1979年にバンドが発表した2枚のクラシック『オーヴァーキル』『ボマー』は、メタリカからマッドハニーまで、無数のバンドが世に出るきっかけを作った。最新ボックスセットのリリースを機に、バンド黄金期の礎となった1年間を振り返る。


1979年にモーターヘッドは、メタルヘッズとパンクスの両方から愛される稀有なバンドとなった。同年に発表された『オーヴァーキル』と『ボマー』という2枚のアルバムは、鋭く展開の読めないリフの応酬と、フロントマンのレミー・キルミスターによる道路工事の粉塵を吸い込んだようなヴォーカルによって絶大な人気を得た。30分強の両作には、メタルとパンク、そしてロックンロールの魅力が凝縮されている。歌詞は淫らなもの(「ダメージ・ケース」)やナンセンスなもの(「オーヴァー・ザ・トップ」)まで幅広いが、「ハートに響くノイズは良質かつラウドでなくてはならない」(「オーヴァーキル」)「真実を見極める力だけがお前をお前たらしめる」(「ステイ・クリーン」)「死人に口なし」(「デッド・メン・テル・ノー・テイルズ」)など、レミーはリリシストとしてもメタルヘッズたちから崇められた。時代と場所が違えば、彼はカントリー界のアウトロー、あるいはフォーク界の伝説となり得たに違いないが、サッチャー政権発足時のロンドンに生きたレミーは、ドラッグを燃料とするへヴィメタルの伝道師という道を歩んだ。

この投稿をInstagramで見るMotörhead(@officialmotorhead)がシェアした投稿 - 2019年 7月月24日午前7時00分PDT
発売されたばかりの新ボックスセット『1979』は、モーターヘッドにとっての「過激思想の1年」のハイライトが詰まっている。
レミーが好んだであろう、シンプルでストレートなタイトルも秀逸だ(なぜバンド名にウムラウトを使ったのかという質問に、彼はこう答えている。「ワルそうに見えたからだ」)。同ボックスセットには、1979年3月に発表された、薄汚れたマヌケどもの栄光たるバンドの最高傑作『オーヴァーキル』、そして同年10月に発表された、テンポを落としつつ汚らわしさを増し、トリオ編成でも大所帯バンド以上にヘヴィになれることを証明してみせた姉妹作『ボマー』からの楽曲が収録されている。また本作では、ハードコアなファンたちからスリー・アミーゴスと呼ばれたステージを生息地とする3人(ベースヴォーカルのイアン・「レミー」・キルミスター、ギタリストの「ファースト」・エディー・クラーク、そしてドラマーのフィル・「フィルシー・アニマル」・テイラー)の真骨頂であり、バンドの黄金期の勢いを感じさせる2つのライブ音源、そしていくつかのB面曲を耳にすることもできる。同年におけるバンドの活動を網羅しているとは言えないものの(『live-in-Paris』『Peel Sessions』、そして映像コンテンツが欠けている)、本作は彼らがメタリカやラモーンズ、マッドハニー、ブラックメタルの名手インモータルなど、無数のバンドに影響を与えたハードロック史上最重要バンドのひとつとされる理由を示す上で十分な内容となっている。

『オーヴァーキル』はバンドの2ndアルバムだが、レコーディングの時点で彼らは既にその道を極めていた。
同作に収録された自身に捧げる歪んだラブソング「カプリコーン」で、レミーはこう歌っている。「若かりし頃、俺は既に成熟していた」キルミスターは子供の頃からハードロックとロックンロールをこよなく愛し(彼のヒーローはリトル・リチャードだった)、60年代後半にはジミ・ヘンドリックスのローディーを務めたほか、Rockin Vickersという仮装バンドに所属していた。彼は1971年にスペースロックの先駆者ホークウインドに加入するが、1975年にアンフェタミン硫酸塩の所持が発覚したことでバンドを解雇されてしまう。「俺は手を出すドラッグを間違えた」彼は自伝(全ロックファン必読)でそう語っている。「やってたのがアシッドだったなら、奴らは俺を褒め称えただろう」彼は同年後半にモーターヘッドを結成し、ほどなくしてクラークとテイラーが結成メンバーの後任として加入する。当初レミーは5ピースのバンドにするつもりだったが、結果的にトリオ編成で落ち着くことになった。


レミーによると、既に気心の知れた仲だったテイラーとクラークが喧嘩するさまはまるで兄弟だったという。テイラーはリーズ音楽大学でドラムを学んでおり、クラークはジミ・ヘンドリックスと交流のあったCurtis Knightと共に、Zeusというバンドで活動していた。無数のリハーサル、そして発売中止になった幻のアルバム『On Parole』(セールスが見込めると判断したレーベルは、同じく1979年に同作を正式にリリースする)のレコーディングを経て、バンドは1977年に正式な1stアルバム『Motorhead / 鋼鐵の稲妻』をリリースする。その頃、レミーはセックス・ピストルズに加入する前だったシド・ヴィシャスにベースを教えようとしたとされているが、ジョニー・ロットンが語っていたように「やつは音楽の才能がゼロだった」という。彼らはお粗末な会場でライブを行い、アルバムのセールスは振るわなかった。しかしヤスリにかけたような「ルイ・ルイ」のカバーが1978年にヒットしたことで、彼らは新たにレコード契約を結び、バンドの代表作となる2枚のアルバムの制作に着手する。


1979年初頭に34歳の誕生日を迎えたレミーは、若いパンクロッカーたちとメタルバンドからロック界の賢者として崇められていた。クラークとテイラーはまだ20代だったが、ステージに立つ3人の姿はやつれた野良犬を思わせた。それがドラッグの影響なのか、プロデューサーに迎えたジミー・ミラー(ローリング・ストーンズの『スティッキー・フィンガーズ』『メインストリートのならず者』、ブラインド・フェイス『スーパー・ジャイアンツ』(原題『Blind Faith』)等で知られる)のしごきによるものなのかは不明だが、1978年後半に『オーヴァーキル』を完成させた頃のバンドがノリにノっていたことは疑いない。

アルバムはテイラーのマシンガンのようなドラミングで幕を開ける。レミーは肉厚でロカビリー調のベースライン(ディストーションの効いたサウンドはギターのように聞こえる)で応援し、クラークの雷雲のようなギターがミックス全体を覆っていく中、「ハートに響くノイズは良質かつラウドでなくてはならない」というレミーのマニフェストが響きわたる。モンスター級のインパクトを自覚してか、同曲では5分強の間にイントロの部分がさらに2回登場する。
メタリカがメガデス、スレイヤー、アンスラックスの3バンドを迎え、2011年にヤンキー・スタジアムで開催したBig Fourコンサートで、4組が一緒に「オーヴァーキル」を演奏したことは、同曲が彼らの世代に与えた計り知れない影響を物語っている。

「あんなプレイはそれまで聴いたことがなかった」同曲におけるテイラーのドラミングについて、ラーズ・ウルリッヒはそう語っている。「完全にぶっ飛ばされた。しかもその凄まじい勢いが最後まで衰えないんだ。レミーのヴォーカルは唯一無二さ。歌詞もクレイジーで、パンクとロックとメタルの要素が融合してる。
凶悪化したアニメの世界みたいで、あの曲の持つエネルギーを倍増させてるんだ」

『オーヴァーキル』の他の曲群は、当時のバンドの幅広いスタイルを反映している。しなるようなロックンロールのリフが印象的な「ステイ・クリーン」の歌詞は、彼が残した中でも最も哲学的なもののひとつだ(「やがて誰もが去り お前はひとりになる / 孤独なお前を止めることは誰にもできない」)。独特の歌唱法が光る強靭な「アイ・ウォント・ペイ・ユア・プライス」(「お前の尻拭いをさせられるのはごめんだ」)、プリンスの「イフ・アイ・ウォズ・ユア・ガールフレンド」を思わせるセクシーな「アイル・ビー・ユア・シスター」(レミーはこの曲をティナ・ターナーに歌ってもらいたかったと語っている)、ZZトップの「タッシュ」をアップグレードしたかのような「ノー・クラス」、どんなテンポで演奏しても様になるであろうナンセンスなロック「メトロポリス」まで、問答無用の名曲がずらりと並ぶ。そして「テア・ヤ・ダウン」「リム・フロム・リム」「ダメージ・ケース」には、レミー流口説き文句の数々が登場する。どれひとつとして女性をメロメロにしそうにはないのだが、永遠の不可解なロマンチスト、そしてイボの魅力の伝道師である彼は、そういう声を黙らせるかのように「リム・フロム・リム」でこう歌っている。「俺はベッドで自分を恥じたりしない」

彼が2015年に逝去する直前、本誌の名物企画であるMy Life in Songs(彼の回のみMy Life in 15 Snarls(がなり)と改題されている)に登場した際に、彼は自身のお気に入りの曲として「オーヴァーキル」と「ステイ・クリーン」を挙げている。「『オーヴァーキル』は多くのメタルバンドにカバーされたが、俺たちの影響はほとんど感じられない」彼はそう語っている。「俺たちも今やベテランだからな。ああいう形で敬意を払ってもらえるのはありがたいけど、俺たちは今も現役なんだ。最近も曲作りで忙しいしな」彼は「ステイ・クリーン」についてはこう語っている。「必ずしもドラッグやアルコールのことを指してるわけじゃない。ただ『クリーンでいること』についての曲さ。メル・トーメの『カミン・ホーム・ベイビー』をパクろうとしてたんだけど、結局全くの別物になっちまった」彼によると、ギターソロの部分はエディーがウォーミングアップをしているところであり、ジミー・ミラーはテイクのやり直しを認めなかったという。

約6カ月後、モーターヘッドは『オーヴァーキル』よりもややヘヴィな『ボマー』をリリースする。アルバムの幕開けを飾るアンチ・ヘロインを掲げた「デッド・メン・テル・ノー・テイルズ」で、レミーは開口一番「これで決まりだ!」とシャウトする。クラークのギターソロは上空のアンプから降り注ぐ炎のようであり、テイラーはせわしないドラミングで必死に応戦する。スローでヘヴィな「ロウマン」では悪魔のような目をした警察官を告発し、「スウィート・リヴェンジ」ではクラークがゆったりとしたブルージーなリフを炸裂させ、「ポイズン」にはレミー史上屈指の名ライン「俺は自らの人生を毒した…嫁をもらうよりはマシさ」が登場する。メタリカはレミーの50歳の誕生日パーティーの場で「ストーン・デッド・フォーエバー」をカバーしており、当日の彼らのセットリストの3分の2は1979年発表の曲が占めていた。

『ボマー』に収録された「オール・ジ・エーセズ」は、翌年に発表されるバンド史上最大のヒット曲「エース・オブ・スペーズ」の雛形ともいえる。「地獄に希望は存在しない / 何者も俺たちを引きずり落とすことはできない」というレミー節が炸裂する、アルバムのオープニングトラックにしてタイトル曲の「ボマー」がハイライトであるという点は、モーターヘッドのお決まりのパターンだ。不可解なことに、彼らの最高傑作のひとつである「オーヴァー・ザ・トップ」は本編ではなくボーナストラックとして収録された。強烈にキャッチーな同曲が本編に収録されていれば、『ボマー』は『オーヴァーキル』と双璧をなす完全無欠のアルバムとなっていただろう。

「『ボマー』は俺が初めて戦争について書いた曲だ」My Life in 15 Snarlsのインタビューで、レミーはそう語っている。「当時レン・デイトンの『爆撃機』を読んでたんだ。イギリス軍が標的とは違うドイツの街を誤って空爆してしまい、両国の争いが激化してしまうっていう話だ。すごくいい本だから、君も読むといい」最高傑作のひとつと自認している「オーヴァー・ザ・トップ」については、彼はこう語っている。「気が狂っちまうことについての曲だ。8年間アシッドをやってた俺は、気が触れるってことの意味を熟知してるからな」

事実、本ボックスセット『1979』に収録されているライブ音源は狂気の沙汰だ。どちらも音質の面では優れているとは言い難いものの、その粗さがライブの興奮をリアルに伝えている。『Good n Loud』の舞台となったAylesbury Friarsは、ロンドンから北に1時間ほど行ったところにある400人収容の小箱(現在は既に閉店している)で、同音源は1979年3月31日に行われた公演のものだ。「キープ・アス・オン・ザ・ロード」を披露する前に、レミーはオーディエンスにバンドの1stアルバムを万引きするよう呼びかけている。また彼は「メトロポリス」はピンク・フロイドのパクリだと冗談めかして語っており、「最近のやつらの曲よりもいい出来だがな」と付け加えている(『ザ・ウォール』がリリースされる直前だった)。バイク乗りのオーディエンスに捧げた「ボーン・トゥ・ルーズ」で大喝采を浴びると、彼は「バイク乗りがそんなにいるわけねぇだろ」と吐き捨てる。アンコールに応えてショーの最後の曲を披露する前に、彼は冗談っぽくこう語っている。「ホークウインドは絶対に2度もアンコールに応えたりしなかっただろうな。俺たちは…」彼はその続きを口にせず、「モーターヘッド」をプレイし始める。

『ボマー』ツアー時のライブ音源『Sharpshooter』は、パリから南西に数時間行ったところにあるル・マンで、1979年11月3日に行われた公演を収めたものだ。レミーのダミ声に拍車がかかっていたりと、同音源には7カ月に及んだツアーの影響がはっきりと現れている。「オーヴァーキル」のイントロでのテイラーのドラミングは明らかに走っており、レミーのベースがそれをさらに加速させ、まさに猪突猛進の勢いをみせる。曲の途中で、レミーは何気なく「黙れ」と口にする。それは彼のキャッチフレーズでもあるが、バンドがペースを落とそうとしないのは、天井に吊るされたダモクレスの剣を思わせる巨大なプロペラ機の影響かもしれない。その飛行機模型はあまりに重かったため、バンドはアメリカツアーに持っていくことを断念した。それがフランスの人々に喜ばれると思い込み、レミーはお粗末ながらInspector Clouseauを真似たフランス訛りの英語でオーディエンスに何度も語りかける。ショーの途中でオーディエンスに「くそったれ」とシャウトさせた後、彼は「みんな英語を話せるじゃねぇか」と続ける。同音源はバンドの魅力とチャーミングさ、そして1979年時のライブの破壊力を見事に捉えている。

その約1年後、スリー・アミーゴスは再びスタジオ入りし、バンドの人気を「オーヴァー・ザ・トップ」(別次元)へと導く『エース・オブ・スペーズ』を完成させる。1982年作『アイアン・フィスト』(ラーズ・ウルリッヒは同作のレコーディングに立ち会っている)を最後にクラークはバンドを脱退し、テイラーもその次の作品のレコーディング後にレミーと袂を分かつことになる。テイラーは80年代後半にバンドに再加入するが、クラークが復帰することはなかった。レミーは新たなメンバーたちと共に、「キルド・バイ・デス」(ローリングストーン誌の「史上最高のメタル・アルバム」リストに入った唯一のグレイテストヒッツ盤『ノー・リモース』に収録)を含むさらなるクラシックの数々を生み出し、死を迎えるまで2年おきのペースで新作を発表し続けた。

モーターヘッドの必聴アルバムは数多いが(『バスターズ』の素晴らしさは見直されるべきだろう)、バンドの伝説の始まりが1979年であることは疑いない。彼らがロックの殿堂にノミネートされるほどの影響力を持つようになったのは、レミーが遅咲きであったことが大きい。『オーヴァーキル』がリリースされる何年も前から音楽業界に身を置いていた彼は、人々がバンドに何を求めているのかをよく理解していた。

本ボックスセットに付属の品(楽譜、『ボマー』ツアーのプログラムのレプリカ、ボタン等)の中には、バンドの不遜さとマッチする『Melödy Breaker』という秀逸なタイトルの付いた、モーターヘッドに関することだけを掲載したファンジンが含まれている。ジョイ・ディヴィジョンのベーシストだったピーター・フックからバンドのレコーディングエンジニアまで、同誌にはバンドと縁が深いあらゆる人物の談話が掲載されている。しかしバンドのメンバーたちの新録インタビューは掲載されておらず、全員が逝去した今ではそれも叶わなくなってしまった。かつてレミーが歌った通り、「死人に口なし」なのだから。

しかし同誌に掲載されている1979年当時の記事からは、当時のレミーの価値観が読み取れる。「子供たちを楽しませることができるのなら、誰が何と言おうとそれは正しいんだ」彼はそう語っている。「アートなんてのはクソの役にも立たない。大事なのは、子供たちに鳥肌の立つような経験をさせてあげられるかどうかだ。それ以外はどうだっていいんだよ」