『リボルバー』の物語は、修羅場とイルミネーションが交錯したある夜から始まった。
「俺たち、LSDを盛られちまった」とジョン・レノンはジョージ・ハリスンに言った。
1965年の春のことだった。レノンと妻のシンシア、そしてハリスンと妻のパティ・ボイドの4人は、歯科医師ジョン・ライリーとガールフレンドのシンディ・ベリーと共にロンドンにあるライリーの家へディナーに招待された。食事を終えて帰ろうとする4人をライリーが引き留め、食後のコーヒーをしきりにすすめた。彼らがカップを空けて間もなくライリーは、角砂糖にLSDが仕込んであったことをレノンに告げた。「俺たちに何てことをしてくれたんだ!?」とレノンは怒り狂った。レノンも多少は薬物に対する知識があった。それはサイケデリックと呼ばれる幻覚剤で、思考、感情、視覚を狂わせ、周囲の人間に恐怖を与える。心理学者のティモシー・リアリーが、幻覚剤による実験的治療を実施したことで1963年にハーバード大学を解雇された話は有名である。
「私たちの部屋がみるみるうちに大きくなっていって、まるで私たち全員が突然ホラー映画の中に入り込んだ感じだったわ」とシンシア・レノンは語った。ザ・ビートルズのレノン、ハリスンと彼らの妻たちは、ハリスンの運転するミニクーパーでライリーの家を飛び出した(ベリーによるとジョンとジョージは、自分たちが知らなかったことにして薬物を投与して欲しいようなことを事前にほのめかしていたという)。レノン夫妻とハリスン夫妻はレスタースクエアのアド・リブ・クラブへ辿り着いた。
4人はその後、ロンドン郊外のイーシャーにあるハリスンの家に帰り着いた。ジョンは後に語っている。「怖かったけど気持ちよかった。ジョージの家がまるで大きな潜水艦のように思えた。
このアニメの中で、ジョン・レノンは初めてのLSD体験について言及している。
それからしばらく、その夜の出来事は伏せられていた。1964年2月、ニューヨークでエド・サリヴァン・ショーに出演して以降、バンドは世界で最も有名なセレブとなった。しかし、多くの若者を長髪にさせるほどの影響力を持ちながら、それまでのところ論争に巻き込まれるのをかろうじて避けてきた。1964年8月にホテルの一室でボブ・ディランにすすめられたのをきっかけに、ビートルズのメンバーたちは常習的に大麻を吸っていた。1965年にリリースされたアルバム『ラバー・ソウル(原題:Rubber Soul)』は、レノンが"pot album(大麻のアルバム)"と呼ぶほど大麻の影響が色濃く、より内向的で幻想的な作品となった。一方で幻覚剤は、バンドのサウンド、方向性や立ち位置、歴史的に見た影響力など、ビートルズのすべてを変えてしまった。
幻覚剤の初体験では懲りず、レノンとハリスンはまた幻覚剤をやろうと決めた。しかも今度はバンドのメンバーも誘うことにした。1965年の夏、北米ツアーの合間に5日間のオフをもらうことができ、ビバリーヒルズにある女優ザ・ザ・ガボールの家を借りた。「ジョンと俺の間では"ポールとリンゴにもやらせなきゃな"ってことになったんだ。幻覚剤が俺たちをまるっきり変えちまったせいで、彼らとしっくり行かなくなってたんだ。あらゆる面でね。とにかく説明できないものすごい体験だった。どんな感じでどう思うかは実際に経験してみないとわからないから。ジョンと俺には影響が大きかった」とハリスンは言った。リンゴ・スターがまず彼らに加わった。「俺は何でも試してみるつもりだった。素晴らしい日だった。
マッカートニーは誘いに乗らなかった。「(幻覚剤をやってしまうと)もう同じではいられなくなるって聞いてたからね。人生を変えてしまって、それまでとは同じようには考えられない。ジョンはむしろその変化に期待していた。俺は、もう元の自分に戻れなくなるかもしれないって思うと怖くなった。俺は、何というか・・・足がすくんだんだ。周りの目が厳しかったしね」と『ザ・ビートルズ・アンソロジー(原題:The Beatles Anthology)』で語っている。レノンとハリスンは、このマッカートニーの拒絶を忘れなかったことだろう。
マッカートニーの見解は正しかった。
レノンもフォンダのこの一件を耳にしていて、数年後に振り返っている。「フォンダは"俺は死ぬっていうのがどういう感じか知っているぜ"と繰り返していた。しかも小声で。
繰り返し聞かされたフォンダの言葉はレノンの頭にこびりついていた。その言葉はレノンを震え上がらせただけでなく、決断力にも問題を残した。
その頃すでにビートルズは、リスクも冒しながら音楽的に変化しつつあった。ビートルズのユニークなコード進行やエッジの効いたメロディライン、さらに自分たちで作詞・作曲する姿勢は、ザ・ローリング・ストーンズ、バーズ、ザ・ビーチ・ボーイズをはじめとするイギリスやアメリカの多くのバンドに影響を与えていた。ところがレノンだけは、優等生でいなければならないビートルズとは違い、不良のイメージでダーティな曲を作ることの許されるストーンズを羨んでいた。しかしビートルズが最も気にしていたのは、ボブ・ディランの方だった。ディランのフォークからロックへの転換、特に『ライク・ア・ローリング・ストーン(原題:Like a Rolling Stone)』は素晴らしく、ディランのシュールな意識の流れのイメージは幻覚剤の作用ではないか、とまで言われていた。1965年12月、ビートルズは『ラバー・ソウル』をリリースした。本作でバンドがアーティストとして一段と成長した、と評価されている。マッカートニーは彼の曲作りのスタイルを深めていった。『ドライヴ・マイ・カー(原題:Drive My Car)』は明るくウィットに富んだ曲で、『ユー・ウォント・シー・ミー(原題:You Wont See Me)』と『君はいずこへ(原題:Im Looking Through You)』は、ディランの辛辣な曲のように攻撃的な内容だった。一方でレノンの曲はがらりと変わった。『ひとりぼっちのあいつ(原題:Nowhere Man)』と『ガール(原題:Girl)』では弱々しさも見せている。『ノルウェーの森(原題:Norwegian Wood (This Bird Has Flown))』は執念が感じられる内容で、音楽的にはポピュラー音楽にシタールを初めて採用するなど、ユニークな楽曲になっている。
マッカートニーは当時、競争が激しくなってきていることを認識しており、ビートルズをクリエイティブの最先端にいられるように努力していた。幻覚剤には飛びつかなかったものの、マッカートニーはビートルズの中で最も革新的なメンバーだった。「ほかのメンバーはみんな結婚して郊外に住んでいた。僕に言わせればみんな保守的だったね」というマッカートニーはロンドンに住み続け、最新のポピュラー音楽だけでなく、アバンギャルドなアートや革新的な政治、哲学などにも視野を広げていた。マッカートニーは、バートランド・ラッセルの影響で反ベトナム戦争の立場を取るようになった。それに続きマッカートニーを通じて影響されたレノンは、アメリカのベトナム政策を批判するようになったという。
マッカートニーは、クラシック音楽の作曲家による画期的な電子音楽や、カールハインツ・シュトックハウゼン、ルチアーノ・ベリオ、エドガー・ヴァレーズなどの現代音楽家、フリージャズのサックス奏者アルバート・アイラーに興味を惹かれた。「これまで知らなかったあらゆるものを詰め込みたいんだ。人間は言葉を発し、絵を描き、文章を書き、曲を作る素晴らしい生き物さ。だから僕はほかのみんながどんな風にやっているのか全部知りたいんだ」とマッカートニーは語った。1966年初頭、マッカートニーと当時のガールフレンド、ジェーン・アッシャーは、彼女の兄ピーター・アッシャーと彼の仲間ジョン・ダンバーやバリー・マイルズによるインディカ・ブックス&ギャラリーの立ち上げを支援した。ここはカウンターカルチャーの中心地のひとつだった。マッカートニーはこのショップの最初の顧客となった。彼は夜になると新しい本をじっくり読み、興味を持った本はほかのメンバーにも届けさせた。
1966年4月、マッカートニーはレノンをインディカへ連れて行った。レノンはここで『チベットの死者の書―サイケデリック・バージョン(原題:The Psychedelic Experience: A Manual Based on the Tibetan Book of the Dead)』(ティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパート著)と出会った。この本の著者たちは、幻覚剤を使った医療の可能性と、潜在的な神秘性を持つものとしての両面から幻覚剤を研究した。8世紀の仏教の書を基に、幻覚剤による"自我の喪失"体験や、ドラッグから覚めた後の自我の再生について解説している。「過去の自分に対するいつくしみに執着してはいけない。昔の自分の信念を呼び起こそうと思っても、その時にはもうその信念を持ち続ける力はない。自分の直感や知力を信じ、仲間を信じなさい。疑念が浮かんだら心を無にし、リラックスして流れに身を任せなさい」という一節がある。レノンはショップでこの本を読みきり、ドラッグが彼に及ぼす影響を理解するための理論を習得した。
それから数日後レノンは、メンバーやプロデューサーのジョージ・マーティンらに新しい曲を披露した。『Mark 1(マルコによる福音書第1章の意)』と名付けられたこの曲は、後に『トゥモロー・ネバー・ノウズ(原題:Tomorrow Never Knows)』となった。曲は、「心を無にし リラックスして流れに身を任せなさい/怖くない これは終わりではない/邪念を捨て 無の境地に/明るく輝く 光が見える」と始まる。「よく聴いてみればわかると思うけれど、曲のコードは全部Cの1コードで構成されていた」と、マッカートニーは作家のハンター・デイヴィスに語っている。
この曲を作る際レノンはプロデューサーのマーティンに、「たくさんの僧侶がお経を唱えているようなイメージで」と伝えている。しかしビートルズの新しいエンジニアとなったジェフ・エメリックは、レノンのヴォーカルをレスリー・スピーカーに通し、エコーの効いた独特のサウンドを作り出した。レノンはトランス状態で、「天井から自分を吊るしてぐるぐる回りながら歌ったら、もっと面白い音が録れるのではないか」と言い出した(もちろん上手くいかなかったが)。当時はまだインド音楽に精通していなかったハリスンが、タンブラ(ドローン楽器のひとつ)を加え、うねるような独特なハーモニーを生み出した。さらにマッカートニーは、神が降臨してきた時のようなサウンドを思いついた。シュトックハウゼンの音楽にインスパイアされたマッカートニーは、ある日スタジオに前夜作ったという山ほどのテープループ素材を持ち込んだ。そこにはギターチューニング中の音や、悲痛な叫びのような声などが録音されていた。マーティンは、それらを逆再生させたりしながら音の素材を作った。アビー・ロード・スタジオでは、複数台用意したテープマシンそれぞれをEMIの社員に操作させ、それらを同時に再生させることで特徴的なおどろおどろしいサウンドに仕上げた。そうして寄せ集めで作った音源を、「夢の色を聴け/これは現実ではない 現実ではない」と歌うレノンのヴォーカルの裏で流した。
ビートルズの作り出した輪廻のイメージは不気味で、LSDによる幻覚症状を説得力のある形で再現していた。グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ドアーズ、ピンク・フロイドなどほかのバンドは、自らの精神状態をそのまま音楽に表現しようとしたため、インプロヴァイゼーションによるフレーズが延々と続いた。それに対しビートルズは、計算し尽くしたサウンドを作り出していた。リンゴ・スターは言う。「酔っていたりトランス状態でプレイしてもロクな音にならないってことは、俺たちは元々わかっていたんだ。だから俺たちはあらかじめトリップ経験をして、覚めてからその経験を音楽に取り入れたのさ」。
『トゥモロー・ネバー・ノウズ』はアルバム『リボルバー』の方向性を決定づける曲となった。ビートルズは新たな道を見出すことができたのである。そして4月6日~6月22日の11週間、それまでビートルズがひとつのアルバム制作にかけたことのない連続最長期間で、新たに見出したユニークなスタイルによるレコーディングを行った。「俺はただ眠っているだけさ(Im Only Sleeping)」という歌うレノンのヴォーカルに絡むハリスンのバッキングギターのフレーズは、当時のポピュラー音楽にはない斬新なアプローチだった。同時にビートルズのサウンドは、レベルの高いプロの技にも支えられていた。例えば、マッカートニーによるモータウンの影響を受けたサウンドの大麻讃歌『ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ(原題:Got to Get You Into My Life)』や失恋の悲しみを歌った『フォー・ノー・ワン(原題:For No One)』(1965年~66年の間にマッカートニーが作った、ジェーン・アッシャーとの恋愛トラブルをテーマにした曲のひとつ)では、印象に残るフレンチホルンのソロプレイが聴けるが、それはBBC交響楽団のアラン・シヴィルによるものだった。
それまで曲作りにはほとんど関わらなかったハリスンだが、アルバム『リボルバー』ではそのセンスを存分に発揮した。鉄壁でかつ年上のレノン&マッカートニー・コンビと肩を並べて仕事することは、大きなプレッシャーだった。メロディも歌詞も貧弱だと見なされて、ハリスンからの提案が採用されることはほとんどなかった。ところが映画『ヘルプ!4人はアイドル(原題:Help!)』の撮影でインドを訪れていた1965年、ハリスンは地元のスタジオミュージシャンたちが『ハード・デイズ・ナイト(原題:A Hard Days Night)』を演奏するのを聴いた。それがハリスンとシタールとの初めての出会いだった。ハリスンはすぐさまシタールを手にとった。大きくて抱えにくく、ギターと似たようなフレットに21本の弦が張られ、半音よりも細かい微分音も使って演奏する。ハリスンはシタールにのめり込んだ。ビートルズの1965年夏のツアー中、バーズのデヴィッド・クロスビーとマッギンが、レコーディング中だったシタールの第一人者ラヴィ・シャンカールのもとへハリスンを連れて行った。ハリスンはロンドンで安物のシタールを購入し、レノンのアイディアに従いアルバム『ラバー・ソウル』に収録された『ノルウェーの森』でシタールを演奏した。シタールの響きはロックンロールのサウンドとうまく調和した。その後さまざまなバンドがシタールを使い始め、ストーンズは1966年5月にリリースされた『黒く塗れ!(Paint It, Black)』でシタールを使った。

シーク教徒の師範からシタールの教えを受けるビートルズのジョージ・ハリスンとそれを真剣な面持ちで見守るメンバーたち(Bettmann / Getty Images)
シタールの奏法を習得しインド音楽をよく理解したハリスンは、ビートルズの中で新たなポジションを獲得した。ほかのメンバーたちは、ハリスンが作った初のインド音楽をベースにした楽曲『ラヴ・ユー・トゥー(原題:Love You To)』をさほど重要視していなかった。一方でハリスンは、ロンドンのアジアン・ミュージック・サークル(AMC)からインド人の演奏家たちをレコーディングに招いた。曲自体はヒンドゥー教の信仰と直接関係がなく、一日中セックスすることを煽るような内容で、ハリスン独特の皮肉っぽさも感じられる。「周りにいる誰かが/お前を押し倒し/やがて、奴らはお前をあらゆる罪で満たすだろう」。それから間もなくハリスンはヒンドゥー教に傾倒し、その後の人生を熱心な信者として信仰を続けることとなる。仏教の要素を採り入れたレノンの『トゥモロー・ネバー・ノウズ』とハリスンが新たに持ち込んだインド文化が、2人の間の相乗効果を発揮し、アルバム『リボルバー』に哲学的な新風を吹き込んだ。
アルバム制作以外でのレノンとハリスンの共通点は、もちろんLSDだった。「LSDを一緒にやった後の俺たちは、何だか面白い関係になったよ。多くの時間を一緒に過ごすようになり、ほかのメンバーの誰よりも親密になった。彼が死ぬまで。ヨーコが絡んできてからはジョンとなかなか個人的に一緒の時間を過ごすことはなくなったけどね。でも時折彼と目が合うと、俺たちはつながっているんだ、と思えたよ」とハリスンは後に語っている。
2人の関係は、『リボルバー』の最後のレコーディングセッションにも何らかの影響を与えたかもしれない。バンドは、アルバム用にあと2、3曲欲しいと考えていた。そこでマッカートニーは、いつものように美しい曲『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア(原題:Here, There and Everywhere)』を提供した。一方レノンは怒りと不安に満ち、恐らくアルバム中で最もパワフルな『シー・セッド・シー・セッド(原題:She Said She Said)』を作った。この曲は、ロサンゼルスでの(ヘンリー)フォンダとの印象的な出会いのエピソードをテーマにしている。「"死ぬっていうのがどういう感じか知っているわ"と彼女は言う/私は悲しみもよく知っている/君が何を知っていようが/俺はいつでもこの世を去る準備はできている/なぜなら君は俺がまるでこの世に存在していないんじゃないかって気にさせるから」。
『シー・セッド・シー・セッド』のセッション中、マッカートニーの出したアイディアをレノンが拒絶した。「ビートルズがレコーディングした曲の中で、あれが唯一僕が演奏していない曲さ。メンバーと口げんかになって"いいさ、好きにしろよ"って言ったらみんなは"俺たちでできるよ"って。僕の代わりにジョージがベースを弾いたんじゃないかな」と、マッカートニーは90年代になって(ポールのオフィシャル・バイオグラフィーの著者)バリー・マイルズに語っている。恐らく、この曲のテーマとなったLSDによるトリップにポールだけが参加していなかったため、ポールに強い発言権がなかったのではないかと思われる。これは、その後ポールとほかの3人が裁判所で対峙することとなる決定的なバンド内の亀裂を予感させるような出来事だった。メンバー同士のいさかいはよくあり、特にレノンは酷かった。「ポール以外の3人は"俺たちは(LSDを)やるけど、お前はどうせやらないんだろ"って感じでちょっと頭がおかしかったから、ポールは完全に蚊帳の外だった。LSDは彼にとってよっぽどショッキングだったんだろうね」とレノンは語った。
マッカートニーはその年(1966年)の内に、ビートルズのメンバー以外と初めてLSDを経験している。1967年のインタビューでマッカートニーは、「神は本当に存在するんだって思えたよ。錠剤の中に神は宿ってないなんてことはわかっているけれど、LSDは生命のミステリーを解き明かしてくれた。本当に神秘的な体験だった」と明かした。さらに「僕たちのやることすべてに道筋を付けてくれた気がする。ものの見方ががらりと変わって、それまでたくさんあると思っていた未開の地なんて実際にはそんなに多くはないんだ、と思いはじめた。障壁なんて打ち破れるものだ、と感じられるようになったんだ」と、LSDの作用について語っている。
それから数ヶ月の間、ビートルズのメンバーはLSDを断つことを誓ったと思われる。しかしLSDに依存し、たびたび他人に心配される状態になるまで摂取していたレノンは、誓いの言葉を守るような人間ではなかった。「彼がいったいどれだけLSDをやっていたかわからない」とハリスンは証言している。1968年のある日、前の晩にLSDをきめたレノンは、「俺は啓示を受けた。キリストが現れ、地球へ戻ってきたことをメディアに発表して欲しいと言った」とアップル・レコードに親しい友人を集めて告げた。
『リボルバー』のレコーディングとミキシングが完了してから2日後、夏のワールドツアーに出発した。ドイツで彼らはアルバムの完成盤を聴いた。マッカートニーは、すべてが調子はずれではないかと一抹の不安を覚えた。メンバーの中で最もよい耳を持つマッカートニーが不安に思ったとしても、ビートルズには、それまで前例のないことを達成し続けてきたという実績があった。
ツアーは初めから期待はずれなものだった。それまでの3ヶ月間、メンバーはステージでは再現できないアルバム用の音楽を制作し続けていた。そこでツアーでは、作った曲とは大きくかけ離れた古い曲を演奏せざるを得なかった。さらに悪いことにフィリピンのマニラで、マネージャーのブライアン・エプスタインがファーストレディのイメルダ・マルコスからの招待を断ってしまった。バンドは大統領官邸でのガーデンパーティに招かれていた。これを聞いたフィリピン国民からのビートルズに対する批判の声が猛烈に高まったため、バンドはフィリピンからの脱出を余儀なくされた。ロンドンへ戻った後の記者会見でバンドのメンバーたちは、ひどく動揺しているように見えた。「アメリカを熱狂させる数週間後には俺たちは元気になっているさ」とハリスンは述べた。
このハリスンのコメントは、その後バンドに降りかかる出来事を悪い意味で言い当てている。数ヶ月前の1966年3月、バンドがアルバム『リボルバー』のレコーディングに入る直前、ロンドンのイブニング・スタンダード紙の記者モーリーン・クリーヴがメンバーの個別インタビュー記事を書いた。マッカートニーはこの機会を逃さなかった。「アメリカは、"肌の黒い人間はみんな汚らわしいニガーだ"と決めつける嫌な国さ。男はショートヘア、女はロングヘアでなければならない、というように偏った人生の原理原則でしつけられて育っている。僕たちがそんなつまらない慣習を破ってあげよう」と発言した。しかし、同じくクリーヴとのインタビューに答えたレノンの発言の方が、今なお語り継がれる有名なものとなった。「キリスト教は消え行く。衰退し、消滅するだろう。それについて議論の余地はない。そのうち俺のこの発言が正しかったとわかるだろう。今やビートルズはキリストよりも人気がある。ロックンロールとキリスト教のどっちが先になくなるかはわからないけどね。キリストは偉大だった。でもその弟子たちが頭のよくない凡人だった。俺に言わせれば彼らがキリスト教を歪め、堕落させたんだ。」
アメリカでのサマーツアー初日を2週間後に控えた1966年7月29日、クリーヴとのインタビューにおけるマッカートニーのアメリカ評とレノンのキリストに対するコメントが引用され、あるアメリカのティーン向け雑誌の表紙を飾った。マッカートニーの発言にはたいしたリアクションは起こらなかったが、レノンの発言は大騒動を巻き起こした。特に南部での反発は強く、複数のラジオ局がビートルズの曲を流すことをやめ、さらにビートルズのレコードを燃やすなどした。バンドは殺害予告まで受け取っている。8月12日にシカゴで行われた記者会見でレノンは、震えるような声で謝罪の言葉を口にした。「僕は神やキリストや宗教を否定しているわけではありません。キリスト教を批判しようとしたのではありません。また我々の方が(キリストより)偉大だとか優れているとか言おうとしたわけでもありません。僕は客観的な立場から見た存在として、"ビートルズ"という言葉を使ったのです」。後にレノンは語っている。「俺たちのレコードが燃やされていると聞いて、本当にショックだったよ。この世界に憎しみの火種を作ってしまった、と思わざるを得なかった。だから謝罪したんだ」。
この論争は間違いなくアルバム『リボルバー』の売上記録に影響した。『リボルバー』はアメリカでは8月8日にリリースされナンバー1を獲得したものの、レノンの発言に対する大論争の方が、彼らのニューアルバムよりも注目を集めた。ビートルズのアメリカ側のレーベルだったキャピトル・レコードもまた、『リボルバー』のアルバム全体としての音楽的な整合性を重視せず、オリジナル盤から『アイム・オンリー・スリーピング』、『アンド・ユア・バード・キャン・シング』、『ドクター・ロバート』をカットした。この3曲は、1966年6月中旬にリリースされたアルバム『イエスタデイ・アンド・トゥデイ(原題:Yesterday and Today)』に収録された。このような編集盤のリリースはアメリカ側では日常的に行われ、アルバムに含まれる曲や曲順がイギリス盤と大きく異なることがたびたびあった。ビートルズはキャピトル・レコードのこのような干渉に反発し、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(原題:Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band)』からは、大西洋を挟んだイギリスとアメリカで同じバージョンのアルバムがリリースされるようになった。
キャピトル・レコードは、『イエロー・サブマリン(原題:Yellow Submarine)』と『エリナー・リグビー(原題:Eleanor Rigby)』をカップリングし、シングル盤としてリリースした。子供向けの曲としてリリースされた『イエロー・サブマリン』だったが、次第に反戦デモやさまざまな抗議活動に集まる人々の理想を代弁する曲として認知されるようになり、第2位にランクインした(訳註:ビルボード誌順位)。『エリナー・リグビー』は最高11位だった(訳註:ビルボード誌順位)。どちらの曲もナンバー1を逃したが、それはビートルズの音楽性の変化によるものかもしれないし、レノンの発言の影響によるものかもしれない。それでも2曲とも数週間はラジオのトップ40にランクインし続けた。『エリナー・リグビー』の場合は予想を覆すヒットだったかもしれない。この曲は、愛する人も身寄りもなくぼんやりと暮らす孤独な女性と、"誰も寄りつかない"へんぴな場所で誰も聴かない説教をするマッケンジー神父の2人の物語を描いている。物語の最後にエリナーは教会で亡くなり、マッケンジー神父が彼女を埋葬する。「墓から戻る途中で手についた泥をこすり落とす/誰も救われなかった」という最後の歌詞は、ビートルズの曲だけでなくすべてのポピュラー音楽の中でも最もはっとさせられる表現で、ビートルズはクラシカルな弦楽八重奏に乗せて人々の心に印象づけた。『エリナー・リグビー』で描いた物語は、レノンのかつての発言に共通するものがある。「キリスト教を信仰したってたいして癒やされない。結局最後には、孤独な人間や信仰深い人間に救いなんてないんだから。誰もが墓に入り、二度と戻らない。ビートルズ批評家たちの批判もあの世行きさ」。
レノンの宗教発言問題、彼らの楽曲のライブにおける再現性の限界、彼らの一挙手一投足に付きまとう怒りと拍手喝采、それらすべてがその夏のビートルズに降りかかった。危険も間近に感じた。ビートルズのコンサートを控えたメンフィスでは、ローブをまとった秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーのひとりが地元局のインタビューに答え、「我々は有名なテロ集団である。我々には必要とあればコンサートを止めるいかなる方法も手段もある。彼らが会場に現れる月曜の夜には多くのサプライズがあるだろう」とバンドを脅迫した。またその頃ビートルズは、公の場でのパフォーマンスも限界に近づいていると感じていたようだった。ツアーももはや何の楽しみも感じられなかった。1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークでツアーのファイナルを迎え、これがバンドとしての最後のコンサートとなった。イギリスへの空路、ハリスンは「オッケー、これでおしまい。もうビートルズのメンバーではないよ」と告げた。
それから数ヶ月経った1967年1月、マッカートニーのインタビューがバンド解散の可能性を決定づけた。「僕たちは全員、大人になりきれず子供のままだった。だからいくつもの過ちを犯した。僕たちは機械に育てられた訳じゃない。最初から完全に別々の道を歩むこともできた。それが今ようやく、それぞれの道へ歩み出す準備ができたんだ。お互いまた一緒にやりたいって気持ちになったら、やるかもしれない。だけど今、僕はもうマッシュルームカットの4人組のひとりではなくなった」。
このマッカートニーのコメントは、ひとつの策略だった。ビートルズはこの時すでにニューアルバムのレコーディングに入っていた。ただ、メンバーはかつてのような関係でなくなっていたことは事実だった。『リボルバー』での厳しい試練を経験したことで、メンバーは新たな自分と新しい目標を見出すことができた。アメリカツアーを終えてから数ヶ月の間に、マッカートニーはサウンドトラック『ふたりだけの窓(原題:The Family Way)』を制作し、ハリスンはインドで6ヶ月間を家族と過ごした。ハリスンはそこでシタールの第一人者ラヴィ・シャンカールからシタールを学び、ヒンドゥー教の信仰をさらに深めた。リンゴ・スターはスペインのレノンの家に滞在した。レノンが出演した反戦映画『ジョン・レノンの僕の戦争(原題:How I Won the War)』は、この時スペインでも撮影された。この映画の監督は、『ヘルプ!4人はアイドル』と同じリチャード・レスターだった。レノンは、映画撮影は退屈でつまらないものだと感じた。1966年の秋にビートルズが再び集結した時、その容姿もサウンドも別人のように変わっていた。口ひげを生やしたヒッピースタイルで、レノン、マッカートニー、ハリスンが新たな出発にふさわしい楽曲を作った。マッカートニーは、対位法を用いた『シーズ・リーヴィング・ホーム(原題:Shes Leaving Home)』やカオス的なオーケストレーションを採り入れた『ア・デイ・イン・ザ・ライフ(原題:A Day in the Life)』で、壮大なアレンジのセンスを持ち込んだ。普遍的な愛や謙虚さを持つ東洋哲学と、ヒンドゥスタンの伝統音楽へのハリスンの傾倒は、『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー(原題:Within You Without You)』という形で実を結んだ。
レノンがスペイン滞在時に書き始めた曲が『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー(原題:Strawberry Fields Forever)』だった。この曲はバンドのメンバーやプロデューサーのジョージ・マーティンを最も戸惑わせた。彼らはこの曲をほかにはないポピュラー音楽に仕上げようとしたため、レコーディングに1ヶ月もかかった。しかしこの曲はアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』には収録されず、1967年2月にシングル盤としてリリースされた。このようなセッションから生まれた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はリリースされて間もなく、一部からは"時代遅れ"と揶揄されながらも驚きの変化を見せたビートルズのアーティストとしての集大成であり、かつサイケデリックの象徴である、との評価を受けた。
実際にビートルズは、そのような評価を受ける前からその域に達していた。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は確かにタイミングがよかった。しかしそのタイミングのお膳立てをしたのは『リボルバー』だったといえる。『リボルバー』は1966年夏の一連の騒動に飲み込まれ、その後リリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が話題をさらったため、「『リボルバー』こそがビートルズの最も素晴らしいアルバムである」と評論家やファンに広く認められるようになるまで数年、いや数十年かかった。しかし従来の様式に縛られない『リボルバー』は、新鮮で鮮烈な主題の音域を持ち込むことでポピュラー音楽を変えたといえる。それは斬新で荒削りなサウンドとマッチしていた。また、コードやメロディの面でもそれまでとは違うアプローチを見せ、ほかのバンドに内部の危機や社会不安を直視する勇気を与えた。ビートルズは自らのセンスと自信に加え、美しさと不協和音のバランスを以てそれらの要素を音楽に盛り込んだ。ザ・フレーミング・リップスのウェイン・コインは『リボルバー』を振り返り、「ここからすべてが始まったと思う。『リボルバー』からすべての道が開けた」と2011年、ローリングストーン誌に語った。
『愛こそはすべて(原題:All You Need Is Love)』の中に織り込まれたように、1967年頃までにサイケデリアは実証主義的に変化していたのかもしれない。ビートルズはそのような先入観は持っていなかった。もっとも『リボルバー』は、時代のムードに合わせようというよりは、人生の否定とも言うべき不穏な経験を共有したいというモチベーションから作られているが。実際には、「生きること、死ぬこととは何か?」や「死後に残るものは何か?」などを問う哲学的な作業だった。『リボルバー』によって、ビートルズは新たな境地を開拓できたのである。
しかしビートルズの曲作りの仕方もまた変わってしまった。それまではレノン、マッカートニー、ハリスンがそれぞれ自作の曲を持ち寄り、それをほかのメンバーと一緒にあれこれ手を加えていったが、時が経つにつれそれらの共同作業がなくなり、曲を提供したメンバー以外はただの伴奏者となっていった。その時代の手本となっていたグループの結束力は、徐々に薄れていった。
レノンが潜水艦を操縦してみんなの求める安らぎの場所へ出港し、「お前が正しい」と言う4つの顔が見えた1965年春の夜の出来事も、前途多難な長旅の始まりだった。『リボルバー』は、ビートルズの歴史を大きく2つに分ける転機となった。それまでのセンセーショナルな行動が影を潜め、予測不能な何かが始まった。それもまた終わりを告げる頃、"4つの顔"はもはや目を合わせることさえ拒むようになっていた。