2020年のデビュー作『Omega』を発表してすぐに、イマニュエル・ウィルキンス(Immanuel Wilkins)はジャズシーンで最も注目される存在になった。2022年の2作目の『The 7th Hand』では大きな期待を軽々と受け止め、何倍にもして打ち返してしまった。
これまでのスタイルを比較に出して形容しづらいアルトサックス奏者としての個性や、コンテンポラリーでありながら、フリージャズをも飲み込んだヒリヒリするようなスリリングさを共存させた作曲だけでなく、BLMに呼応したメッセージを込めたり、黒人としての自身の中にあるスピリチュアルな側面を表現したり、その作品の背景やコンセプトに関しても卓越している。
イマニュエルの凄さは演奏や作曲面だけではなく、トータルなアーティストとしての完成度をすでに持ち合わせているところにある。挾間美帆は以前、彼の才能を「自分がやりたいことやコンセプトに非常に忠実で。でも、あれだけの才能があるから、それを音楽にしっかり出すことができる。だからと言ってチープな方向へ向かわずに、すごい努力のできる人だし、冷静に自分をコントロールできる」と評していた。
ミシェル・ンデデオチェロを共同プロデューサーに迎えた最新アルバム『Blues Blood』はさらなる飛躍作だ。自身やバンドの演奏、ゲスト・ボーカリストの声をコラージュ/エディットし、過激なミックスも施した異色作でもある。そして、過去2作よりもエモーショナルかつコンセプチュアルでもあるし、同時に抽象的で不穏でもある。
この取材ではこの作品で何を表現したかったのか、何を伝えたかったのかイマニュエルに投げかけた。トピックは音楽だけでなく、アメリカにおける黒人の歴史から、現代アートまで多岐にわたる。イマニュエルは抽象的な言葉づかいも交えながら、脳内にある言葉にしえない表現を何とか言葉にするように、何度も考え込みながら丁寧に、というよりは我慢強く話してくれた。
するっと理解が進む記事にはなっていない。ただ、彼の言葉を得てからアルバムを聴くと、その世界はさらに膨らみ、深さが増し、このアルバムのスケールの大きさをより感じられるものになったと僕は自負している。僕もイマニュエルの言葉を頼りに、作品に織り込んだもの、埋め込まれたもの、醸されているものを探りながら、何度も聴き直しているところだ。10月17日~18日はブルーノート東京で、自身のリーダー名義として初の来日公演が開催される。
「血の系譜」とブルースのエモさ
―『Blues Blood』のコンセプトを教えてください。
イマニュエル・ウィルキンス(以下、IW):世代を超えた記憶、先祖の記憶……ということかな。今ではほとんど感じられない先祖との繋がりを、DNAの量子レベルで捉える、いわば未来へのタイムカプセル。20年後、30年後、あるいは200年後にこれを聞いた人が、自分の血統や世代を超えた記憶について考えたり、探求できるものにしたかった。その繋がりを未来に残すためにも。
―そうやって先に残す、というモチベーションで作り始めたきっかけは?
IW:「2024年に生きる人間にとって、ブルースは何を意味するんだろう?」と考えたんだ。ブルースは廃墟から掘り返されたものというか、ブラック・ピープルに限らず、全ての人間にとって、形のないアーカイブなんだ。そもそも音楽は、物理的に捉えることが難しい口承伝統の一つだからこそ、すごく面白いわけだけど。
―形のないものを形にして残すことはなぜあなたにとって重要なんでしょう?
IW:僕も残されたものを受け継いできたからだよ。音楽は僕を先祖と繋げてくれる。だからそれを世代から世代へ残すことは重要だ。たとえば、ドラマーのクウェイク・サンブリーやシンガーのヤウ・アジマンはガーナからの、シンガーのガナヴィアは南インドのタミルからの、伝統や歴史の世代を超えた記憶を呼び起こすことが、このバンドでの彼らの果たす役割だ。僕たちは先祖の影響を引き継いでいるかもしれないのに、それに気づいていないことがあるんだよ。
―前作『The 7th Hand』も先祖、アフリカ系の人たちの歴史とも繋がりがある内容でしたよね? 前作とどう同じで、どう違っているのでしょう?
IW:僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがあるんだと思う。その意味で『The 7th Hand』では身体と霊的な存在との関係を探究したんだ。そして、『Blues Blood』で追求したのは身体と先祖との関係、つまり家族の系譜。霊的な系譜ではなくて、血の系譜。でも歴史や何かを引き継ぐという考えにおいては、全く同じなんだよね。
―「血の系譜」をコンセプトにしたプロジェクトを始めるきっかけになった出来事はありましたか?
IW:いくつかあったよ。
―僕ら日本人だと、スティーヴ・ライヒの曲「Come Out」でダニエル・ハムの声がサンプリングされていることで、彼の物語を知った人がそれなりにいると思います。あなたはどういう経緯で彼に興味を持つようになったんですか?
IW:僕が知ったのはグレン・ライゴン(90年代から活動するアメリカ人アーティスト、人種やセクシャリティなどをテーマにした作品で知られる)の『A Small Band』という作品を通じてだった。それは”Blues Blood Bruise”と書かれたネオンサインのアート作品で、グレン・ライゴンはそれをスティーヴ・ライヒのレコーディングをベースに作った。
―そのダニエル・ハムの話を、作家のジェイムズ・ボールドウィンは「A Report from Occupied Territory」として発表しました。ダニエル・ハムもボールドウィンから影響を受けた人でした。共同プロデューサーのミシェル・ンデデオチェロとはそんな話もしたんじゃないかなと思ったんですが。
IW:いや、それがしてないんだ! それがある意味、すばらしい偶然だったと思う。まるでその話をしなかったのに、明らかなクロスオーバーがそこにあったってことがね!
―意外ですね! ミシェルはここ数年、ボールドウィン研究に取り組んでいて、『No More Water : The Gospel Of James Baldwin』というアルバムを今年8月に発表したばかりなので、その話をしていたのかと思ってました。
IW:ああ。でも僕は「Gospel of James Baldwin」が最初に(NYの)パーク・アヴェニュー・アーマリーでコミッションされた時に見ているんだ。もう何年も前だけどね。
シアスター・ゲイツから学んだこと
―他にも『Blues Blood』のインスピレーションになった音楽、映画、本、アートなどはありましたか?
IW:当然。
シアスターと初めて出会ったのはパーク・アヴェニュー・アーマリーで開かれたBlack Artists Retreat。2021年にNYのガゴジアンで彼が行った最初のソロのショウで、彼が僕のことを”ヴィジュアル・アーティストと常に仕事をしているミュージシャン”と認識してくれてたことを覚えている。その日、バックヤードのオフィスでブラック・モンクスとのヴィデオを見せてもらった。それを機に、何度か頼まれて、彼とブラック・モンクスとは共演している。ロンドンのサーペンタイン・パビリオン、ホイットニー美術館、去年もシカゴで共演した。音楽的にも、とてもいい関係を築けているんだ。彼は正確な意味ではミュージシャンじゃないけれど、僕が知る限り、最も優れたインプロバイザーの一人だ。彼とやることでたくさんのインスピレーションを受ける。特にヤウのために書いた曲はシアスター・ゲイツの作品がレファレンスになっているよ。
―シアスターは今年、森美術館で個展があったので僕も観に行きました。そこでブラック・モンクスが完全に壊される前の教会でパフォーマンスをするインスタレーションの映像を見ました。あなたはブラック・モンクスのどこに最もインスピレーションを感じたんでしょうか?
IW:たくさんのオープンなスペースがあることかな。ヤウ、そしてシアスターにも言えることだけど、彼らが一緒に歌い、作り出すものの強さは、これが最終形だと思える曲をその場で書ける点にある。だから僕は、ヤウが即興で曲を生み出せる土台を作ろうとした。前世に戻るような、先祖を感じさせる、彼の血統の中に潜む彼が知っているかも知らないかもしれない物語……そういうものを呼び起こしたかったんだ。
―シアスターは音楽以外にも都市開発、陶芸、屋根の補修する技術を使ったアート、シカゴの黒人の生活を残すプロジェクトなど様々取り組んでいます。そういうものからもインスピレーションを受けていますか?
IW:もちろん。実際、僕が彼の作品を好きになったきっかけは、陶芸と屋根修復に利用するタールを使ったペインティングを通じてだった。もうずいぶん前から彼のファンなんだ。アルバム1曲目の「MATTE GLAZE」は彼がパンデミック中に書いた俳句の詩に、僕が音楽を書いて送り……それが『Blues Blood』の出発点になったと言っていいと思うよ。
―「MATTE GLAZE」というのは、陶芸で焼き物に塗る液体のことですよね?
IW:そうそう! 彼の詩が指しているのが、陶器に塗る”つや消し”のことなのか、もしくは”肌の色”のことなのかははっきりわからない。でも、陶器=器(vessel)を人の身体(body)と捉えるというのはとても面白かった。だから、ここからプロジェクトをスタートさせようと思ったんだ。
シアスター・ゲイツの代表作「ブラック・ベッセル」
―シアスターの「アフロ民藝」は日本の陶芸、民藝からもインスピレーションを得ているんですよね。
IW:僕もシアスターを通じて日本の陶芸が好きになったよ。彼はしょっちゅう常滑を訪れて、マスターたちに学んでいる。常滑での経験、ブラック・モンクスと訪れた時の話、人との出会い、カルチャープロダクション……たくさん話を聞いているよ。
抽象化させることで、脳は自由に働き出す
―グレン・ライゴンやシアスター・ゲイツのようなアーティストの話をしてくれましたが、そもそも『Blues Blood』は映像を含めた視覚的なアートのために作られたように僕は感じていました。そういった音楽だけで完結しないアートなどからのインスピレーションもあったってことですよね。
IW:うん。広い意味でそういうものに興味があるし、僕のすべての作品に影響を与えている。『Blues Blood』を作り上げたイメージの多くは、僕の頭の中にすでに存在してたんだと思う。そんな、僕の頭が作り上げた視覚的な美学とでもいうのかな。ある種、必ずしも形のない、無形性への興味が『Blues Blood』の音楽を作り上げる要素になった。これまでもアーティストとのコラボレーションで物理的なアートとしての曲を書いたことはあったけど、今回は音楽が一瞬のものとして存在することを強調すべきだと、音楽が僕に語りかけてるように感じたんだ。
その瞬間は訪れては消える。そんな儚さの中にも、そこにいる人間の身体に持続的な影響を与える場を、共に作れと……。何年も前に作られた、無形のアートが、もしかしたら言葉では説明できない、量子レベルの形で、何らかの影響を、子供たちの子供たちの子供たちに及ぼすかもしれない。それって、即興演奏が毎回異なるものだというのとある意味で一緒だ。ソロのセクションは自由に広がって、音楽は生き生きと新しさを感じさせるものであるべきだ。そのための自由をミュージシャンに与える。なので正直、これを録音した形に残すと考えること自体、とても難しかった。音楽自体に独自の命が宿っていて、毎回根本的に違うものになる可能性を秘めていたからね。アルバムという形が定まったものに凝縮するのは、不可能だと思えるくらいだったよ。
―なるほど。
IW:もう一つ、大きなインスピレーションになったのは、ライナーノーツを書いてくれたクリスティーナ・シャープ(大学教授。黒人の文学、視覚、クィアなどを研究している)が、大西洋間奴隷貿易について書いた『In The Wake』だ。アフリカからアメリカに奴隷船で連れてこられたブラック・ピープルは、何も物を持たず連れてこられた。持ってこれたのは、歌や踊りといった形のないものだけ。そんなこと(=無形性)を考えるきっかけになった本だった。また、その本には水について言及している部分もあって、それによれば、水中に特定の化合物や元素が留まる”滞留時間”(Residence Time)ーー海洋生物学ではそう呼ぶらしいんだけどーー塩の滞留時間は2億6千万年らしい。つまりある意味、body of water(海、湖、川、池など広く水の塊を指す言い方)は、その水の上で流された血、水中に投げ込まれた人間の体などの記憶を留めた貯蔵庫なんだ。つまり水は、形を持たないアーカイブ。海や川のことをbody of waterと呼ぶのも実にふさわしいことなんだ。
―前作のビデオも、川での儀式のような、水が重要なテーマでしたよね。
IW:ああ、まさにその通りさ。
―ここ数年、アマゾンの先住民の活動家とか、いろんな人とインタビューさせてもらってますが、水というテーマで話をする人が多いんですよ。彼らが作った作品では水のモチーフが反植民地主義を結びつくケースもあるんですよね。
IW:すごくクールな考えだね。興味深いし、同感だ。僕から言えることは何もないけど、その意見は胸に留めておくよ。
Photo by Joshua Woods
―先ほどからガナヴィアの名前は幾度も上がっていますが、『Blues Blood』において、彼女がインドの歌唱法で、インドの言葉で歌っていることはどんな意味を持っていますか?
IW:いくつかあるよ。一つは過去の歴史を呼び起こすという考え方。彼女のレコードで聴ける即興演奏の多くは、2千年前のタミル語の詩や南インドの詩を翻訳し、歌ったものだ。そこで僕は、言語を変換することの意味を考えた。今の、未来の音楽にとってそれがどういう意味を持つのか……言語を変換することで生じる完全に捉えられない部分、誰にでもわかるわけではないという点が、どこか面白いと思った。ストーリーテリングを下地に埋め込んでおくというか。現実を抽象化することにも興味があるなんだ。このプロジェクトのレコーディングでも、相手への配慮という意味で、抽象化を用いている。トラウマや暴力をそのまま再現することなくダニエル・ハムの物語を語るために、物事を抽象化し、言語を変換し、そこに逃避や隠されたメッセージを埋め込み、特定のグループだけに向けて語りかける、一種反体制的(subversive)な手段をとったんだ。それは相手への思いやり、としてね。
ガナヴィヤはインド出身のボーカリスト/作曲家。2024年のアルバム『like the sky I've been too quiet』はシャバカ・ハッチングスの主宰レーベル「Native Rebel Recordings」からリリース
―僕が興味深いと思った点に、歌や語り、ガナヴィアのインドの言葉、加工されて聞き取れない声など、沢山聞こえてきたことです。それって今までのあなたの作品には無かった要素です。誰にでもわからないことについてさっき言ってましたが、「言葉」よりも「声」が重要だったりもする部分もあるんですか?
IW:バランスだと思うな。例えばジューン・マクドゥームの歌は、先祖や亡くなった家族、今いる家族も含めた家族の物語をリアルに描写するナラティヴなアプローチのストーリーテリングだ。一方で、ガナヴィアやヤウの貢献はより抽象的で、言葉そのものというよりは、楽器としての言葉なんだ。でも物語のエネルギーを優先するために、スポークンワーズから特定の言葉を消してしまうこともある。その時の言葉は、リアルな物語を語るナラティヴというよりは、霊的な実践のための楽器にすぎない。
「assembly」という曲では、4~5人に「家族と育った子供時代を思い起こさせるものについて」話してもらった。すると5人全員が、家族で囲んだ食卓の話や食べ物のことを話したんだ。でも僕はその物語を語ることにはあまり興味なくて、それよりは、そこにあるエモーショナルなコンテクストを音楽の深い下地に埋め込むことに興味があった。言葉そのものの意味ではなく、そういったソースが全体として何を語ろうとしているかを、抽象的にタペストリーのように織りなす……ということをしたんだ。
―その「assembly」で声を逆回転させたり、変調させたりして、声を変えた、と。
IW:多くは直感なんだよね。僕が行うことの多くは直感的。「なぜこの曲をBフラットで演奏するのか?」と一緒だ。でも、直感はしばしば人を真実に導いてくれる。人の記憶って、実はところどころ抜けていたり、あやふやだったりするものじゃない? そんな記憶の働き方と、逆回転の声がタペストリーのように織られ、重なり合うのになんだか似ている。あのサウンドはそれを彷彿とさせるような気がしたんだ。
タペストリーっていうことで言えば、キルトを織る時に、ある色と色を隣同士に並べることで意外なパワーが生まれることもある。隣り合わせという意味では、奴隷船の中、鎖で繋がれた身体と身体が狭い空間に並ぶ光景、ということもイメージしたんだ。普段では考えられないもの同士を並列したり、抽象化させることで、脳は自由に働き出す。普通な物語の語り方では、その物語の1つのバージョンしか生まれないけど、いくつかのものをコラージュされたものからは、脳がいくつもの物語を作り出せる。人の脳は物事を信じる方法を4~5通りは読み取ることができるんだ。そしてリスナーは音楽の中に自分を見つけることができるようになる。ストーリーテリングが語るのは、当然僕のストーリーであり、バンドのストーリー、個々のストーリーなんだけど、同時に聴く人たちが自分自身のリアルなストーリーを自由に作り出せる空間であってほしいって僕は思うから。
―「聴く人たちそれぞれのストーリーを作り出せる」というのは、ミシェル・ンデゲオチェロも言ってました。彼女は「それが音楽の力だ」とも。
IW:その通り。でも……今回のアルバムで一番苦労したのはそこでもあるんだ。言葉がない音楽の方がむしろパワフルだからね。僕がインストゥルメンタル音楽が大好きなのは、自由になんの限界もなく、想像を膨らましていいところ。それと同じ自由を、歌詞のある曲でも試そうとしたんだよ。
―そんなあなたの頭の中にあるものを形にするためには、今までのようなバンドサウンドでは不可能で、奇妙なコラージュやミックスがふさわしかったから、そのために自宅で時間をかけてプロダクションに凝ったものを作ったんですかね?
IW:そういうこと。それはすべてミシェルのアイディアで、彼女から家でやるように励まされたんだ。昔からやってきたんだけど、公開したことは一度もなかった。たくさんアイディアを試して、レコーディングした素材をマニピュレートしたり、新しい要素を加えてみたりしてみなさいと彼女から言ってもらい、10くらいのアイディアの中から特に強く感じられた4~5つを選んだんだ。
―リリースはしてないけど、昔から家でコンピューターで作ってたんですね?
IW:そうなんだ。家でコンピューターでやってきたけど、コンピューターに入ったまま、そこを出ることはこれまでなかった。曲のいくつかはツアー中に作業したものだよ。ツアーの合間、最初の頃のミックスを聴き返し、各パートを取り出し、楽器ごとにアイソレートして、自分が書いた音楽の一部を使いながら、コラージュしたりしたんだ。
「シェア」と「リミックス」の精神
―今日、抽象化(abstraction)ということをあなたはずっと言ってます。前作『The 7th Hand』の最後の曲「Lift」もひたすら即興を何十分も続けるような曲でした。曲を書いて録音するのではなくて、様々なアイディアを持ち寄って抽象的なものを作るというのは、ここしばらく続いているテーマなのかなと思ったのですが、どうですか?
IW:その通りだね。それと偶然(chance)ということにも興味があるよ。予想もしないことが起こるような空間を作りたいっていうか……その空間で人が自分らしくいられる場を作りたいんだ。
僕が目指しているのは、何かをするための音楽じゃなくて、人に何かしらの影響を与え、感じさせる力を持つ音楽だ。抽象性や偶然性といったラディカルなクリエイティブ空間からは、安全で、誰もが自分を表現できる、人と多くをシェアできる場を作り出せると思う。でも僕が曲をオーバーコンポーズし過ぎては、ただ書いた曲を実行するための練習になってしまい、それを実行することだけが目的になってしまう。それだと他のミュージシャンたちは、自分の意見や感性を表現できず、自分の声が反映されていると感じにくくなり、プロジェクトにおいて対等に参加しているという意識が損なわれ、本当の意味でシェアしあう環境とは言えなくなってしまう。
だから大事なのは思いやりだ。たくさんの思いやり。みんなで一緒に食事をすることにも似ているよ。大皿の料理を何皿か注文して、テーブルの全員でシェアするような感じ。毎日、僕の隣にいる人がちゃんと食事ができているかを、気にかける……それって自由な即興演奏にもどこか似てるんだ。誰もがそこに参加できるオープンな瞬間があれば、自分が食べることよりも、隣の弟や妹たちがお腹いっぱいになったかを気にできるようになる。「大丈夫? ちゃんと食べたか?」「最後の一切はお前が食べろ」ってね。
―今年の頭にミシェルにインタビューした時、「Virgo」という曲について「自分自身の新しい神話を作る必要性を感じていた。これまでにない黒人がクリエイトした新しい神話や物語が作りたかった」と話していました。『Blues Blood』もまさにそんなアルバムなのではないかなと思ったんですが、どうですか?
IW:ああ! まさにそれって、黒人の美学の中心となる考え方だと思う。ある種のリミックス精神だね。目的を与え直したり、自分の意思でそれを大きく変えたり、素材を自在に操る、という考え方。ジャズをどう考えるかにも通じていると思う。1920年代から1950年代のジャズミュージシャンはshow tuneを演奏していたが、ある時「もうメロディじゃない、重要なのはソロだ」って思うようになった。つまり曲の純粋さを守ることよりも、自分がその曲に対して何をするかが重要になったんだ。実際、リミックスはすごく重要だと思うよ。
僕とミシェルが親密に音楽的な共同作業を行うようになったのは、『Red Hot & Ra』というサン・ラへのトリビュートのプロジェクトがきっかけだったんだけど、レコーディング中も、”今ある現実に取って替わる現実”を作り上げたサン・ラの想像力について、ずっとふたりで話していた。あのプロジェクトはミシェルがサン・ラの作品を研究する上でも大きな影響を与えたと思う。そして、僕も影響を受けた。ミシェルと一緒に作業をし、話しながら、サン・ラのことを考え、彼が物事をどう捉えていたかを考えた。そして二人とも、今ある宇宙ではない宇宙の可能性、という考え方に至ったんだと思うよ。
―今回は抽象的だし、プロダクションを駆使していて、音楽的にも普通の形式ではありません。そんな中であなたはサックス奏者としてはどんなことをやろうと思ったのか、もしくはやりたくなかったのか聞かせてください。
IW:やろうと思ったのは、すごくいいソロを吹くこと(笑)。というのも、ソロを吹ける箇所が短かったからね。ボーカリストたちのためのスペースをとることを一番に考えたので、カルテットが演奏する時間は短くなってしまった。だからその限られた短い時間で出し切らなくてはならなくて、とても難しかった。1920~40年代の45回転盤レコードの時代のミュージシャンたちはこんなだったんだろうなと思ったよ。与えられた時間はコード2つか3つ分くらい、長いソロは吹けない。それが僕にとってのチャレンジだったね。
―最後に、来日公演について聞かせてください。僕の周りの若いミュージシャンやリスナーは、ようやくあなたのライブが観れることを楽しみにしています。
IW:僕も楽しみだよ。日本に行くのは、パンデミック後、初めてになる。高校の時に初めて行って以来、日本には5~6回は行ってるかな。世界で一番好きな国だよ。なので戻れるのをめちゃくちゃ楽しみにしてるし、とにかくいいギグになるのは間違いない。だって、そもそも行けるだけで幸せな国だからね(笑)。ドラマーのクウェイクは日本が初めてだから、かなり興奮してるよ。楽しいギグになるだろうね。新曲、レコーディングしてない曲、これまでのアルバムからの曲……と曲数はかなりあるけど、2日間で1日2セットずつ、毎晩、毎セット変えれば色々できる。アルバムも出たばかりってことは、ニューヨークじゃなくて、日本でリリースパーティを開催するってことになるわけだよ!
イマニュエル・ウィルキンス
『Blues Blood』
発売中
再生・購入:https://immanuel-wilkins.lnk.to/BluesBlood
イマニュエル・ウィルキンス・カルテット来日公演
2024年10月17日(木)・18日(金) ブルーノート東京
[1st] Open 5:00pm / Start 6:00pm [2nd] Open 7:45pm / Start 8:30pm
メンバー:イマニュエル・ウィルキンス(as)、ポール・コーニッシュ(p)、リック・ロサート(b)、クウェク・サンブリー(ds)
公演詳細:https://www.bluenote.co.jp/jp/artists/immanuel-wilkins/
世界中のジャズリスナーがイマニュエルの虜になった。
これまでのスタイルを比較に出して形容しづらいアルトサックス奏者としての個性や、コンテンポラリーでありながら、フリージャズをも飲み込んだヒリヒリするようなスリリングさを共存させた作曲だけでなく、BLMに呼応したメッセージを込めたり、黒人としての自身の中にあるスピリチュアルな側面を表現したり、その作品の背景やコンセプトに関しても卓越している。
イマニュエルの凄さは演奏や作曲面だけではなく、トータルなアーティストとしての完成度をすでに持ち合わせているところにある。挾間美帆は以前、彼の才能を「自分がやりたいことやコンセプトに非常に忠実で。でも、あれだけの才能があるから、それを音楽にしっかり出すことができる。だからと言ってチープな方向へ向かわずに、すごい努力のできる人だし、冷静に自分をコントロールできる」と評していた。
ミシェル・ンデデオチェロを共同プロデューサーに迎えた最新アルバム『Blues Blood』はさらなる飛躍作だ。自身やバンドの演奏、ゲスト・ボーカリストの声をコラージュ/エディットし、過激なミックスも施した異色作でもある。そして、過去2作よりもエモーショナルかつコンセプチュアルでもあるし、同時に抽象的で不穏でもある。
この取材ではこの作品で何を表現したかったのか、何を伝えたかったのかイマニュエルに投げかけた。トピックは音楽だけでなく、アメリカにおける黒人の歴史から、現代アートまで多岐にわたる。イマニュエルは抽象的な言葉づかいも交えながら、脳内にある言葉にしえない表現を何とか言葉にするように、何度も考え込みながら丁寧に、というよりは我慢強く話してくれた。
するっと理解が進む記事にはなっていない。ただ、彼の言葉を得てからアルバムを聴くと、その世界はさらに膨らみ、深さが増し、このアルバムのスケールの大きさをより感じられるものになったと僕は自負している。僕もイマニュエルの言葉を頼りに、作品に織り込んだもの、埋め込まれたもの、醸されているものを探りながら、何度も聴き直しているところだ。10月17日~18日はブルーノート東京で、自身のリーダー名義として初の来日公演が開催される。
「血の系譜」とブルースのエモさ
―『Blues Blood』のコンセプトを教えてください。
イマニュエル・ウィルキンス(以下、IW):世代を超えた記憶、先祖の記憶……ということかな。今ではほとんど感じられない先祖との繋がりを、DNAの量子レベルで捉える、いわば未来へのタイムカプセル。20年後、30年後、あるいは200年後にこれを聞いた人が、自分の血統や世代を超えた記憶について考えたり、探求できるものにしたかった。その繋がりを未来に残すためにも。
―そうやって先に残す、というモチベーションで作り始めたきっかけは?
IW:「2024年に生きる人間にとって、ブルースは何を意味するんだろう?」と考えたんだ。ブルースは廃墟から掘り返されたものというか、ブラック・ピープルに限らず、全ての人間にとって、形のないアーカイブなんだ。そもそも音楽は、物理的に捉えることが難しい口承伝統の一つだからこそ、すごく面白いわけだけど。
だから未来の人たちのために、意図を持って、それを形にしたら、面白いんじゃないかなと思ったんだよ。
―形のないものを形にして残すことはなぜあなたにとって重要なんでしょう?
IW:僕も残されたものを受け継いできたからだよ。音楽は僕を先祖と繋げてくれる。だからそれを世代から世代へ残すことは重要だ。たとえば、ドラマーのクウェイク・サンブリーやシンガーのヤウ・アジマンはガーナからの、シンガーのガナヴィアは南インドのタミルからの、伝統や歴史の世代を超えた記憶を呼び起こすことが、このバンドでの彼らの果たす役割だ。僕たちは先祖の影響を引き継いでいるかもしれないのに、それに気づいていないことがあるんだよ。
―前作『The 7th Hand』も先祖、アフリカ系の人たちの歴史とも繋がりがある内容でしたよね? 前作とどう同じで、どう違っているのでしょう?
IW:僕は「vessel」(器)、もしくは何かをアーカイブし、伝えるチャンネルとしての「body」(体、塊、物体)という概念に対する強いこだわりがあるんだと思う。その意味で『The 7th Hand』では身体と霊的な存在との関係を探究したんだ。そして、『Blues Blood』で追求したのは身体と先祖との関係、つまり家族の系譜。霊的な系譜ではなくて、血の系譜。でも歴史や何かを引き継ぐという考えにおいては、全く同じなんだよね。
―「血の系譜」をコンセプトにしたプロジェクトを始めるきっかけになった出来事はありましたか?
IW:いくつかあったよ。
一つはダニエル・ハムの話を読んだことさ。タイトルもそこからきている。彼はHarlem Sixと呼ばれ、誤って殺人の罪を着せられた一団の一人。傷を負うほど殴られたが、出血していなかったので治療をしてもらえず、「自分で傷口を開き、傷口から血(bruise blood)を出さねばならなかった」と言うべきところを、彼は間違ってブルースの血(blues blood)と言ったんだ。それを聞いた時に思ったのは、ブラック・ピープルの歴史をたどると、そこには常に、ある種の”痛みが持つ快感”があるってこと。廃墟になった過去を掘り返し、歴史に向き合うことは僕らの責任だ。ブルースはそれを表現するための手段。だから本当に悲しい出来事や苦しみを歌った曲が多く、音としては酷いんだけど、同時にものすごい心地良く感じる。ブルースにはそんな二律背反、つまり深い感情と悲しみに浸ることが気持ちいい……ある種、エモいっていうのに近い感覚があるんだ。
―僕ら日本人だと、スティーヴ・ライヒの曲「Come Out」でダニエル・ハムの声がサンプリングされていることで、彼の物語を知った人がそれなりにいると思います。あなたはどういう経緯で彼に興味を持つようになったんですか?
IW:僕が知ったのはグレン・ライゴン(90年代から活動するアメリカ人アーティスト、人種やセクシャリティなどをテーマにした作品で知られる)の『A Small Band』という作品を通じてだった。それは”Blues Blood Bruise”と書かれたネオンサインのアート作品で、グレン・ライゴンはそれをスティーヴ・ライヒのレコーディングをベースに作った。
僕はアーキビストと共に、なんとかダニエルの喋ってるオリジナルのテープを探そうとしたけど、見つけられなかった。おそらくライヒ・エステートに保管されていて、誰もアクセスできないんだと思う。なので、今、残されてる唯一の記録は、ライヒのレコードだけってことになるね。
―そのダニエル・ハムの話を、作家のジェイムズ・ボールドウィンは「A Report from Occupied Territory」として発表しました。ダニエル・ハムもボールドウィンから影響を受けた人でした。共同プロデューサーのミシェル・ンデデオチェロとはそんな話もしたんじゃないかなと思ったんですが。
IW:いや、それがしてないんだ! それがある意味、すばらしい偶然だったと思う。まるでその話をしなかったのに、明らかなクロスオーバーがそこにあったってことがね!
―意外ですね! ミシェルはここ数年、ボールドウィン研究に取り組んでいて、『No More Water : The Gospel Of James Baldwin』というアルバムを今年8月に発表したばかりなので、その話をしていたのかと思ってました。
IW:ああ。でも僕は「Gospel of James Baldwin」が最初に(NYの)パーク・アヴェニュー・アーマリーでコミッションされた時に見ているんだ。もう何年も前だけどね。
シアスター・ゲイツから学んだこと
―他にも『Blues Blood』のインスピレーションになった音楽、映画、本、アートなどはありましたか?
IW:当然。
シアスター・ゲイツ(シカゴ出身のアーティスト。彫刻、陶芸、建築、音楽、ファッション、デザインなど横断的な活動が高く評価されている)は大きなインスピレーションだった。今回シンガーで参加してくれたヤウ・アジマンはシアスターの音楽集団ザ・ブラック・モンクスのほぼレギュラーメンバーだ。
シアスターと初めて出会ったのはパーク・アヴェニュー・アーマリーで開かれたBlack Artists Retreat。2021年にNYのガゴジアンで彼が行った最初のソロのショウで、彼が僕のことを”ヴィジュアル・アーティストと常に仕事をしているミュージシャン”と認識してくれてたことを覚えている。その日、バックヤードのオフィスでブラック・モンクスとのヴィデオを見せてもらった。それを機に、何度か頼まれて、彼とブラック・モンクスとは共演している。ロンドンのサーペンタイン・パビリオン、ホイットニー美術館、去年もシカゴで共演した。音楽的にも、とてもいい関係を築けているんだ。彼は正確な意味ではミュージシャンじゃないけれど、僕が知る限り、最も優れたインプロバイザーの一人だ。彼とやることでたくさんのインスピレーションを受ける。特にヤウのために書いた曲はシアスター・ゲイツの作品がレファレンスになっているよ。
ヤウを含め、各ボーカリストの環境、経験や習慣を徹底的に研究し、彼らの世界の中に僕から入り込んで、彼ら自身が作る音楽を書こうと心がけたんだ。
―シアスターは今年、森美術館で個展があったので僕も観に行きました。そこでブラック・モンクスが完全に壊される前の教会でパフォーマンスをするインスタレーションの映像を見ました。あなたはブラック・モンクスのどこに最もインスピレーションを感じたんでしょうか?
IW:たくさんのオープンなスペースがあることかな。ヤウ、そしてシアスターにも言えることだけど、彼らが一緒に歌い、作り出すものの強さは、これが最終形だと思える曲をその場で書ける点にある。だから僕は、ヤウが即興で曲を生み出せる土台を作ろうとした。前世に戻るような、先祖を感じさせる、彼の血統の中に潜む彼が知っているかも知らないかもしれない物語……そういうものを呼び起こしたかったんだ。
―シアスターは音楽以外にも都市開発、陶芸、屋根の補修する技術を使ったアート、シカゴの黒人の生活を残すプロジェクトなど様々取り組んでいます。そういうものからもインスピレーションを受けていますか?
IW:もちろん。実際、僕が彼の作品を好きになったきっかけは、陶芸と屋根修復に利用するタールを使ったペインティングを通じてだった。もうずいぶん前から彼のファンなんだ。アルバム1曲目の「MATTE GLAZE」は彼がパンデミック中に書いた俳句の詩に、僕が音楽を書いて送り……それが『Blues Blood』の出発点になったと言っていいと思うよ。
―「MATTE GLAZE」というのは、陶芸で焼き物に塗る液体のことですよね?
IW:そうそう! 彼の詩が指しているのが、陶器に塗る”つや消し”のことなのか、もしくは”肌の色”のことなのかははっきりわからない。でも、陶器=器(vessel)を人の身体(body)と捉えるというのはとても面白かった。だから、ここからプロジェクトをスタートさせようと思ったんだ。
シアスター・ゲイツの代表作「ブラック・ベッセル」
―シアスターの「アフロ民藝」は日本の陶芸、民藝からもインスピレーションを得ているんですよね。
IW:僕もシアスターを通じて日本の陶芸が好きになったよ。彼はしょっちゅう常滑を訪れて、マスターたちに学んでいる。常滑での経験、ブラック・モンクスと訪れた時の話、人との出会い、カルチャープロダクション……たくさん話を聞いているよ。
抽象化させることで、脳は自由に働き出す
―グレン・ライゴンやシアスター・ゲイツのようなアーティストの話をしてくれましたが、そもそも『Blues Blood』は映像を含めた視覚的なアートのために作られたように僕は感じていました。そういった音楽だけで完結しないアートなどからのインスピレーションもあったってことですよね。
IW:うん。広い意味でそういうものに興味があるし、僕のすべての作品に影響を与えている。『Blues Blood』を作り上げたイメージの多くは、僕の頭の中にすでに存在してたんだと思う。そんな、僕の頭が作り上げた視覚的な美学とでもいうのかな。ある種、必ずしも形のない、無形性への興味が『Blues Blood』の音楽を作り上げる要素になった。これまでもアーティストとのコラボレーションで物理的なアートとしての曲を書いたことはあったけど、今回は音楽が一瞬のものとして存在することを強調すべきだと、音楽が僕に語りかけてるように感じたんだ。
その瞬間は訪れては消える。そんな儚さの中にも、そこにいる人間の身体に持続的な影響を与える場を、共に作れと……。何年も前に作られた、無形のアートが、もしかしたら言葉では説明できない、量子レベルの形で、何らかの影響を、子供たちの子供たちの子供たちに及ぼすかもしれない。それって、即興演奏が毎回異なるものだというのとある意味で一緒だ。ソロのセクションは自由に広がって、音楽は生き生きと新しさを感じさせるものであるべきだ。そのための自由をミュージシャンに与える。なので正直、これを録音した形に残すと考えること自体、とても難しかった。音楽自体に独自の命が宿っていて、毎回根本的に違うものになる可能性を秘めていたからね。アルバムという形が定まったものに凝縮するのは、不可能だと思えるくらいだったよ。
―なるほど。
IW:もう一つ、大きなインスピレーションになったのは、ライナーノーツを書いてくれたクリスティーナ・シャープ(大学教授。黒人の文学、視覚、クィアなどを研究している)が、大西洋間奴隷貿易について書いた『In The Wake』だ。アフリカからアメリカに奴隷船で連れてこられたブラック・ピープルは、何も物を持たず連れてこられた。持ってこれたのは、歌や踊りといった形のないものだけ。そんなこと(=無形性)を考えるきっかけになった本だった。また、その本には水について言及している部分もあって、それによれば、水中に特定の化合物や元素が留まる”滞留時間”(Residence Time)ーー海洋生物学ではそう呼ぶらしいんだけどーー塩の滞留時間は2億6千万年らしい。つまりある意味、body of water(海、湖、川、池など広く水の塊を指す言い方)は、その水の上で流された血、水中に投げ込まれた人間の体などの記憶を留めた貯蔵庫なんだ。つまり水は、形を持たないアーカイブ。海や川のことをbody of waterと呼ぶのも実にふさわしいことなんだ。
―前作のビデオも、川での儀式のような、水が重要なテーマでしたよね。
IW:ああ、まさにその通りさ。
―ここ数年、アマゾンの先住民の活動家とか、いろんな人とインタビューさせてもらってますが、水というテーマで話をする人が多いんですよ。彼らが作った作品では水のモチーフが反植民地主義を結びつくケースもあるんですよね。
IW:すごくクールな考えだね。興味深いし、同感だ。僕から言えることは何もないけど、その意見は胸に留めておくよ。
Photo by Joshua Woods
―先ほどからガナヴィアの名前は幾度も上がっていますが、『Blues Blood』において、彼女がインドの歌唱法で、インドの言葉で歌っていることはどんな意味を持っていますか?
IW:いくつかあるよ。一つは過去の歴史を呼び起こすという考え方。彼女のレコードで聴ける即興演奏の多くは、2千年前のタミル語の詩や南インドの詩を翻訳し、歌ったものだ。そこで僕は、言語を変換することの意味を考えた。今の、未来の音楽にとってそれがどういう意味を持つのか……言語を変換することで生じる完全に捉えられない部分、誰にでもわかるわけではないという点が、どこか面白いと思った。ストーリーテリングを下地に埋め込んでおくというか。現実を抽象化することにも興味があるなんだ。このプロジェクトのレコーディングでも、相手への配慮という意味で、抽象化を用いている。トラウマや暴力をそのまま再現することなくダニエル・ハムの物語を語るために、物事を抽象化し、言語を変換し、そこに逃避や隠されたメッセージを埋め込み、特定のグループだけに向けて語りかける、一種反体制的(subversive)な手段をとったんだ。それは相手への思いやり、としてね。
ガナヴィヤはインド出身のボーカリスト/作曲家。2024年のアルバム『like the sky I've been too quiet』はシャバカ・ハッチングスの主宰レーベル「Native Rebel Recordings」からリリース
―僕が興味深いと思った点に、歌や語り、ガナヴィアのインドの言葉、加工されて聞き取れない声など、沢山聞こえてきたことです。それって今までのあなたの作品には無かった要素です。誰にでもわからないことについてさっき言ってましたが、「言葉」よりも「声」が重要だったりもする部分もあるんですか?
IW:バランスだと思うな。例えばジューン・マクドゥームの歌は、先祖や亡くなった家族、今いる家族も含めた家族の物語をリアルに描写するナラティヴなアプローチのストーリーテリングだ。一方で、ガナヴィアやヤウの貢献はより抽象的で、言葉そのものというよりは、楽器としての言葉なんだ。でも物語のエネルギーを優先するために、スポークンワーズから特定の言葉を消してしまうこともある。その時の言葉は、リアルな物語を語るナラティヴというよりは、霊的な実践のための楽器にすぎない。
「assembly」という曲では、4~5人に「家族と育った子供時代を思い起こさせるものについて」話してもらった。すると5人全員が、家族で囲んだ食卓の話や食べ物のことを話したんだ。でも僕はその物語を語ることにはあまり興味なくて、それよりは、そこにあるエモーショナルなコンテクストを音楽の深い下地に埋め込むことに興味があった。言葉そのものの意味ではなく、そういったソースが全体として何を語ろうとしているかを、抽象的にタペストリーのように織りなす……ということをしたんだ。
―その「assembly」で声を逆回転させたり、変調させたりして、声を変えた、と。
IW:多くは直感なんだよね。僕が行うことの多くは直感的。「なぜこの曲をBフラットで演奏するのか?」と一緒だ。でも、直感はしばしば人を真実に導いてくれる。人の記憶って、実はところどころ抜けていたり、あやふやだったりするものじゃない? そんな記憶の働き方と、逆回転の声がタペストリーのように織られ、重なり合うのになんだか似ている。あのサウンドはそれを彷彿とさせるような気がしたんだ。
タペストリーっていうことで言えば、キルトを織る時に、ある色と色を隣同士に並べることで意外なパワーが生まれることもある。隣り合わせという意味では、奴隷船の中、鎖で繋がれた身体と身体が狭い空間に並ぶ光景、ということもイメージしたんだ。普段では考えられないもの同士を並列したり、抽象化させることで、脳は自由に働き出す。普通な物語の語り方では、その物語の1つのバージョンしか生まれないけど、いくつかのものをコラージュされたものからは、脳がいくつもの物語を作り出せる。人の脳は物事を信じる方法を4~5通りは読み取ることができるんだ。そしてリスナーは音楽の中に自分を見つけることができるようになる。ストーリーテリングが語るのは、当然僕のストーリーであり、バンドのストーリー、個々のストーリーなんだけど、同時に聴く人たちが自分自身のリアルなストーリーを自由に作り出せる空間であってほしいって僕は思うから。
―「聴く人たちそれぞれのストーリーを作り出せる」というのは、ミシェル・ンデゲオチェロも言ってました。彼女は「それが音楽の力だ」とも。
IW:その通り。でも……今回のアルバムで一番苦労したのはそこでもあるんだ。言葉がない音楽の方がむしろパワフルだからね。僕がインストゥルメンタル音楽が大好きなのは、自由になんの限界もなく、想像を膨らましていいところ。それと同じ自由を、歌詞のある曲でも試そうとしたんだよ。
―そんなあなたの頭の中にあるものを形にするためには、今までのようなバンドサウンドでは不可能で、奇妙なコラージュやミックスがふさわしかったから、そのために自宅で時間をかけてプロダクションに凝ったものを作ったんですかね?
IW:そういうこと。それはすべてミシェルのアイディアで、彼女から家でやるように励まされたんだ。昔からやってきたんだけど、公開したことは一度もなかった。たくさんアイディアを試して、レコーディングした素材をマニピュレートしたり、新しい要素を加えてみたりしてみなさいと彼女から言ってもらい、10くらいのアイディアの中から特に強く感じられた4~5つを選んだんだ。
―リリースはしてないけど、昔から家でコンピューターで作ってたんですね?
IW:そうなんだ。家でコンピューターでやってきたけど、コンピューターに入ったまま、そこを出ることはこれまでなかった。曲のいくつかはツアー中に作業したものだよ。ツアーの合間、最初の頃のミックスを聴き返し、各パートを取り出し、楽器ごとにアイソレートして、自分が書いた音楽の一部を使いながら、コラージュしたりしたんだ。
「シェア」と「リミックス」の精神
―今日、抽象化(abstraction)ということをあなたはずっと言ってます。前作『The 7th Hand』の最後の曲「Lift」もひたすら即興を何十分も続けるような曲でした。曲を書いて録音するのではなくて、様々なアイディアを持ち寄って抽象的なものを作るというのは、ここしばらく続いているテーマなのかなと思ったのですが、どうですか?
IW:その通りだね。それと偶然(chance)ということにも興味があるよ。予想もしないことが起こるような空間を作りたいっていうか……その空間で人が自分らしくいられる場を作りたいんだ。
僕が目指しているのは、何かをするための音楽じゃなくて、人に何かしらの影響を与え、感じさせる力を持つ音楽だ。抽象性や偶然性といったラディカルなクリエイティブ空間からは、安全で、誰もが自分を表現できる、人と多くをシェアできる場を作り出せると思う。でも僕が曲をオーバーコンポーズし過ぎては、ただ書いた曲を実行するための練習になってしまい、それを実行することだけが目的になってしまう。それだと他のミュージシャンたちは、自分の意見や感性を表現できず、自分の声が反映されていると感じにくくなり、プロジェクトにおいて対等に参加しているという意識が損なわれ、本当の意味でシェアしあう環境とは言えなくなってしまう。
だから大事なのは思いやりだ。たくさんの思いやり。みんなで一緒に食事をすることにも似ているよ。大皿の料理を何皿か注文して、テーブルの全員でシェアするような感じ。毎日、僕の隣にいる人がちゃんと食事ができているかを、気にかける……それって自由な即興演奏にもどこか似てるんだ。誰もがそこに参加できるオープンな瞬間があれば、自分が食べることよりも、隣の弟や妹たちがお腹いっぱいになったかを気にできるようになる。「大丈夫? ちゃんと食べたか?」「最後の一切はお前が食べろ」ってね。
―今年の頭にミシェルにインタビューした時、「Virgo」という曲について「自分自身の新しい神話を作る必要性を感じていた。これまでにない黒人がクリエイトした新しい神話や物語が作りたかった」と話していました。『Blues Blood』もまさにそんなアルバムなのではないかなと思ったんですが、どうですか?
IW:ああ! まさにそれって、黒人の美学の中心となる考え方だと思う。ある種のリミックス精神だね。目的を与え直したり、自分の意思でそれを大きく変えたり、素材を自在に操る、という考え方。ジャズをどう考えるかにも通じていると思う。1920年代から1950年代のジャズミュージシャンはshow tuneを演奏していたが、ある時「もうメロディじゃない、重要なのはソロだ」って思うようになった。つまり曲の純粋さを守ることよりも、自分がその曲に対して何をするかが重要になったんだ。実際、リミックスはすごく重要だと思うよ。
僕とミシェルが親密に音楽的な共同作業を行うようになったのは、『Red Hot & Ra』というサン・ラへのトリビュートのプロジェクトがきっかけだったんだけど、レコーディング中も、”今ある現実に取って替わる現実”を作り上げたサン・ラの想像力について、ずっとふたりで話していた。あのプロジェクトはミシェルがサン・ラの作品を研究する上でも大きな影響を与えたと思う。そして、僕も影響を受けた。ミシェルと一緒に作業をし、話しながら、サン・ラのことを考え、彼が物事をどう捉えていたかを考えた。そして二人とも、今ある宇宙ではない宇宙の可能性、という考え方に至ったんだと思うよ。
―今回は抽象的だし、プロダクションを駆使していて、音楽的にも普通の形式ではありません。そんな中であなたはサックス奏者としてはどんなことをやろうと思ったのか、もしくはやりたくなかったのか聞かせてください。
IW:やろうと思ったのは、すごくいいソロを吹くこと(笑)。というのも、ソロを吹ける箇所が短かったからね。ボーカリストたちのためのスペースをとることを一番に考えたので、カルテットが演奏する時間は短くなってしまった。だからその限られた短い時間で出し切らなくてはならなくて、とても難しかった。1920~40年代の45回転盤レコードの時代のミュージシャンたちはこんなだったんだろうなと思ったよ。与えられた時間はコード2つか3つ分くらい、長いソロは吹けない。それが僕にとってのチャレンジだったね。
―最後に、来日公演について聞かせてください。僕の周りの若いミュージシャンやリスナーは、ようやくあなたのライブが観れることを楽しみにしています。
IW:僕も楽しみだよ。日本に行くのは、パンデミック後、初めてになる。高校の時に初めて行って以来、日本には5~6回は行ってるかな。世界で一番好きな国だよ。なので戻れるのをめちゃくちゃ楽しみにしてるし、とにかくいいギグになるのは間違いない。だって、そもそも行けるだけで幸せな国だからね(笑)。ドラマーのクウェイクは日本が初めてだから、かなり興奮してるよ。楽しいギグになるだろうね。新曲、レコーディングしてない曲、これまでのアルバムからの曲……と曲数はかなりあるけど、2日間で1日2セットずつ、毎晩、毎セット変えれば色々できる。アルバムも出たばかりってことは、ニューヨークじゃなくて、日本でリリースパーティを開催するってことになるわけだよ!
イマニュエル・ウィルキンス
『Blues Blood』
発売中
再生・購入:https://immanuel-wilkins.lnk.to/BluesBlood
イマニュエル・ウィルキンス・カルテット来日公演
2024年10月17日(木)・18日(金) ブルーノート東京
[1st] Open 5:00pm / Start 6:00pm [2nd] Open 7:45pm / Start 8:30pm
メンバー:イマニュエル・ウィルキンス(as)、ポール・コーニッシュ(p)、リック・ロサート(b)、クウェク・サンブリー(ds)
公演詳細:https://www.bluenote.co.jp/jp/artists/immanuel-wilkins/
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