世紀を日中戦争から文化大革命に至る激動の中国現代史と共に描いた傑作だ。
李相日監督自身、上海国際映画祭での舞台あいさつで、学生時代にチェン・カイコー(陳凱歌)監督の「覇王別姫」を見て衝撃を受け、「いつかこんな映画を撮りたい」という思いが「国宝」につながったと語っている。
一方で、「国宝」にはもう一つの鏡があると考えられる。「さらば、わが愛/覇王別姫」を手がけたチェン・カイコー監督の「北京ヴァイオリン」(2002年)だ。中国北部の田舎町で暮らすバイオリンの天才奏者である少年と、その父が北京へ上京し、一流の教師と音楽学校の門をたたく物語だ。
「芸によって這い上がろうとする主人公」と「その才能に自分の人生を賭ける大人」が直面するのは、コンクールや家柄がものをいうエリート芸術教育という大きな壁だ。そこからは「血か、芸か」という「国宝」で描かれる対立軸をほうふつとさせる。親が信じる「成功」と子どもが感じる「幸福」のズレが「北京ヴァイオリン」の核心として存在しており、「国宝」についても芸と親子・血統という切り口で見ると、また新たな世界が見えてくるのではないだろうか。
雪のラストシーンと「見たい景色」
「国宝」のラストシーンで、誰もいない客席に紙吹雪=雪が舞い、主人公の喜久雄が天を見上げて「きれいやなぁ」とつぶやく光景が映し出される。これは多くのレビューで作品理解の鍵として取り上げられているものだ。
幼い喜久雄は、長崎では珍しい雪の日に、任侠の父が抗争で殺される場面を目撃する。血に染まった雪景色は、喜久雄にとって原風景でありトラウマでもある。
物語では人間国宝となった喜久雄を取材するリポーターから「なぜこの仕事を続けるのか」と問われ、「見たい景色がある」と答える。
「国宝」で重要なのは、かつては父の血で染まった呪いの雪景色が、芸を極めた果てには純粋な「美」として見直されている点だ。出自の呪いと復讐心から出発した人生が、芸によって別の意味に書き換えられる。その変換と昇華こそが「芸で復讐しろ」と言われた少年が国宝に至るまで歩き続けた理由であり、雪のラストはその到達点を静かに示す表現なのだと理解できそうだ。映画全体を一つの歌舞伎の演目に見立てるなら、現実と虚構、生と死、血の赤と雪の白が溶け合う「引き幕」のような瞬間だ。(提供/邦人NAVI-WeChat公式アカウント・編集/耕雲)











